「なんで俺の名前、知ってんの?」
男――ドン=フリークスの目から、先ほどまでの気安さが消えた。初めて、レミリアそのものを見たようだった。
レミリアは手にした木の器を傾け、残っていた茶を飲み干した。
「人間の世界に残っているのは『新大陸紀行・東』だけ。未完成の『西』を持ち、三百年もここを歩き続けている人間。あなた以外に誰がいるのよ」
「……『東』は、まだ残ってるのか」
「ええ。少なくとも、私の知る限りではね」
「どうだ、面白かったか?」
「……読んではいないわ」
火がぱちりと爆ぜ、レミリアの足にふたつの影を揺らした。
「他人の話を聞いただけ。そいつは、この大陸にも来たわよ」
「そうか。そいつは元気か?」
火の中で、細い枝が折れた。
影が形を変え、ひとつになった。
「いいえ。もういないわ」
レミリアは掌の中で、冷めかけた器を回した。
ドンはしばらくレミリアを見ていたが、それ以上は追及しなかった。
「まあいい。『東』が残ってんなら、それで」
「嬉しくないの?」
「嬉しいさ」
ドンは顔も上げずに答えた。
「書いたものが残ってる。それ以上、何が要る」
ただ事実を確かめ、それで満足したらしい。
レミリアは木箱の上で脚を組み直した。
「五大厄災、だったかしら。ずいぶん大仰な呼び方よね」
「五大?」
ドンが、妙なところで聞き返した。
「何よ」
「いや」
初めて、その口元に楽しそうな笑みが浮かんだ。
「五つしか見つけてねえのかと思ってな」
レミリアの笑みが固まった。
「……冗談でしょう?」
「何で?」
「あんなものが、まだいくつもいるというの?」
「ここはおもちゃ箱だからな。色々あるさ。未知も危険も」
「……そうね。私も逃げることを覚えたわ」
「逃げるのも悪くないだろ」
鼻で笑いかけて、やめた。
「好きにはなれないわね」
レミリアは、傍らの布袋へ目を移した。
「それなら、さっき見た米は――」
「ニトロ米。究極の長寿食だ。『東』にはそう書いたはずだがな」
「究極の長寿食を、布袋に詰めて持ち歩いているの?」
「腹が減るだろ」
「そういうもんなのかしら……」
あっさりと告げ、ドンは鉄鍋の底を木の匙で掻いた。
「『西』はまだ時間がかかりそうだしな」
「それだけ長く旅を続けているのに?」
「世界は広いってことさ。未知に溢れてる」
ドンは傍らの『西』を軽く叩いた。
「雨宿りした洞窟が、次の朝には空を飛んでたこともある。二年追いかけた川は、最後には海から空へ昇っていた」
「最後のは、あなたが上流と下流を間違えていただけじゃないの?」
「そうかもしれん。だから『西』はまだ書ききれてねえ」
レミリアは呆れながらも、少しだけ笑った。
こんな頭でなければ、三百年も歩き続けられないのだろう。
「それで」
レミリアは空になった器を置いた。
「三百年もここにいるなら、人間がいる所へ帰る方法も知っているんでしょう?」
「知ってるよ」
あまりに簡単な返事だった。
レミリアは一度瞬きし、身を乗り出した。
「……帰れるの?」
「帰り道はある。俺は帰ってねえけどな」
「三百年も?」
「まだ『西』が終わってねえからな」
ドンは本の厚い背を撫でた。
何度も革を継ぎ足され、最初の形さえ分からなくなった本。それでも、中にはまだ白い頁が残っているらしい。
「いつ終わるのよ」
「さあ」
「呆れた。終わらせる気があるの?」
「あるさ。最後まで見れば終わる」
「最後がないんじゃない?」
「そりゃ困ったな」
そう言いながら、ちっとも困っている顔ではなかった。
「お前は、人間の世界へ行きたいのか?」
「当然でしょう。紅魔館へ帰る方法を探すにしても、こんなところにいては始まらないもの」
パチュリーの小言。
咲夜の呆れ顔。
そして暴れては館を壊す妹。
暗黒大陸には、まだ見ていないものが無数にある。
腹立たしいほど危険で、認めるのも癪だが、少しばかり面白い場所でもあった。
それでも、帰る場所は別にある。
「私の館には、放っておくと何をするか分からない連中ばかりいるのよ。主人が戻ってやらないと、今頃ひどい有様でしょうね」
「大事にされてんだな」
「そう聞こえたのなら、あなたの耳はどうかしているわ」
ドンは声を上げて笑った。
「そういや、お前の名前は?」
「レミリア・スカーレットよ。今さら?」
「大陸に戻る道なら知ってる。その代わり、もう少し幻想郷の話を聞かせろ」
「それが案内料?」
「知らない場所を教えてもらうんだ。十分だろ」
「安い男ね」
「高くした方がいいか?」
「結構よ」
◇
焚き火がひと回り小さくなるころ、話は一本の桜へ移っていた。
「西行妖?」
「ええ。死を誘う妖怪桜よ。春を集めても満開にならなくてね」
「見てみてえな」
「見物料に命を取られても知らないわよ」
「面白そうじゃねえか」
「でしょう? ほかには――そうね。月へ攻め込んだ話でもしてあげましょうか」
「月に行ったのか?」
「ええ。月の裏側には都があってね。神やら仙人やら兎やらが住んでいるのよ」
「へえ。何しに行ったんだ?」
「征服しに」
「うまくいったか?」
「……途中で飽きたわ」
「負けたんだな」
「飽きただけよ」
笑い出したドンをよそに、レミリアは次の話を始めた。