レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

8 / 12
8.暗黒大陸⑦

 出発の準備は、驚くほど早く終わった。

 

 薬草と干し肉は革袋へ。炉の灰は土へ埋め、石は一つずつ元の場所へ戻す。寝具を背嚢へ括りつけ、背景へ溶け込む羽毛の幕を丁寧に折り畳んだ。最後に残ったのは、踏み固められた土だけだった。それさえドンが枝で二、三度撫でると、周囲との違いが分からなくなった。

 

「ずいぶん用心深いのね」

 

「この場所を、また使うかもしれねえからな」

 

 ドンは大きな背嚢を担ぎ、森の奥へ歩き出した。

 

「それで、帰り道はどっち?」

 

「その前に、川を一つ確かめたい」

 

 レミリアは足を止めた。

 

「まさか、二年追いかけたという、あの川?」

 

「ちょうど、帰り道にある」

 

「私を案内するついでに、自分の用事も済ませるつもりね」

 

「嫌なら一人で帰ればいい」

 

「道を知らないと言っているでしょう!」

 

 振り返りもしない男を睨みつけながら、レミリアはその後を追った。

 

    ◇

 

 ドンの歩みは速くなかった。

 

 木の根が複雑に絡んだ場所では、決まった色の根だけを踏んだ。何もいない山道は真っ直ぐ進むのに、羽虫が一匹だけ飛んでいる草原では、逆に迂回してまわった。

 

 何が安全で、何が危険なのか。レミリアにはさっぱり分からなかった。

 ただ、不意に襲われることはなかった。

 

「あの草原には何がいるの?」

 

「知らん」

 

「知らないのに避けたの?」

 

「羽虫が一匹だけ飛んでるのは、不自然だろ」

 

 それだけで十分らしい。

 

 途中、谷を塞ぐように巨大な倒木が横たわっていた。

 ドンは迷うことなく右へ曲がろうとする。

 

「どこへ行くのよ」

 

「迂回する。半日くらいだ」

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 レミリアは倒木へ片手を添えた。

 

「おい、待て」

 

 止めるより早く、倒木を片手で薙ぎ払った。

 

 巨木は地面から引き剥がされ、枝葉を撒き散らしながら森の向こうへ消えていった。遅れて、何かが潰れるような音と、獣のものらしき叫び声が響く。

 

「これで半日縮んだわ」

 

「代わりに、半日分の何かが寄ってくるな」

 

「来る前に進めばいいでしょう」

 

 ドンは少し考え、頷いた。

 

「それもそうだ」

 

 二人はそのまま足を速めた。

 

    ◇

 

 森を抜けると、巨大な裂け目が大地を分断していた。

 

 底は見えなかった。

 暗闇の奥から、絶えず水音だけが響いている。

 

 けれど、川は谷底を流れていなかった。

 

 透明な水の帯が、裂け目の底から空へ向かって昇っている。滝を逆さにしたような流れは崖の縁を越え、宙で緩やかな弧を描きながら、雲の向こうへ消えていた。

 

 空から差す青白い光を受け、水面が無数の色に輝いている。

 美しいと思ったが、暗黒大陸を褒める気にはなれなかった。

 

「これが、その川?」

 

「ああ」

 

 ドンは崖のそばへ腰を下ろし、背嚢から『西』と手帳を取り出した。

 

「二年かけて流れを追った。途中で何度も地面へ潜って、別の場所から出てきやがる。最後に辿り着いたのは海だった」

 

「海から水が上がっているなら、河口ではなく源流だったんじゃない?」

 

「だから確かめに来た」

 

「また二年かけて?」

 

「あと二日待てば流れが変わる」

 

「二日?」

 

 レミリアは露骨に顔をしかめた。

 

「そんなに待っていられないわ」

 

「未知を相手に急ぐな。向こうは逃げねえよ」

 

「二年も追いかけて逃げられた人が言う台詞?」

 

 ドンは答えず、手帳へ時刻と流れの向きを書き始めた。

 レミリアは崖の縁へ立ち、水の帯を見上げる。

 

 風が渡るたび、その表面に銀色の粒が生まれ、またすぐに消えていく。

 岩にぶつかる流れの縁では、細かな飛沫が白く弾けていた。

 

 それなのに、湿った匂いがしない。

 

 代わりに漂っていたのは、熱を持った生き物の匂いだった。

 

「……あなた、これを川だと思っているの?」

 

 ペンが止まった。

 

「違うのか?」

 

「水から、こんなに腹を空かせた匂いはしないわ」

 

 ドンは立ち上がり、水の帯へ目を凝らした。

 

「何が見える?」

 

「何も。だから、確かめるのよ」

 

「待て。まずは――」

 

 レミリアは翼を広げた。

 

「挨拶よ」

 

 一度、大きく羽ばたく。

 

 風が水の帯へぶつかった。

 表面が大きく波打ち、銀色の粒が一斉に散る。

 

 だが、飛沫は落ちなかった。

 透明な流れが、そのまま細かくほどけていく。

 

 一滴に見えたものが薄い膜を広げる。

 二滴、三滴。無数の雫が、それぞれ半透明の翼を震わせ、空中へ舞い上がった。

 

 雫に似た小さな生き物が、隙間なく連なっている。

 無数の水音が重なり、谷全体が震えた。

 

「ほら。川じゃなかったでしょう」

 

 レミリアは得意げに振り返った。

 ドンは二年分の手帳と、空を覆い始めた群れを見比べていた。

 

「……二年分、書き直しだな」

 

「まず私に感謝しなさい」

 

「逃げ切れたらな」

 

 群れの一部が、一斉にこちらを向いた。それまで空へ向かっていた流れが、ゆっくりと二人のいる崖へ傾いてくる。

 

「ずいぶん好奇心旺盛ね」

 

「お前に似たんじゃねえか」

 

 ドンは手帳を閉じた。

 

「攻撃するなよ。こいつらがいなくなったら、お前の帰り道もなくなる」

 

「では、どうするの?」

 

「七度、脈打てば、流れは空へ戻る。崩れたのを見るのは初めてだが、周期は変わってねえ」

 

 群れが大きく収縮した。

 

 一度。

 

 次の瞬間、透明な生き物が崖へ押し寄せた。レミリアは翼を打ち、風の壁で群れを押し返す。雫の群れは砕けることなく、風を包み込むように左右へ分かれた。

 

 二度。

 

「悠長に数えてるんじゃないわよ!」

 

「数えねえと分からんだろ」

 

 三度。

 

 ドンは迫る群れに背を向け、背嚢を開いた。

 取り出したのは、三か月かけて仕立てたという透明な羽毛の幕だった。

 

 迷いなく、その一部へ刃を入れる。

 

「ちょっと。それ、大事なんじゃなかったの?」

 

「また集める」

 

 四度。

 

 切り取った羽毛を広げ、ドンはレミリアの肩へ被せた。

 景色と同じ色へ変わり続ける羽が、泥だらけのドレスと紅い翼を覆い隠していく。

 

「『東』も、これで包んで流した」

 

 レミリアの目が見開かれた。

 

「この川が運んだの?」

 

「人間の世界まで届いたんだろ?」

 

「ええ。けれど、物と私を一緒にしないでちょうだい」

 

「同じかどうか、これから分かる」

 

 五度。

 

「人間を乗せたことは?」

 

「ない」

 

「帰れると言ったでしょう!」

 

「本なら帰った」

 

「私は本じゃないわよ!」

 

 六度。

 

 ドンが、空へ続く流れの中心を指差した。

 

「次で戻る。流れの真ん中へ入れ。こいつらに運ばせろ」

 

「もし、運ばなかったら?」

 

「食われるんじゃねえかな」

 

「覚えてなさいよ……!」

 

 七度。

 

 谷を覆っていた群れが、一斉に空を向いた。

 ばらばらだった雫が再び連なり、巨大な透明の奔流へ戻っていく。

 

 レミリアは地面を蹴った。

 

 羽毛を身体へ巻きつけ、流れの中心へ飛び込む。無数の薄い膜が頬を撫で、翼の隙間を通り抜けた。だが、牙も爪も彼女を捉えない。

 

 その身体が、空へ引かれ始める。

 

「レミリア!」

 

 初めて名前を呼ばれた。

 レミリアは羽を動かさないまま、顔だけをドンへ向けた。

 

「今度は俺が、幻想郷へ遊びに行くからな!」

 

 透明な流れに運ばれながら、レミリアは笑った。

 

「来られるものなら来てみなさい。あなたなら、紅魔館で茶を出してあげるわ」

 

「いい茶葉を用意しとけ!」

 

「客のくせに注文をつけるんじゃないわよ!」

 

 流れが速度を上げる。

 

「それと、『西』には私の名前も書きなさい! 発見者への礼儀よ!」

 

「気が向いたらな!」

 

 ドンの姿が小さくなっていく。

 最後に、その声だけが風を越えて届いた。

 

「気をつけろよ! 今回は厄災が一人で帰るんだからな!」

 

「誰が厄災よ!」

 

 レミリアの怒鳴り声は、透明な川とともに雲の向こうへ消えていった。

 

    ◇

 

 流れが見えなくなったあとも、ドンはしばらく空を見上げていた。

 

 やがて、その場へ腰を下ろす。

 開いたのは手帳ではなく、『新大陸紀行・西』だった。

 

 二年間書き溜めた観察記録を読み返す。

 流れる時刻。現れる場所。海へ向かう周期。

 ただ、それは川ではなかった。

 

「書き直しじゃねえな」

 

 ドンは新しい頁を開いた。

 

「書き足しだな」

 

 紙の上を、ペンが走る。

 

 ――逆流河。水に非ず。透明な飛翔生物による巨大群体。

 外部からの強風によって、一時的に流れを解く。

 

 そこまで書いてから、ペン先が止まった。

 少し考え、その下へ一行を付け加える。

 

 ――協力者、レミリア・スカーレット。本人は発見者を主張。子供っぽい。

 

 ドンは出来上がった一文を眺め、声を上げて笑った。

 

    ◇

 

 流れに呑まれてから、どれほど進んだ頃か。

 透明な群れが、不意に動きを止めた。

 

 風も、羽音も消える。

 代わりに、何か巨大なものの視線が、ゆっくりとなぞった。

 

 レミリアは動かなかった。

 肩へ巻いた羽毛が周囲と同じ色へ変わり、その輪郭を透明な流れの中へ溶かしていく。

 

 境界を見張る門番が、わずかに首を傾げた。

 その視線が、一瞬だけ紅い残滓のあった場所で止まる。

 

 だが、そこにはもう何もなかった。

 

    ◇

 

 どれほど運ばれたのか。

 次に潮の匂いを嗅いだとき、群れは夜空へ散っていた。

 

 足元には、波に濡れた古い石段。

 暗い海の向こうには無数の灯が並び、少し懐かしさすら覚えた。

 

 レミリアは泥だらけのドレスを見下ろした。

 

「とりあえず――お風呂ね」




 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
 これにて、暗黒大陸は一区切りです。

 次章は、準備が整い次第、開始する予定です。
 引き続きお付き合いいただけましたら、うれしいです。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。