最初に気づいたのは、静けさだった。
静か、というだけなら珍しくもない。けれど、ここには音がないのではなく、音を立てるものそのものが抜け落ちていた。
暗黒大陸へ落とされてからというもの、レミリアのそばには絶えず何かがいた。
どれもこれも醜く、しつこく、腹を空かせていた。
だが、ここにはいない。
羽音も、葉擦れもない。巨木の梢は空を覆っているのに、風さえ枝のあいだで死んでいた。
「……趣味の悪い静けさね」
声だけが妙に遠くまで届いた。
レミリアは歩みを緩めない。土を踏む靴音が、ひとつずつ森の奥へ置き去りになっていく。
やがて、木々の隙間に線が見えた。まっすぐな線。
根も蔓も、あんなふうには伸びない。
「建物……!」
一歩、足が速くなる。
すぐに口元を引き締め、誰も見ていない森へ咳払いをひとつ。
「文明の痕跡らしきものを確認しただけよ。別に、喜んでなんかいないわ」
近づくほどに、その異様な輪郭が露わになった。
濃緑色の八角形が幾重にも噛み合い、森の中に巨大な半球を作っている。一枚一枚がレミリアの背丈を軽々と越え、苔ひとつ付かない表面に鈍い艶を浮かべていた。細かな傷が無数に走っている。浅いもの、深いもの。何かが長い年月、外側から爪を立て続けたような傷だった。
レミリアは周囲を一周した。
扉はない。窓も継ぎ目もない。
八角形の壁は地面から生えたように盛り上がり、森の一部だけを丸ごと呑み込んでいる。
「ようやく、わくわく出来そうじゃない。紅魔館のお土産話にできそうだわ」
掌を当てた。ひやりとしたが、石の冷たさではなかった。表面のすぐ下に、もう一枚、薄い膜でも挟まっているような感触がある。レミリアは扉を探すのをやめた。一度だけ距離を取り、地面を蹴る。次の瞬間、濃緑色の壁が爆音とともに内側へ吹き飛んだ。
ばしゅっ――ごうっ!
「ほら。やっぱり何かある」
都市があった。道が縦横に走っている。寸分の狂いもない直線。その両側には、灰黒色の立方体が整然と並び、遠く中央には、それらを押し潰すほど巨大な立方体の建造物がそびえていた。
「とても文明的じゃない!」
声が高く跳ねた。誰かいるかもしれない。人間でなくてもいい。言葉が通じて、こちらを見た途端に攻撃してこない相手なら、ひとまず合格だ。少なくとも、水浴びをしているだけで皮膚の下へ潜り込んでくる魚よりはましだろう。レミリアは石畳らしき道へ降り、上機嫌に歩き出した。
十歩。二十歩。
笑みが薄くなる。
「……誰も迎えに来ないのね」
立方体のひとつへ近づいた。入口はない。隣も、その隣も同じだった。レミリアは壁を拳で叩いた。硬い音が返る。空洞の響きはない。反対側へ回ってみる。何もない。上へ飛び、屋根らしき面を覗く。そこにも何もない。
降りてきたときには、先ほどまでの笑みはすっかり消えていた。
「……建物の形をしている意味は何なのよ」
少し考え、肩を落とす。
「文明的とは……?」
翼まで力なく垂れた。道の両側に並ぶ立方体は、どれも同じだった。黒い鉱石を正確に切り出し、理由もなく並べたような街。けれど、中央の建造物だけは違った。近づくにつれ、壁の巨大さが視界を塞いでいく。表面には複雑な溝が走り、その一本一本に、乾いた緑色の膜がこびりついていた。
正面には扉もある。
観音開きの、馬鹿みたいに大きな扉。
「最初から、こっちへ来ればよかったわ」
レミリアは両手を当てた。
「扉があるなら、開けるに決まっているでしょう」
そのまま、躊躇なく力を込める。
扉の奥で、長く眠っていた何かが擦れた。
ず、ずずずず。
地面が揺れる。
扉が開くにつれ、隙間から冷気が這い出した。足首を撫で、スカートの下へ潜り込んでくる。
そこに甘く腐った臭いが混じっていた。
熟れすぎた果実と、パチュリーが地下室へ放置した古い血液瓶を混ぜたような臭い。
「……紅茶は期待できそうにないわね」
鼻に皺を寄せ、暗い通路へ足を踏み入れた。
壁も床も灰黒色で、継ぎ目がない。
石を積み上げたのではない。巨大な塊へ穴を穿ち、その中を通路として使っている。
靴底に、ごく細かな震えが伝わってきた。
止まると消える。
歩けば、また足の裏へ戻ってくる。
レミリアは壁に指を触れた。
硬い表面の奥を、何かがゆっくり流れている。
触れた場所から掌へ、微かなぬくもりが滲んだ。
「建物のくせに、ずいぶん生々しいのね」
先へ進むと、壁際に、薄い膜が貼りついていた。
人の形をしている。
頭と胴があり、二本の腕には六本ずつ指が残っている。顔にあたる部分には、三つの窪みが縦に並んでいた。
爪先でつつくと、膜はかさりと崩れ、床へ落ちた。
内側には何もない。
皮だけ。
その先にもあった。
床へ倒れたもの。
壁へ指を立てたまま固まったもの。
二体が抱き合い、どちらの腕か分からなくなっているもの。
どれも中身を抜かれ、紙より薄く乾いていた。
通路の壁には傷が残っている。深く抉れた跡。焦げた筋。溶けた床。
「ずいぶん派手に壊したのね」
足元に転がっていた器具を拾う。
細長く、先端だけが潰れている。武器にも見えるし、鍵にも見えた。
振ってみても音はしない。
「なんか、面白くないわね。もっとワクワクする感じの……」
拾ったそれを放る。
器具は床を二度跳ね、闇へ滑っていった。
進むほど、壁の内側を走る筋が太くなっていく。
やがて筋は半透明の管となり、淡い緑の光を運んでいることが見て取れた。
脈を打つたび、光が押し出される。
どの管も同じ方角へ伸びていた。
建造物の中心。
通路が途切れ、広大な空間へ出た。
天井は闇に溶けて見えない。
無数の管が壁と床を這い、中央の柱へ集まっていた。絡み合い、食い込み、太い一本の幹を形作っている。
その一部が動いた。
ゆっくり縮み、また膨らむ。
「それっぽいのが出てきたじゃないの。……管ではないわね」
表面には輪状の節。薄い粘液。縮むたび、擦れ合う肉の音が空間に広がった。巨大すぎて、初めは装置の一部にしか見えなかった。
ミミズだ。
胴体は柱へ何重にも巻きつき、その先は床や壁の穴へ潜り込んでいる。節のあいだに淡い緑の光が浮かび、それが胴を伝って柱へ流れ込んでいった。
「まあ、ここの怪物にしては、今のところ悪くない造形かしら」
ミミズは身じろぎひとつしなかった。
レミリアの声にも、靴音にも、紅い魔力にも反応しない。ただ柱へ口をつけ、穴の奥から吸い上げた光を管へ送り続けている。レミリアは、もう観察には飽きていた。消し飛ばそうと指先へ魔力を集めた。
そのとき、死骸の陰で何かが瞬いた。
柱の根元に、薄い板が立っている。
石でも金属でもない。黒く滑らかな表面に、文字も模様も見当たらない。ただ内側で、糸のような光がゆっくりと這っていた。
「何かしら、これ」
近づくと、板の中央へ緑の光が集まり、掌ほどの輪を描いた。
罠の気配はある。
だからどうした、とレミリアは鼻で笑い、そのまま手を置いた。
白い光が、眼球の裏へ突き刺さった。
――だから、気をつけろ。
そう聞こえた気がした。
◇
それは、泥の底に沈んだ古い記憶の断片だった。
硬く湾曲した空洞がどこまでも続いている。どこからか入り込んだ生命体は、巨大な裂け目に身を潜め、深い溝の中で互いに身を寄せ合った。そうして、吹き込む雨と夜の冷気をしのいだ。
やがて彼らは、硬い内壁を削り始めた。欠片を積み、箱を作り、その上へまた箱を重ねた。いつしか屋根は道になり、道の下には街ができていた。そして彼らは、足元に横たわる巨体の価値に気づいた。
大地へ穴が穿たれ、太い管が差し込まれる。管の中を、脈打つ淡い光が流れていった。最初の灯がともった。空洞を満たしていた夜が押し返される。箱は塔へ変わり、その屋根を繋ぐように道が延びた。やがて道の下にも建物が増え、巨体の内側には、もう一つの大地と呼べるほどの街が広がっていった。
街が白く輝いていた。次の像では、管の光が弱っていた。六本指の者たちが何度も計器を叩き、暗くなった建造物を見上げている。さらに次の像。細長い生き物が運び込まれていた。今、柱へ巻きついているものより、ずっと小さい。
ミミズは穴の奥へ放たれた。直後、消えかけていた建造物の灯が一斉に蘇った。やがてそこには、夜を必要としない都ができあがった。
◇
広間の両端で、二つの群れが向かい合っていた。一方の背後には、白く輝く都。幾重にも重なる塔と、光に満ちた道。もう一方には、細く萎んだ管と、動きを失いつつある巨体。誰かが立ち上がる。卓が叩かれ、模型が床へ落ちた。像が激しく乱れた。
再び像が戻ったとき、ミミズの数はさらに増えていた。管を流れる光は、糸のように細い。
警告する者たちは、何度も巨体を指した。
だが、向かい側の群れは建造物を指し続けた。
ミミズだけが、次々に運び込まれた。
一匹、二匹、十匹。
やがて床を埋め、互いの身体に重なり、数える意味さえ失われた。
それでも、まだ増え続けた。
◇
街が白く輝いた。
建物も、道も、歩く者たちの姿も、影を失っていた。
光がひときわ強くなる。
直後、管が裂けた。
緑色の液体が噴き出し、近くにいた者たちを押し流す。液体は低い場所へ集まり、瞬く間に街路を満たしていった。
囲いの中で、ミミズたちが一斉に身をよじった。
壁が割れる。檻が倒れる。
這い出したミミズは、巨体の奥へ向かって穴の中へ潜り始めた。
火を放つ者がいた。刃物を振り下ろす者がいた。その傍らで、なお装置へすがる者たちがいた。管に残った光を、最後まで吸い上げようとしていた。火が走り、壁が崩れた。いくつもの腕が絡み合い、互いの喉へ指が食い込んだ。
誰かが倒れる。
その身体を踏み越えて、別の誰かが装置へ手を伸ばす。
中央の機械が傾いた。
地響きを立てて倒れる。
それでも、ミミズは止まらなかった。
巨体から吸った。
裂けた管へ群がった。
やがて、逃げ惑う者たちの身体にも口をつけ始めた。
灯がひとつ消えた。少し離れた場所で、もうひとつ。
街の端から、闇が戻ってくる。
光に慣れきっていた都の輪郭が、ゆっくりと消えていった。
その暗がりの中を、ひとりの影が走っていた。
胸に、薄い板を抱えている。
転ぶ。
それでも抱えたものを拾い、また立ち上がる。
何度も足を取られながら、中央へ向かっていた。
だが、その姿も途中で崩れ落ちた。
腕の中のものだけが、床を滑っていく。
最後の灯が明滅した。そして、消えた。
あとに残ったのは闇だった。
その中で、湿った節が擦れ合う音だけが、いつまでも続いていた。
◇
レミリアは手を離した。
指先が板の表面を滑り、爪がかすかな音を立てる。
視界が戻った。
広間の中央に立つ柱。
管を満たす、淡い緑の光。
それを吸い続ける、巨大なミミズ。
足元の床が、わずかに傾いている。
都市を載せていたもの。
山よりも巨大な亀の甲羅の中に、この街は築かれていた。
建造物の外側を覆っていた、濃緑の板。
規則正しく重なる、八角形の硬い表面。
甲羅だ。
この都市は、山より巨大な亀から命を吸い上げていた。
そして住民が滅びたあとも、ミミズだけが教え込まれた役目を続けている。
柱へ巻きついた巨体が、ゆっくりと縮んだ。
管の中から、緑の光が一筋引き抜かれる。
足元で、低い震えが起きた。
亀が身じろぎしたのか。
それとも、死にきれない肉が痙攣しただけなのか。
「主人もいないというのに、まだ働いているの?」
レミリアは巨大なミミズを見上げた。
「躾がいいにも程があるわ」
節と節のあいだで、吸い込まれた緑の光がぼんやりと透けていた。
また、ひとつ。 命が吸われた。
レミリアの指先に、紅い火が灯る。
滅びた都。とうに消えた主人。
それでも命じられた役目だけを守り、死にきれない巨体から命を吸い続ける寄生虫。
なぜだろう。その姿が、ひどく気に入らなかった。
理由など、それだけで十分だった。
――運命
掲げた手に、紅い魔力が集まる。
指先から伸びた光が細い鎖となり、空中で幾重にも枝分かれした。
――ミゼラブルフェイト
紅の鎖が広間を駆け抜けた。
柱に巻きついていた巨大なミミズを貫き、その内側から焼き尽くす。身を隠していた小さな個体が床の裂け目から這い出したが、逃げる間もなく別の鎖に絡め取られ、紅い炎の中で崩れ落ちた。
鎖は止まらない。管を辿り、壁の穴へ潜り込み、建造物の外へ飛び出していく。甲羅の内側を這う無数の通路へ枝分かれし、暗がりに潜むものも、肉の奥へ食らいつくものも、一匹残らず追い立てていった。
遠くで、何かが弾ける音がした。続いて、濡れたものが焼け焦げる臭いが流れてくる。甲羅の奥深くまで満たしていた蠢きが、ひとつ、またひとつと途絶えていった。
やがて紅い鎖が消えた。
あとに残ったのは、最初にここへ足を踏み入れたときと同じ静けさだった。
だが、今度の静けさには、何かを啜る音がない。
「これで終わりね」
レミリアは指先に残った火を振り払った。都市は滅び、探していた手掛かりも見つからなかった。ここに残っていたのは、役目を失った装置と、それに従い続ける寄生虫だけだ。
「はあ……成果なしじゃない。せめて、帰るための手掛かりくらい残しておきなさいよ」
誰にともなく文句をこぼし、来た道を引き返す。砕いた甲羅の穴から外へ出ると、森には相変わらず風ひとつ吹いていなかった。レミリアは宙へ浮かぶ。
そのまま都市をあとにしようとした、そのときだった。
ずずずずず……。
足元の大地が、ゆっくりと盛り上がった。巨木が傾き、根が引きちぎられる。土砂が滝のように滑り落ち、森そのものが左右へ割れていく。
地面だと思っていたものが持ち上がっていた。やがて土と木々の下から、記録の中で見たものと同じ巨大な頭が現れた。山よりも大きな亀は長い首を伸ばし、何度かゆっくりと瞬きをした。
それはレミリアを見ることはなかった。
ただ、深い眠りから覚めたように脚を踏み出す。
ずしん。
一歩ごとに森が揺れた。
ずしん。
滅びた都市を背負ったまま、巨大な亀は木々を掻き分け、どこか遠くへ歩き始める。
「ふぅん、まあ、悪くないんじゃないの」
レミリアは腕を組み、その背中が森の向こうへ消えていくまで見送った。