人間の記憶はどうやって保存されているのか。
脳のどこかに保存領域があって、そこにデータがある。というものではなく、海馬・大脳皮質、小脳、大脳基底核、扁桃体などにある程度カテゴリ別に薄く広く保存されている。といってもパソコンのメモリとは違い、ニューロンの相互作用等であたかも記憶されているかのように保存されている、というのがより妥当な表現であろうか。
2030年代後半の研究でミトコンドリアが持っていたが、その役割などが不明だった粒状と棒状の微小構造体が、実は記憶を運んでいたことがわかった。
粒状記憶素体と棒状記憶素体は脳に記憶データを運んでいたが、全身のあらゆる場所に薄くまんべんなく運んでいた。
このひどく小さい断片的な記憶データがなぜまとまった記憶を再生できるかは2051年の今でも解明されていない。
だが、人類はこの記憶素体をスキャンすることで外部に取り出すことに成功した。
脳からデータらしきものが発されていることは脳波等の研究で以前から知られていたが、これをロシアの科学者がAIに解読させることに成功する。
当初は単純な記号などの情報を少量取り出せるに過ぎなかったが、その技術は中国で飛躍的に発展した。
2048年。脳に直接電極を刺し、励起パルスで脳をスキャンすることで記憶素体を解析する技術が確立した。
ただし、これは脳に直接電極を刺すわけであるから、被検体は死ぬか、重度の後遺症を負った。
励起された高磁場パルスは神経細胞のイオンチャネルを一瞬で焼き切り、脳構造そのものを不可逆的に破壊する。非破壊スキャンが原理的に不可能なのである。
すくなくとも現在はそうである。
ともあれ、人間の脳はデータを出力できるようになったのだ。一部では人間の脳をクラウド化する研究も進んでいる。
ただしこれは最先端の研究の話であり、人道上の問題から、ごく一部の国でなされているにすぎない。もちろん普及などは論外である。
部分的に。鬱や精神発達の障害などの画期的な治療法が広まりつつあるが、人権の問題からその歩みは緩やかでもどかしい。
-広寒基地司令官執務室-
劉の秘書である洪中校が机に突っ伏している。
傍らには第2航天合成営の軍士長が机に腰かけ、洪の後頭部に棒状の物を刺している。その棒は有線でなにかの機械とモニタにつながっており、画面には「解析中」と表示されていた。
机の周りには兵士が数人。それを率いる将校が椅子に深々と腰かけている。
ノックがあった。
「楊だ。」
将校が椅子から立ち、敬礼をして迎える。
「どうだ、データの吸い出しは終わったか。」
軍士長「あと数分と言ったところでしょうか。」
洪はときおり痙攣した。口から泡をふき、なにかぶつぶつとつぶやいているが、はた目に生気は感じられなかった。
将校が楊に尋ねる。
「劉大校はどうなったのでしょうか。」
楊がニカっと笑う。
「彼は逮捕した。君達のおかげさ。」
「だけど。」
楊が一転苦い顔をする。
「趙を逃した。」
将校が一瞬緊張する。
「データ解析終了しました。」
軍士長が楊に報告する。
楊「ご苦労さん。」
ホルダーから拳銃を取り出し、洪の頭を撃ちぬく。
机に脳漿をぶちまけ、洪は二度と動かなくなる。
楊は器材を操作し、モニタのコマンドから「洪_file_brain_20510930」を呼び出す。
入力欄に「初めまして。あなたは誰ですか。」と入力する。
回答欄に「機械化月面戦闘団団長劉大校の秘書洪中校です。」と表示される。
「月面戦闘団が日本軍基地を攻撃する計画はありましたか。」
「小官の知る範囲であれば、いくつか存在しました。しかしいずれも成功率が極小であるほか、上級部隊からの抑制があり、実行はありませんでした。」
「怯懦だとは思わなかったか。」
「小官の理解では、それは怯懦ではなく現実的判断であります。」
「劉大校をどう思うか。」
「上官であります。」
「個人的感情を述べよ。」
「僭越ながら申し上げれば。人柄に一癖あり、接し方に苦労するところはあったものの、総じて温厚な人物であり、部隊運営に骨身を惜しまぬ指揮官でした。」
「劉は第2航天合成営をどう思っていたか。」
「率直に困惑しておりました。」
楊が軍士長を向く。
「すごいものだな。この秘書の知識や人格がまるまるこのコンピュータの中にはいっている。」
「いえ、正確にはデータの再現率は40%と言ったところです。結合ができなかったデータについてはAIが補完しております。ですが、先ほどのような質問であれば、おそらく9割は信頼できると思います。」
「わかった。まあ参考にはなるな。」
「そうそう。ひとつ尋ねたいことがあったのだ。」
楊は再び入力する。
「電極を刺され、スキャン波が走るとき、貴官はいかなる状況にあったか。」
しばし間を置き、モニタに文字が表示された。
「喜怒哀楽、痛み、快感、騒音、あらゆる五感、感情が揺さぶられ、全身の神経すべてが突っ張り、または弛緩しました。」
楊はそれをみて大笑いしながら部屋から出て行った。
-趣味が悪いな-
軍士長は将校ともども敬礼して楊を見送った。
-アーチネットチューブ内-
「いいか。中隊長からくれぐれも防性対処だと念押しされた。銃口を上に向けろ。」
山本1曹の全体通信だ。
「もし、丸腰の中国兵を撃とうものなら戦争だぞ。戦争だ!」
アーチネットチューブが中国側に伸びている以上、探索は不可欠であるが、月面のグレーゾーンでの不期遭遇戦は避けねばならない。
本来、こういうことは上級部隊、ことによれば互いの政府が実務者同士で話し合うべきことなのだが、中国は政変真っ最中でまともなチャンネルがない。
現場部隊がその寄ってきたシワに足をとられている。
兎内「人影だ。」
前方60mか70mか。いびつな突起の連続。その合間を明らかに人の形をした何かが横切る。
「川路、頭さげな!」加勢が川路に叫ぶ。聞いたことのない金切声だ。
「了解。加勢士長、もう少し右へ隠れた方がいいです!」
「了解。ありがと!私は小さいから当たんないよ。川路はおっきいから絶対あたっちゃだめ!私の後ろに絶対隠れて!」
山本1曹は米軍への連絡を忘れていた。
慌てて米軍へ連絡する。
しばらく不気味な沈黙が続いた。
おそらくこちらに向かってくる人影は自衛隊に気付いていない。
どうするか。気づいたら撃ってくるのだろうか。
中国人か。可能性は低いが、シャックルトン基地の誰かか。
「武器を持っていない。」
兎内3曹が確認した。
兎内3曹が申し出る。「自分等が誰何に出ます。」
月面の遭遇。相手が攻撃の意思がない場合、まずチャンネルをあわせろと指示するところから始まる。
丸腰だからって手りゅう弾を持っている可能性だってあるので油断はできないのだが。
銃口を上に、左手で大きな円を描きながら兎内3曹が二人で躍り出る。
左手で大きく描く円は害意なしの合図だ。
彼らは兎内3曹たちの動きに少し慌てたようだったが、真ん中にいた人物の制止で落ち着きを取り戻したようだった。
兎内3曹が「チャンネルを合わせろ。」と平通信のチャンネルを手まねで伝える。
やがて
「こちらは人民解放軍のものだ。」とAI翻訳音声が入ってきた。
「こちらは日本国陸上自衛隊のものだ。」と兎内3曹が返す。
「敵意はない。助けを乞う。」
「待て。」
兎内3曹から山本1曹へ。山本1曹は中隊長に報告する。
倉田2曹は米軍部隊にも通報した。
「武装解除を確認し、本部へお連れしろ、とのことだ。」
人民解放軍を名乗る船外活動服は6名。
解像度が低いため、所属や階級などはよく見えない。
「我々は熱赤外線装置しかないため、あたりがよく見えない。誘導を乞う。」
彼らはほぼ手探りでここまで来たらしかった。
ここまでの通信を傍受した自衛隊側はやれやれと銃を下ろした。
「一列に並べ。前の者の肩なり手をつかんでついてくるように言え。」
山本1曹が撤収を命じる。
加勢士長が唐突にへたりこんで動かなくなった。
「加勢士長、いかがされました。」川路が加勢の肩をつかんでゆする。
対人通信からすすり泣きが聞こえてくる。何かを川路に言っているが、ききとれない。
「加勢士長・・・」
加勢は緊張から解放され、感極まり腰が抜けたのだ。
大谷に具申し、川路は加勢士長の銃を預かり、加勢の気密服の突起をつかんで連れていく。
背負いたいところだが気密服はそういうことができるようには作られていない。
その代わり緊急時に搬送できるように突起を出してつかめるようになっている。
川路のヘルメット内に加勢のすすり泣きがずっと聞こえた。
向こうでは兎内3曹が誰かを搬送している。津志田3曹のようだ。
かくして加勢士長達は人民解放軍の面々を地上に連れていくことになった。
-地上アーチネットチューブ入口-
「習と張がいない。」
彼らはここに来る途中で二人とはぐれたようだ。
探しに戻ろうとする兵士を指揮官らしき人物が諫めて止めた。
山本「あらためて。私は航空宇宙自衛隊の山本1曹だ。」
指揮官「丁重な扱い。礼を言う。」
山本「貴官の氏階級、官職を。」
大谷は見ていた。地上にあがり、デジタルグラスの解像度が元に戻り確認できたのだ。あの男の階級は佐官。それも高位だ。
ひょっとするとひょっとする。
指揮官「機械化月面戦闘団団長、劉浩然大校だ。」
山本1曹が一瞬固まる。
劉「いや、官職に関しては「元」だが。」
山本1曹がおそるおそる敬礼をした。
今日は満天の星空が見えた。地球もいつになく輝いていた。
劉はゆったりと答礼をした。