シャックルトンクレーターは月の南極に隣接する地域にある。
直径約20キロ。最深部は約4キロの深さ。
太陽は沈まず、ゆるやかに弧を描く。
その日射は容赦なく月面を焼き続ける。
影は長く長く。短くなることはない。
クレーター内には太陽光がほぼ届かない永久影があり、ながらく水氷資源が有る無いと議論されていたが、実測により点在することが確認されたのが20年前。
その量はおそらく今後の月面活動を十分支え得るものと見積もられた。
シャックルトンの地質は月の各地同様、レゴリスと呼ばれる月砂に覆われているが、地下基地建設に先立つボーリング調査で空洞や様々な資源が確認された。
といっても、当初の採掘コストは地球上のそれを遥かに上回り、軌道に乗るまでは地球からの補給が主であった。
しかし、それは技術の発展、要領の洗練が次第に克服していく。
キャンプシャックルトン・リムはマラベール山を臨むクレーターの外側尾根にあり、その大きさは南北12キロ、東西8キロ。
米国の行政区分上はフロリダ州である。
通信、発電、観測施設を主とする地上施設と居住区画を主とする地下施設。
リム内に建設された発電施設、採掘施設、研究棟。
常時5000人ほどが住んでいる月面基地だ。
米宇宙軍の指揮官が陸海空及び海兵隊の部隊を統合し、米月面軍を指揮していた。その勢力は約1200名。
自衛隊施設はそのキャンプシャックルトン・リムの北端、3キロ四方にあった。
航空宇宙自衛隊シャックルトン基地。
基地司令以下の高官は2年任期。シャックルトン警備隊とは別のルートでおよそ2か月ほどで交代しながら、複数人で勤務している。
日本側の往還船は宇宙港PSB(Port of Shackleton Bay)を使わせてもらっていた。
今、警備3中隊はPSBとシャックルトン基地を結ぶ鉄路にあった。
流れていく漠々たる荒野。
陰影の両極端が隊員たちの網膜に焼き付く。
「これが月」
「月見酒が飲みてえなあ。」
「見られる方だよ、俺たちは。」
遠目に何かが飛んでいるのが見えた。
「川路、見える?視力20.0くらいあるでしょ?」
「2.0しかありませんが…みえますね。」
山本1曹が携帯スコープで覗く。
「中国の月面ホッパーだな。」
月には大気がないため、揚力を利用した航空機を使えない。山本のいう月面ホッパーは、ロケット噴射によるジャンプで滞空するタイプの偵察機だ。
津志田「いきなりキナくせえな。」
山本「まあ、奴らもああやって眺めてるだけだ。」
岩倉が説明してくれる。
「シャックルトン基地から北にあるド・ジェラシュクレーターに、広い、寒いと書いて広寒中心基地というのを中国が作っている。」
「どのくらい離れてるんですか。」
岩倉がアームモニタで地図を呼び出してみせる。
「まあ、30キロってところか。」
「車で30分ってとこですか。」
「そんな便利な乗り物があればな。月では道や鉄路がなければ2キロ3キロ移動するのが、いちいち命がけだ。」
岩倉が続ける。
「このガラス窓1枚。隔壁1枚。その外は死の世界。基地を一歩出れば死の砂漠。30キロというのは到底たどり着けない距離だ。」
天神では柳沢るり子に秒でほだされた岩倉だが、月面に関してはよほど勉強したのだろう。
今は頼れる中隊長の顔をしていた。
チュウ、女が絡まなきゃ立派な幹部だな。
と、ひさびさに隊員たちは感心していた。
が、2時間ほど後
チュウ、女が絡むとホントにダメだな。
と、隊員たちが呆れていた。
いったいなにがあったのか。
シャックルトン基地駅のホームに降り立った警備3中隊を迎えたのは、基地司令の澤野1佐、現在上番している警備1中隊の先任である目加田准尉。
JAXAシャックルトン研究所長、それと日本政府の高官数名。
その高官数名の中に目立つ美人がいた。
「お久しぶり、みなさん。」
柳沢るり子は深々と一礼し、岩倉にウインクした。
川路はそっと加勢の後ろにさがる。
察した加勢は大の字に手を広げて川路を隠したが、柳沢るり子は川路に手を振り、川路は苦笑いしながら手を振り返す。
「川路!相手しちゃだめ!」
加勢が小声で叱った。
その後セレモニーを終え、警備3中隊は私物を割り当て居室に運び込み、基地施設の案内を受ける。
数人が案内してくれたのだが、岩倉には柳沢るり子がついた。
鉄路で見せた切れ者幹部岩倉は天神のヘニャヘニャ男に様変わりしていた。
「あちらが通信塔で、左に指2本ほどのところで鏡のように光っているのがギガソーラーです。」
「あの!柳沢さん!」
「どうされました?」
柳沢るり子はにっこりほほえみかける。
「す、すみません。ぼ、僕はあなたを疑ってしまった。」
「疑ってらっしゃったんですか?でもいったいわたくしの何を?」
困った表情がまた、なんとも悩ましい美しさだ。
「外務省職員であること、シャックルトンに行くということ…」
「ふふ。岩倉さん。素直な方。」
柳沢るり子が人差し指で岩倉の胸もとをなぞる。
「僕は恥ずかしい!」
柳沢るり子が岩倉の手を取る。
「いいえ。卑下なさらないで。客観的に。あの時の私の言動を信じる人はいません。普通は。」
―普通はね―
岩倉をじっと見つめる。
しばし見つめ合う。岩倉は唾をのんだ。
「さあ、岩倉中隊長。まだお仕事の時間です。案内いたしますよ。」
岩倉はハッと我に返り、柳沢るり子の案内について行った。
柳沢の案内は中隊長、先任向けなのだが、先任の徳田は気まずすぎて上級・中堅空曹の案内グループに混じった。
その夜は歓迎会があったのだが、みな、岩倉中隊長と柳沢るり子がサシで飲んでいるのが気になって気になって仕方ない。
非番の1中隊の隊員が、なんだいありゃと聞いてくる。みんな面白おかしく説明する。
加勢は1中隊の同期、玉城あずみと積もる話をしていたが、やはり二人とも岩倉と柳沢るり子が気になってちらちら見てしまう。
「あれ、アンタんとこの中隊長でしょ。」
「うーん。」
加勢は中隊長が好きなので、なんと言ったものかほとほと困る。
「柳沢さんのご趣味は…」
「そうですね。私はアウトドアが苦手で。読書が趣味なんです。」
「ぼ、僕も本は読む方です!」
月面作戦
月面警備の要則
宇宙国際法
宇宙国際法判例集
防衛白書月面安全保障抜粋
etc
確かにここ数カ月の岩倉は読書家だった。
「ふふふ。岩倉さんは精読なさる方に見えます。」
「せ、精読?」
「私は濫読なんです。手当たり次第、とにかく読んじゃう。」
そういうと柳沢はカクテルを少し飲んだ。
「ど、どんな本がお好きでしょうか。」
「とにかくなんでも。例えば天神でどなたかと会う。もうそれだけで私はめろめろに。」
「へ」
「天満宮で古い友人に会う。今度はそっちにめろめろに。」
「な、なんの。本のお話では。」
「本の話ですよ。」
「で、ですよね!」
「ちげーよ!」
盗み聞き隊、隊長の津志田がビールを飲み干して毒づく。重力が1/6だから飲みにくいことこの上ない。
「濫読から精読に至る。なんて理想ですよね。私はいつまでたっても濫読のまま。」
「それでもいいのではないですか?趣味のことですし。」
「本当にそれでいいの?岩倉さん。」
柳沢るり子が少々厳しい顔つきでにらむ。
「ええ?読書の話で、ですよね?」
「そう、本の話ですよ。」
「口説かれとるねえ。中隊長。」
盗み聞き隊、副隊長大谷3曹がホットミルクをなめながら言う。
「私ね。天満宮で分厚い哲学書に出会って心が揺れた。でももう私は読めないなって思ったんです。」
「柳沢さん。まだそんな諦めることはないです!読めばいいではないですか。」
柳沢るり子が厳しい顔つきでにらむ。
「岩倉さん。本当に私、読んでいいの?」
「あーもう、チュウのやつ!」
盗み聞き隊指導係の倉田2曹が肉団子を食べながら憤慨する。
「読んでいいわけなかろ!」
「え、その読書の話ですよね?」
「そう。本の話ですよ。」
柳沢るり子が優しく笑う。
「座右の書。岩倉さんはあります?」
「ざ、座右の書!」
岩倉は腕組みして考える。
繰り返し読むような本。人生の基盤になっているような本。
ないなあ…
無いとカッコ悪いなあ…
「や、柳沢さんはあるんですか?」
「わたし?それが無いの。」
岩倉はホッとした。
「でも、ついつい何度も何度も読んじゃう本はあります。筋書きも知ってる。フレーズも暗記しちゃってる。」
「それはまた凄く面白い本のようですね。」
柳沢るり子は「ううん。」と首を振る。
「つまんない本。ありきたりで、平板で、なんだか背伸びしちゃって。」
「へえ…」
「でもね。いつも手元に置いておきたい。いつでも読みたくなる。」
盗み聞き隊の隊員二人。
「川路い。何言ってんのあの女の人」
「自分は見誤ってました。るり子さんを。」
「川路もしかして好きなの?」
「ははは。昔ちょっとだけ。」
「そう。」
加勢はジュースを飲み干して、頬杖ついて川路を見た。
「私は本より人が好きだな。」
「加勢士長。自分もそうです。」
明日からシャックルトン慣熟訓練がはじまる。