パチュリー・ノーレッジは焦っていた。
大図書館で見覚えのない魔導書を調べていたところ、親愛なるレミィ――レミリア・スカーレットが、横から勝手に魔導書に触れてしまったのだ。
次の瞬間、レミリアの姿は跡形もなく消え去った。おそらく、どこかへ飛ばされてしまったのだろう。すぐさま探索魔法を使ってみたものの、幻想郷のどこにもレミリアの気配は感じられない。
これは、まずい。
「咲夜ー! ちょっと来て!」
パチュリーが声を張り上げると、ほとんど間を置かず、背後に人影が現れた。
「はい、パチュリー様」
紅魔館の瀟洒なメイド、十六夜咲夜である。
パチュリーは魔導書を指しながら、これまでの経緯を説明した。
かくかくしかじか。
「えっ、お嬢様が消えたんですか?」
さすがの咲夜も、わずかに目を見開いた。
「そうなのよ!」
パチュリーが勢いよく頷く。
すると咲夜は、何かを納得したように小さく息をついた。
「では、今日はお休みですね」
「どうしてそうなるのよ!」
あまりにも自然な口調だったため、パチュリーは一瞬、聞き流しかけた。
「あなたの主人でしょう!」
「お嬢様でしょう?」
咲夜は不思議そうに首を傾げる。
「どうせ、そのうち何事もなかったように帰ってきますよ。それまでは羽を伸ばしても罰は当たりませんわ」
「あのねぇ……」
パチュリーはこめかみを押さえた。
「さっきも説明したけれど、幻想郷ではない、どこか遠い場所へ飛ばされた可能性があるのよ? お風呂にだって入れていないかもしれないわ」
「はぁ……。それは耐えられないかもしれませんね」
咲夜の表情が、にわかに曇る。
ようやく事態の重大さを理解したのかと、パチュリーは少しだけ安堵した。
「でしょう?」
「主に、私の鼻が」
「あなたってば……!」
咲夜は冗談を言っている様子でもなく、真顔だった。
パチュリーは深いため息をつく。
「もういいわ」
思わずそう言ってしまったものの、内心ではひどく困惑していた。
十六夜咲夜の忠誠心が、これほどまでに浅かったとは思わなかった。
レミリアは今頃、想像もつかないような危険な場所で苦労しているに違いないというのに。
「……ねぇ、咲夜」
少し目を離した隙に、咲夜はなぜか大きな荷物を抱えていた。
「あなた、何をしているの?」
「お嬢様がいなくなったので、湖で水浴びでもしようかと」
咲夜は当然のように答え、荷物の中身を確認し始める。
紅魔館の目の前には、霧の湖が広がっている。
確かに避暑にはちょうどよい場所だ。
それにしても。
「椅子にジュースにサングラスって……どれだけ本気で休むつもりなのよ」
パチュリーが荷物をのぞき込むと、日傘やタオルのほか、浮き輪まで入っていた。
「お嬢様が館を離れることなんて、めったにありませんからね」
咲夜はサングラスを持ち上げ、満足そうに眺める。
「今が好機です」
「主人の不在を好機と言わないでちょうだい」
そんな話をしていると、廊下の向こうから、中華服を着た門番がのんびりと歩いてきた。
「あら、咲夜さんじゃないですか」
紅美鈴は咲夜の荷物を見ると、興味深そうに目を丸くした。
「美鈴。門番はどうしたの?」
「休憩中ですってば」
美鈴は悪びれもせず答える。
「それより、なんですか、その格好は。どこかへ出かけるんですか?」
「レミリアお嬢様が家出したから、私たちは休暇よ」
咲夜が淡々と告げると、美鈴は「ああ」と納得したように手を打った。
「家出ではないわ。事故よ」
すかさずパチュリーが訂正する。
「それじゃあ、私も休んでいいですか?」
美鈴はパチュリーの問いを軽やかに聞き流し、咲夜へ笑顔を向けた。
「いいわね。一緒に行きましょう」
「あなたたち、少しは心配しなさいよ!」
パチュリーの制止も聞かず、咲夜と美鈴は連れ立って湖へ向かっていった。
それから、わずか数分後。
湖のほとりには、パラソル、デッキチェア、色鮮やかな飲み物、さらには巨大なアイスフロートまで用意されていた。咲夜の能力を使ったとしても、あまりに準備がよすぎる。まるで以前から、この機会を待ち望んでいたかのようだった。パチュリーは湖畔の二人を遠巻きに眺め、盛大にため息をつくと、大図書館へ戻った。
改めてレミリアの人望が、ここまで低かったとは思いもしなかった。
「……まぁ、仕方ないわね」
気を取り直し、レミリアを連れ去った魔導書について調査を始める。
幸いなことに、原因そのものは、わりとあっさり判明した。
魔導書に組み込まれた魔法術式が、接触した者を遠く離れた場所へ送り出したらしい。
あとは、術式の行き先を読み解くだけ。ただ次元を超えている可能性があるため油断はならない。だがそこまで分かれば、賢者たるパチュリーの手にかかれば、どうにでもなるはずだった。
パチュリーにとって問題があるとすれば、この大図書館には、意外と多くの者が出入りするということだった。
そして、今まさに。
ーー禁忌 レーヴァテイン!
ーー魔符 スターダストレヴァリエ!
地下で暮らす吸血鬼の妹と、泥棒癖のある普通の魔法使いが、図書館の中で弾幕ごっこを始めていた。赤い魔剣と星形の弾幕が、書架の合間を派手に飛び交っている。
「図書館で遊ぶなって、何度言えば分かるのよ!」
パチュリーは机を叩いて立ち上がった。
しかし、二人は戦いに夢中で、まるで聞く様子がない。
何より、紅魔館の主人が不在であるせいか、館の住人も侵入者も、すっかり好き放題だった。
「美鈴はどうしたのよ! 門番でしょう!」
パチュリーが飛んでくる星弾を払いながら叫ぶ。
「あいつなら湖で水浴びしてたぜ!」
黒白の魔法使い――霧雨魔理沙は、軽快に答えながら、フランドールのレーヴァテインを颯爽とかわした。
「今日こそ撃ち落としてあげる!」
フランドールが楽しそうに笑い、燃え盛る魔剣を大きく振り払う。
「ちょっと、そっちには――」
パチュリーが止めるより早く、炎の刃が書架の一角を薙いだ。
その先には、例の魔導書が置かれていた。
偶然だった。
そう。
あくまで、偶然だった。
ぼわっ。
魔導書が燃え上がった。
パチュリーは、目の前で起きたことを理解できずに硬直した。
やがて喉の奥から、声にならない悲鳴が漏れる。
「あ゛あ゛あ゛あ゛ーっ!」
レミリアの行方を知る、唯一の手がかりが炎に包まれていた。
慌てて消火の魔法を放ったものの、時すでに遅い。
魔導書は黒く焦げ、読める文字など一つも残っていなかった。
「あっ」
フランドールが小さく声を上げる。
「おっと」
魔理沙も帽子のつばを持ち上げ、燃え尽きた本を見た。
二人はしばらく沈黙したあと、互いに顔を見合わせる。
「場所、変えよっか」
「そうだな。ここは危ないぜ」
パチュリーが何か言う前に、二人は素早く図書館を飛び出していった。
ほどなくして、遠くの廊下から再び爆発音が聞こえてくる。
パチュリーは、灰となった魔導書の前で力なく膝をついた。
「これから、どうやってレミィを助ければいいのよ……」
灰をすくい上げてみても、当然ながら何も読み取れない。
パチュリーが途方に暮れていると、図書館の入口から控えめな声が聞こえた。
「パチュリー様」
振り返ると、水着姿の咲夜が立っていた。
片手には、冷たい飲み物が入ったグラスを持っている。
「パチュリー様も、ご一緒にいかがですか?」
パチュリーは咲夜を見た。
次に、灰になった魔導書を見る。
さらに、煙を上げ始めた廊下の向こうへ視線を向けた。
何かが爆発し、フランドールの楽しそうな笑い声が響いてくる。
「……ええ。そうね」
パチュリーは、ゆっくりと立ち上がった。
「もう、どうにでもなればいいわ」
やがてパチュリー、咲夜、美鈴の三人は、ところどころから煙を上げる紅魔館を背景に、湖畔で束の間の休暇を楽しんでいた。
パラソルの下には冷たいジュースとアイスフロート。
足元にはビーチボールまで用意されている。
美鈴は浮き輪に身を預け、湖の上をゆっくりと漂っていた。
パチュリーはデッキチェアに深く腰かけ、もう何も見なかったことにして本を読んでいる。
「はぁ……。お嬢様は、今頃何をしているのかしら」
咲夜はジュースの入ったグラスを片手に、主人が座るべき空席を見つめた。
日傘の下には、レミリアのために用意された小さな椅子がある。
その表情には、ほんの少しだけ寂しさが浮かんでいた。
しかし、冷たい風が湖を渡り、グラスの氷が涼しげな音を鳴らすと、その寂しさはすぐに薄れていった。
「まあ、お嬢様ですからね」
咲夜はジュースを一口飲み、満足そうに息をつく。
「どうせ、何の苦労もしていませんわ」
その頃、暗黒大陸の奥地では。
全身を泥と血にまみれさせたレミリアが、巨大な獣の群れから必死に逃げていることを誰も知らなかった。