正体不明の獣に追われ、レミリアは森を駆け続けていた。
枝を払い、根を飛び越え、ようやく気配を振り切った――はずだ。
「まいた……わね」
レミリアは立ち止まって、一息ついた時。
湿った土と腐葉土の臭いに混じって、かすかに懐かしい香りがした。
湿気を含む温かな火を使った生活の匂い。
「……お茶?」
嗅いだことのない香りだ。この大陸には不似合いなほど芳しい。
紅魔館を飛ばされて以来、まともなものを口にしていない。
レミリアの足は、考えるより先に香りを追っていた。
ところが、木立をいくつか抜けたところで、その痕跡は唐突に途絶えた。
「……おかしいわね」
風向きが変わったわけではない。確かに、この近くから漂っていた。人間の足音も聞こえたような気がしたが、意識を向けた途端、それさえ森のざわめきに紛れてしまった。
見渡す限り、同じような巨木と草むらが続いている。
やはり変わっていない。
「やっぱりおかしいわ! きっとこの辺になんかあるわ!」
レミリアは周囲へ、薄く紅い霧を広げた。
霧は木々の間を抜け、草の葉を濡らし、空間を紅く縁取っていく。やがて一か所だけ、何もない空間を避けるように、不自然な輪郭を描いた。気づいてしまえば、それは擬態ですらなかった。
景色に溶け込むのではなく、見た者の意識から滑り落ちるように作られていた。
近づいて指を伸ばす。薄く柔らかなものが触れた。
背景と同じ色へ変わり続ける、無数の羽毛だった。
かつて空で襲ってきた、あの透明な鳥たちの羽によく似ていた。それらを緻密に編み込み、巨大な幕に仕立てたらしい。
レミリアが羽毛の幕を左右へ押し分ける。森の景色がぐにゃりと歪み、その向こうから、小さな野営地が現れた。平たい石を組んだ炉。その上では鉄鍋が火にかけられ、薄茶色の液体がくつくつと煮立っている。
木の枝を組んだ物干しには、薬草や木の実、干し肉が吊るされていた。丸められた寝具に、使い込まれた背嚢。幕の内側には、用途の分からない瓶や道具が整然と並んでいる。
その中心に、男がいた。
年齢は四十前後に見える。伸び放題の黒髪を後ろで雑に束ね、頬には無精髭を生やしている。何度も繕われた外套をまとい、片手で鉄鍋をかき混ぜていた。
男は羽毛の擦れる音に気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「おい、乱暴に触るなよ。その幕を仕立てるのに三か月かかったんだぞ」
現れた少女より、まず羽毛の心配をした。
だがレミリアは、そんな態度よりも別のことに驚いていた。
レミリアは目を見開いた。
「言葉が通じる相手なんて初めてよ」
「そりゃよかったな。俺も久しぶりだ」
男はレミリアを上から下まで眺めた。
帽子。泥と血に汚れたドレス。背中の翼。最後に紅い瞳を見て、わずかに首を傾げる。
「……何だ、お前」
「それは私の台詞よ。こんなところで何をしているの?」
「見りゃ分かるだろ。茶を煮てる」
確かに、見れば分かる。
しかし聞きたいのは、そういうことではなかった。
男から敵意は感じられない。
間違いなく人間である。それなのに、目の前の男の気配は、周囲の草木よりも薄かった。取り込んだ知識の底から、ひとつの言葉が浮かぶ。
――絶。
不意に、遠くで地面が震えた。
レミリアの耳が、近づいてくる重い足音を捉える。鍋をかき回していた男の手も止まった。
「お前、何か連れてきたか?」
「まいてきたわよ」
「まけてねえぞ」
男は鉄鍋へ素早く蓋をすると、炉の脇に置かれていた灰色の粉を火へ放り込んだ。
ぱちり、と火が爆ぜる。
直後、茶と煙の香りが消え、代わりに湿った樹皮のような臭いが野営地を満たした。
「幕から手を離して、中へ入れ。動くな」
「命令しないでちょうだい」
「なら、ここから出ていけよ。俺は静かに茶を飲みてぇ。お前は命令されたくねぇ。お互い、それでちょうどいいだろ」
レミリアは、獣どもへ叩きつけるつもりだった魔力を、渋々霧散させた。
「……悪かったわよ」
男は羽毛の幕を慎重に戻し、足元にあった革袋を拾った。
地響きが近づいてくる。
先ほどの獣たちだ。枝を踏み砕く音と、湿った鼻息が、すぐそこまで近づいていた。
男は革袋の口を開けると、赤黒く染まった布切れを取り出した。それを細い筒へ押し込み、羽毛の隙間から森の奥へ向けて、一息に吹き飛ばす。血の染み込んだ布は風に乗り、野営地とは反対の方角へ消えた。直後、巨大な影が羽毛の幕の向こうを横切った。
一頭が野営地の手前で止まり、鼻先を地面へ這わせた。だが二人には気づかない。やがて飛ばされた布の臭いを拾うと、短く吠え、群れごと森の奥へ走り去った。
地響きが遠ざかる。
群れの気配が完全に消えてから、男は灰の中を棒で掻き回した。消えたように見えた火が、再び小さく燃え上がる。
「まったく。幕を乱すわ、獣を連れてくるわ。迷惑な客だな」
「招いたのは、あのお茶の香りのせいじゃない?」
「なら、次からは茶の香りを隠さないでおくか」
男が鉄鍋の蓋を開けると、再び茶の香りが漂ってきた。
「……それ、私にも寄越しなさいよ」
「自分でとってきな」
「紅魔館へ来れば、私に茶を出すことがどれほど名誉なことか分かるわ」
「知らんよ、そんな館」
口では文句を言いながらも、男は木製の器へ茶を注いだ。レミリアは受け取り、まず香りを確かめる。香ばしく芳しい香りだ。口をつけると、強い苦味の奥から、草の青さと、かすかな甘みがほどけていく。
「……へぇ、美味しいじゃない!」
「そいつは結構。癖になる苦さだろ」
久しぶりに口にした温かな飲み物は、身体の奥へじんわりと染み込んだ。
レミリアは手近な木箱へ腰を下ろした。
男も止めようとはしなかった。鍋のそばに座り、自分の器へ茶を注ぐ。
「で、お前はこんなところで何をしてる?」
「好きで来たわけじゃないわ。友人の魔導書に触れたら、ここへ飛ばされたのよ」
「魔導書ねえ」
男の目が、わずかに細くなった。
「どこから来た?」
「幻想郷よ。知らない?」
「なんだそりゃ。新しい大陸か?」
「大陸じゃないわ。外の世界から忘れられた神や妖怪が暮らす所よ」
「地図にもない場所か」
男は傍らの小さな机へ手を伸ばし、一冊の薄い手帳を取った。
「ゲンソウキョウ、だったか」
「ちょっと。なぜ書き留めるのよ」
「知らない場所を聞いたからだ。忘れるともったいない」
返事も待たず、男は、聞いたままの音を書きつけていく。
ペン先に迷いはなかった。
「そういうあなたは、どれくらいここにいるの?」
男は手を止め、少しだけ考えた。
「三百年くらいか」
「……三百?」
「途中から数えるのをやめたから、多少はずれてる」
目の前の男は、どう見ても四十前後だった。変わった所は特段ない。
「人間にしては、ずいぶん長生きじゃない」
「ここには、うまい米があってな」
男は荷物の中から小さな布袋を取り出した。
掌へ落としたのは、乳白色の艶を帯びた米だった。
「食ってると、やたら長生きするんだ」
「はぁ、何でもありね」
「あぁ、世界は面白いからな」
男は米を布袋へ戻し、今度はレミリアを見た。
「そういうお前は、見たところ十歳くらいじゃねえか」
「失礼ね。私は五百年生きた吸血鬼よ」
「五百歳の吸血鬼?」
「そうよ。だから私のほうがお姉さんね。敬いなさい」
「そいつは悪かったな、姉ちゃん」
「まったく敬意が感じられないんだけど」
「五百年生きて、その格好で森を走り回ってる奴をどう敬えばいいんだよ」
男の視線が、泥まみれのドレスへ落ちる。
レミリアは咳払いし、誤魔化すように茶を飲んだ。
「それにしても、あなた。弱そうなのによくここで生きていられるわね」
男から感じる力は、先ほどまで追ってきた獣はおろか、森を這う小さな虫よりも弱く思えた。
「そりゃよかった」
男は気を悪くするどころか、満足そうに頷いた。
「何がよ」
「強そうに見えて、化け物に寄ってこられたら困るだろ」
「弱そうに見えても、向こうから襲ってくるでしょう」
「なら逃げりゃいい」
「邪魔なら倒した方が早いじゃない」
男の器が、口元で止まった。
泥と血に汚れたドレスを、改めて眺める。
「……お前、ここまで怪物とまともに戦ってきたのか?」
「まともに、というのは?」
「正面からだよ」
「向こうが正面から来たもの」
「逃げるって選択は?」
「さっきやったわね」
「逃げ切れてなかったじゃねぇか。お前、ここへ来てから何回死にかけた?」
レミリアは答えなかった。
巨鳥に腕を奪われた。
得体の知れない殺意に侵され、自分で自分の頭を吹き飛ばした。
数えたくもない。
男は、レミリアの沈黙だけで察したらしい。
「俺なら、死にかける前に逃げるけどな」
「……ずいぶん臆病なのね」
「三百年生きた臆病者と、数日で血まみれになった五百歳。どっちが賢いと思う?」
「やっぱり喧嘩を売っているでしょう!」
レミリアが声を荒らげても、男は楽しそうに茶を啜るだけだった。
腹立たしい。
だが、不思議と嫌いではなかった。
この男は、レミリアを恐れていない。かといって、侮っているわけでもない。ただ、自分とはまるで違う方法で、この大陸を生きている。
男は再び、手帳へ何かを書き始めた。その傍らには、手帳とは比べものにならないほど分厚い本が置かれていた。表紙は泥と乾いた血に汚れ、角という角が擦り切れている。背表紙は異なる革を継ぎ合わせ、何度も補修されていた。それでも、中央に刻まれた文字だけは、はっきりと読み取れる。
『新大陸紀行・西』
その題を見た瞬間、胸の奥に沈んでいた断片がつながった。
人間の世界に残されているのは『東』だけ。
存在さえ確認されていない『西』を持ち、三百年もの間、この大陸を歩き続けている人間。
そんな人物の名が、泡立った記憶から連想された。
レミリアは、本から男へ視線を移した。
「……ドン=フリークス」
紙の上を走っていたペンが、ぴたりと止まった。
今度は男が、探るようにレミリアを見る。
「なんで俺の名前、知ってんの?」