レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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6.暗黒大陸⑤

 正体不明の獣に追われ、レミリアは森を駆け続けていた。

 枝を払い、根を飛び越え、ようやく気配を振り切った――はずだ。

 

「まいた……わね」

 

 レミリアは立ち止まって、一息ついた。

 腐葉土の臭いに混じって、かすかに懐かしい香りがした。

 

 火を使った、生活の匂いだった。

 

「……お茶?」

 

 この大陸には不似合いなほど芳しい。

 

 紅魔館を飛ばされて以来、まともなものを口にしていない。

 レミリアの足は、考えるより先に香りを追っていた。

 

 ところが、木立をいくつか抜けたところで、その痕跡は唐突に途絶えた。

 

「……おかしいわね」

 

 確かに、この近くから漂っていた。人間の足音も聞こえたような気がしたが、意識を向けた途端、それさえ森のざわめきに紛れてしまった。

 

 見渡す限り、同じような巨木と草むらが続いている。

 やはり変わっていない。

 

「やっぱりおかしいわ! きっとこの辺になんかあるわ!」

 

 レミリアは周囲へ、薄く紅い霧を広げた。

 

 霧は木々の間を抜け、草の葉を濡らし、空間を紅く縁取っていく。やがて一か所だけ、何もない空間を避けるように、不自然な輪郭を描いた。

 

 景色に溶け込むのではなく、見た者の意識から滑り落ちるように作られていた。

 近づいて指を伸ばす。薄く柔らかなものが触れた。

 

 背景と同じ色へ変わり続ける、無数の羽毛だった。

 かつて空で襲ってきた、あの透明な鳥たちの羽によく似ていた。それらを緻密に編み込み、巨大な幕に仕立てたらしい。

 

 レミリアが羽毛の幕を左右へ押し分ける。森の景色が歪み、その向こうから、小さな野営地が現れた。

 

 平たい石を組んだ炉。その上では鉄鍋が火にかけられ、薄茶色の液体がくつくつと煮立っている。木の枝を組んだ物干しには、薬草や木の実、干し肉が吊るされていた。丸められた寝具に、使い込まれた背嚢。幕の内側には、用途の分からない瓶や道具が整然と並んでいる。

 

 その中心に、男がいた。

 

 年齢は四十前後に見える。伸び放題の黒髪を後ろで雑に束ね、頬には無精髭を生やしている。何度も繕われた外套をまとい、片手で鉄鍋をかき混ぜていた。

 

 男は羽毛の擦れる音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。

 

「おい、乱暴に触るなよ。その幕を仕立てるのに三か月かかったんだぞ」

 

 レミリアは目を見開いた。

 

「言葉が通じる相手なんて初めてよ」

 

「そりゃよかったな。俺も久しぶりだ」

 

 男はレミリアを上から下まで眺めた。

 帽子。泥と血に汚れたドレス。背中の翼。最後に紅い瞳を見て、わずかに首を傾げる。

 

「……何だ、お前」

 

「それは私の台詞よ。こんなところで何をしているの?」

 

「見りゃ分かるだろ。茶を煮てる」

 

 確かに、見れば分かる。

 しかし聞きたいのは、そういうことではなかった。

 

 男から敵意は感じられない。

 間違いなく人間である。それなのに、男の気配は、周囲の草木よりも薄かった。

 

 ひとつの言葉が浮かぶ。

 

 ――絶。

 

 男は何事もないように、鍋をかき回している。

 

 不意に、遠くで地面が震えた。

 レミリアの耳が、近づいてくる重い足音を捉える。男の手も止まった。

 

「お前、何か連れてきたか?」

 

「まいてきたわよ」

 

「まけてねえぞ」

 

 男は鉄鍋へ素早く蓋をすると、炉の脇に置かれていた灰色の粉を火へ放り込んだ。

 

 ぱちり、と火が爆ぜる。

 直後、茶と煙の香りが消え、代わりに湿った樹皮のような臭いが野営地を満たした。

 

「幕から手を離して、中へ入れ。動くな」

 

「命令しないでちょうだい」

 

「なら、ここから出ていけよ。俺は静かに茶を飲みてぇ。お前は命令されたくねぇ。お互い、それでちょうどいいだろ」

 

 レミリアは、獣どもへ叩きつけるつもりだった魔力を、渋々霧散させた。

 

「……悪かったわよ」

 

 男は羽毛の幕を慎重に戻し、足元にあった革袋を拾った。

 

 地響きが近づいてくる。

 先ほどの獣たちだ。枝を踏み砕く音と、湿った鼻息が、すぐそこまで近づいていた。

 

 男は革袋の口を開けると、赤黒く染まった布切れを取り出した。それを細い筒へ押し込み、羽毛の隙間から森の奥へ向けて、一息に吹き飛ばす。血の染み込んだ布は風に乗り、野営地とは反対の方角へ消えた。直後、巨大な影が羽毛の幕の向こうを横切った。

 

 一頭が野営地の手前で止まり、鼻先を地面へ這わせた。やがて飛ばされた布の臭いを拾うと、短く吠え、群れごと森の奥へ走り去った。

 

 地響きが遠ざかる。

 

 群れの気配が完全に消えてから、男は灰の中を棒で掻き回した。消えたように見えた火が、再び小さく燃え上がる。

 

「まったく。幕を乱すわ、獣を連れてくるわ。迷惑な客だな」

 

「招いたのは、あのお茶の香りのせいじゃない?」

 

「なら、次も茶を淹れておくか」

 

 男が鉄鍋の蓋を開けると、再び茶の香りが漂ってきた。

 

「……それ、私にも寄越しなさいよ」

 

「自分でとってきな」

 

「紅魔館へ来れば、私に茶を出すことがどれほど名誉なことか分かるわ」

 

「知らんよ、そんな館」

 

 口では文句を言いながらも、男は木製の器へ茶を注いだ。レミリアは受け取り、まず香りを確かめる。香ばしく芳しい。口をつけると、強い苦味の奥から、草の青さと、かすかな甘みがほどけていく。

 

「……へぇ、美味しいじゃない!」

 

「そいつは結構。癖になる苦さだろ」

 

 久しぶりに口にした温かな飲み物は、身体の奥へじんわりと染み込んだ。

 

 レミリアは手近な木箱へ腰を下ろした。

 男も止めようとはしなかった。鍋のそばに座り、自分の器へ茶を注ぐ。

 

「で、お前はこんなところで何をしてる?」

 

「好きで来たわけじゃないわ。友人の魔導書に触れたら、ここへ飛ばされたのよ」

 

「魔導書ねえ」

 

 男の目が、わずかに細くなった。

 

「どこから来た?」

 

「幻想郷よ。知らない?」

 

「なんだそりゃ。新しい大陸か?」

 

「大陸じゃないわ。外の世界から忘れられた神や妖怪が暮らす所よ」

 

「地図にもない場所か」

 

 男は傍らの小さな机へ手を伸ばし、一冊の薄い手帳を取った。

 

「ゲンソウキョウ、だったか」

 

「ちょっと。なぜ書き留めるのよ」

 

「知らない場所を聞いたからだ。忘れるともったいない」

 

 返事も待たず、男は、聞いたままの音を書きつけていく。

 

「そういうあなたは、どれくらいここにいるの?」

 

 男は手を止め、少しだけ考えた。

 

「三百年くらいか」

 

「……三百?」

 

「途中から数えるのをやめたから、多少はずれてる」

 

「人間にしては、ずいぶん長生きじゃない」

 

「ここには、うまい米があってな」

 

 男は荷物の中から小さな布袋を取り出した。

 掌へ落としたのは、乳白色の艶を帯びた米だった。

 

「食ってると、やたら長生きするんだ」

 

「はぁ、何でもありね」

 

「あぁ、世界は面白いからな」

 

 男は米を布袋へ戻し、今度はレミリアを見た。

 

「そういうお前は、見たところ十歳くらいじゃねえか」

 

「失礼ね。私は五百年生きた吸血鬼よ」

 

「五百歳の吸血鬼?」

 

「そうよ。だから私のほうがお姉さんね。敬いなさい」

 

「そいつは悪かったな、姉ちゃん」

 

「まったく敬意が感じられないんだけど」

 

「五百年生きて、その格好で森を走り回ってる奴をどう敬えばいいんだよ」

 

 男の視線が、泥まみれのドレスへ落ちる。

 レミリアは咳払いし、誤魔化すように茶を飲んだ。

 

「それにしても、あなた。弱そうなのによくここで生きていられるわね」

 

 男から感じる力は、先ほどまで追ってきた獣はおろか、森を這う小さな虫よりも弱く思えた。

 

「そりゃよかった」

 

 男は気を悪くするどころか、満足そうに頷いた。

 

「何がよ」

 

「強そうに見えて、化け物に寄ってこられたら困るだろ」

 

「弱そうに見えても、向こうから襲ってくるでしょう」

 

「なら逃げりゃいい」

 

「邪魔なら倒した方が早いじゃない」

 

 男の器が、口元で止まった。

 泥と血に汚れたドレスを、改めて眺める。

 

「……お前、ここまで怪物とまともに戦ってきたのか?」

 

「まともに、というのは?」

 

「正面からだよ」

 

「向こうが正面から来たもの」

 

「逃げるって選択は?」

 

「さっきやったわね」

 

「逃げ切れてなかったじゃねぇか。お前、ここへ来てから何回死にかけた?」

 

 レミリアは答えなかった。

 

 巨鳥に腕を奪われた。

 得体の知れない殺意に侵され、自分で自分の頭を吹き飛ばした。

 

 数えたくもない。

 

「俺なら、死にかける前に逃げるけどな」

 

「……ずいぶん臆病なのね」

 

「三百年生きた臆病者と、数日で血まみれになった五百歳。どっちが賢いと思う?」

 

「やっぱり喧嘩を売っているでしょう!」

 

 レミリアが声を荒らげても、男は楽しそうに茶を啜るだけだった。

 

 腹立たしい。

 だが、不思議と嫌いではなかった。

 

 この男は、レミリアを恐れていない。かといって、侮っているわけでもない。ただ、自分とはまるで違う方法で、この大陸を生きている。

 

 男は再び、手帳へ何かを書き始めた。その傍らには、手帳とは比べものにならないほど分厚い本が置かれていた。表紙は泥と乾いた血に汚れ、角という角が擦り切れている。背表紙は異なる革を継ぎ合わせ、何度も補修されていた。それでも、中央に刻まれた文字だけは、はっきりと読み取れる。

 

 『新大陸紀行・西』

 

 その題を見た瞬間、断片がつながった。

 人間の世界に残されているのは『東』だけ。

 存在さえ確認されていない『西』を持ち、三百年もの間、この大陸を歩き続けている人間。

 

 名が浮かび上がる。

 

「……ドン=フリークス」

 

 紙の上を走っていたペンが、ぴたりと止まった。

 今度は男が、探るようにレミリアを見る。

 

「なんで俺の名前、知ってんの?」

 

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