出発の準備は、驚くほど早く終わった。
薬草と干し肉は革袋へ。炉の灰は土へ埋め、石は一つずつ元の場所へ戻す。寝具を背嚢へ括りつけ、背景へ溶け込む羽毛の幕を丁寧に折り畳んだ。最後に残ったのは、踏み固められた土だけだった。それさえドンが枝で二、三度撫でると、周囲との違いが分からなくなった。
「ずいぶん用心深いのね」
「この場所を、また使うかもしれねえからな」
ドンは大きな背嚢を担ぎ、森の奥へ歩き出した。
「それで、帰り道はどっち?」
「その前に、川を一つ確かめたい」
レミリアは足を止めた。
「まさか、二年追いかけたという、あの川?」
「ちょうど、帰り道にある」
「私を案内するついでに、自分の用事も済ませるつもりね」
「嫌なら一人で帰ればいい」
「道を知らないと言っているでしょう!」
振り返りもしない男を睨みつけながら、レミリアはその後を追った。
◇
ドンの歩みは速くなかった。
だが、その一歩は力強かった。
木の根が複雑に絡んだ場所では、決まった色の根だけを踏んだ。何もいない山道は真っ直ぐ進むのに、羽虫が一匹だけ飛んでいる草原では、逆に迂回してまわった。
何が安全で、何が危険なのか。レミリアにはさっぱり分からなかった。
ただ、不意に襲われることはなかった。
「あの草原には何がいるの?」
「知らん」
「知らないのに避けたの?」
「羽虫が一匹だけ飛んでるのは、不自然だろ」
それだけで十分らしい。
途中、谷を塞ぐように巨大な倒木が横たわっていた。
ドンは迷うことなく右へ曲がろうとする。
「どこへ行くのよ」
「迂回する。半日くらいだ」
「馬鹿馬鹿しい」
レミリアは倒木へ片手を添えた。
「おい、待て」
止めるより早く、倒木を片手で薙ぎ払った。
巨木は地面から引き剥がされ、枝葉を撒き散らしながら森の向こうへ消えていった。遅れて、何かが潰れるような音と、獣のものらしき叫び声が響く。
「これで半日縮んだわ」
「代わりに、半日分の何かが寄ってくるな」
「来る前に進めばいいでしょう」
ドンは少し考え、頷いた。
「それもそうだ」
二人はそのまま足を速めた。
◇
森を抜けると、巨大な裂け目が大地を分断していた。
底は見えなかった。
暗闇の奥から、絶えず水音だけが響いている。
けれど、川は谷底を流れていなかった。
透明な水の帯が、裂け目の底から空へ向かって昇っている。滝を逆さにしたような流れは崖の縁を越え、宙で緩やかな弧を描きながら、雲の向こうへ消えていた。
空から差す青白い光を受け、水面が無数の色に輝いている。
美しいと思ったが、暗黒大陸を褒める気にはなれなかった。
「これが、その川?」
「ああ」
ドンは崖のそばへ腰を下ろし、背嚢から『西』と手帳を取り出した。
「二年かけて流れを追った。途中で何度も地面へ潜って、別の場所から出てきやがる。最後に辿り着いたのは海だった」
「海から水が上がっているなら、河口ではなく源流だったんじゃない?」
「だから確かめに来た」
「また二年かけて?」
「あと二日待てば流れが変わる」
「二日?」
レミリアは露骨に顔をしかめた。
「そんなに待っていられないわ」
「未知を相手に急ぐな。向こうは逃げねえよ」
「二年も追いかけて逃げられた人が言う台詞?」
ドンは答えず、手帳へ時刻と流れの向きを書き始めた。
レミリアは崖の縁へ立ち、水の帯を見上げる。
風が渡るたび、その表面に銀色の粒が生まれ、またすぐに消えていく。
岩にぶつかる流れの縁では、細かな飛沫が白く弾けていた。
それなのに、湿った匂いがしない。
代わりに漂っていたのは、熱を持った生き物の匂いだった。
「……あなた、これを川だと思っているの?」
ペンが止まった。
「違うのか?」
「水から、こんなに腹を空かせた匂いはしないわ」
ドンは立ち上がり、水の帯へ目を凝らした。
「何が見える?」
「何も。だから、確かめるのよ」
「待て。まずは――」
レミリアは翼を広げた。
「挨拶よ」
一度、大きく羽ばたく。
風が水の帯へぶつかった。
表面が大きく波打ち、銀色の粒が一斉に散る。
だが、飛沫は落ちなかった。
透明な流れが、そのまま細かくほどけていく。
一滴に見えたものが薄い膜を広げる。
二滴、三滴。数える意味もないほどの雫が、それぞれ半透明の翼を震わせ、空中へ舞い上がった。
雫に似た小さな生き物が、隙間なく連なっている。
無数の水音が重なり、谷全体が震えた。
「ほら。川じゃなかったでしょう」
レミリアは得意げに振り返った。
ドンは二年分の手帳と、空を覆い始めた群れを見比べていた。
「……二年分、書き直しだな」
「まず私に感謝しなさい」
「逃げ切れたらな」
群れの一部が、一斉にこちらを向いた。それまで空へ向かっていた流れが、ゆっくりと二人のいる崖へ傾いてくる。
「ずいぶん好奇心旺盛ね」
「お前に似たんじゃねえか」
ドンは手帳を閉じた。
「攻撃するなよ。こいつらがいなくなったら、お前の帰り道もなくなる」
「では、どうするの?」
「七度、脈打てば、流れは空へ戻る。崩れたのを見るのは初めてだが、周期は変わってねえ」
群れが大きく収縮した。
一度。
次の瞬間、透明な生き物が崖へ押し寄せた。レミリアは翼を打ち、風の壁で群れを押し返す。雫の群れは砕けることなく、風を包み込むように左右へ分かれた。
二度。
「これのどこが待てなのよ!」
「数えてるだろ」
三度。
ドンは迫る群れに背を向け、背嚢を開いた。
取り出したのは、三か月かけて仕立てたという透明な羽毛の幕だった。
迷いなく、その一部へ刃を入れる。
「ちょっと。それ、大事なんじゃなかったの?」
「また集める」
四度。
切り取った羽毛を広げ、ドンはレミリアの肩へ被せた。
景色と同じ色へ変わり続ける羽が、泥だらけのドレスと紅い翼を覆い隠していく。
「『東』も、これで包んで流した」
レミリアの目が見開かれた。
「この川が運んだの?」
「人間の世界まで届いたんだろ?」
「ええ。けれど、物と私を一緒にしないでちょうだい」
「同じかどうか、これから分かる」
五度。
「人間を乗せたことは?」
「ない」
「帰れると言ったでしょう!」
「本なら帰った」
「私は本じゃないわよ!」
六度。
ドンが、空へ続く流れの中心を指差した。
「次で戻る。流れの真ん中へ入れ。こいつらに運ばせろ」
「もし、運ばなかったら?」
「食われるんじゃねえかな」
「覚えてなさいよ……!」
七度。
谷を覆っていた群れが、一斉に空を向いた。
ばらばらだった雫が再び連なり、巨大な透明の奔流へ戻っていく。
レミリアは地面を蹴った。
羽毛を身体へ巻きつけ、流れの中心へ飛び込む。無数の薄い膜が頬を撫で、翼の隙間を通り抜けた。だが、牙も爪も彼女を捉えない。
その身体が、空へ引かれ始める。
「レミリア!」
初めて名前を呼ばれた。
レミリアは羽を動かさないまま、顔だけをドンへ向けた。
「今度は俺が、幻想郷へ遊びに行くからな!」
透明な流れに運ばれながら、レミリアは笑った。
「来られるものなら来てみなさい。あなたなら、紅魔館で茶を出してあげるわ」
「いい茶葉を用意しとけ!」
「客のくせに注文をつけるんじゃないわよ!」
流れが速度を上げる。
「それと、『西』には私の名前も書きなさい! 発見者への礼儀よ!」
「気が向いたらな!」
ドンの姿が小さくなっていく。
最後に、その声だけが風を越えて届いた。
「気をつけろよ! 今回は厄災が一人で帰るんだからな!」
「誰が厄災よ!」
レミリアの怒鳴り声は、透明な川とともに雲の向こうへ消えていった。
◇
流れが見えなくなったあとも、ドンはしばらく空を見上げていた。
やがて、その場へ腰を下ろす。
開いたのは手帳ではなく、『新大陸紀行・西』だった。
二年間書き溜めた観察記録を読み返す。
流れる時刻。現れる場所。海へ向かう周期。
ただ、それは川ではなかった。
「書き直しじゃねえな」
ドンは新しい頁を開いた。
「書き足しだな」
紙の上を、ペンが走る。
――逆流河。水に非ず。透明な飛翔生物による巨大群体。
外部からの強風によって、一時的に流れを解く。
そこまで書いてから、ペン先が止まった。
少し考え、その下へ一行を付け加える。
――協力者、レミリア・スカーレット。本人は発見者を主張。子供っぽい。
ドンは出来上がった一文を眺め、声を上げて笑った。
◇
流れに呑まれてから、どれほど進んだ頃か。
透明な群れが、不意に動きを止めた。
風も、羽音も消える。
代わりに、何か巨大なものの視線が、群れの端から端までをゆっくりとなぞった。
レミリアは動かなかった。
肩へ巻いた羽毛が周囲と同じ色へ変わり、その輪郭を透明な流れの中へ溶かしていく。
境界を見張る門番が、わずかに首を傾げた。
その視線が透明な流れを端から端までなぞり、一瞬だけ紅い残滓のあった場所で止まる。
だが、そこにはもう何もなかった。
◇
どれほど運ばれたのか。
次に潮の匂いを嗅いだとき、群れは夜空へ散っていた。
足元には、波に濡れた古い石段。暗い海の向こうには無数の灯が並び、少し懐かしさすら覚える雰囲気。
レミリアは泥だらけのドレスを見下ろした。
「とりあえず――お風呂ね」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
これにて、暗黒大陸は一区切りです。
次章は、準備が整い次第、開始する予定です。
引き続きお付き合いいただけましたら、うれしいです。