【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

10 / 14
第7話 地球の価値はプライスレス

 机の上には、翌朝の搭乗券が置かれていた。

 

 ——地球発、静止軌道ステーション経由、月面都市フォン・ブラウン行き。

 

 そこからグラナダへ渡り、サイド1、サイド5を経て、最後にサイド3へ向かう。父が冗談めかして「スペース・グランドツアー」と呼んだ、二か月近くに及ぶ旅の最初の切符だった。

 

 歴史上初の本格的な月面恒久都市であるフォン・ブラウンは宇宙の玄関口だ。「地球から初めて宇宙へ上がる人間はまずフォン・ブラウンに行け」と言われるほどである。

 次の目的地であるグラナダは工業が盛んな都市でフォン・ブラウンとはかなり様相が異なるらしい。これは母から是非行くようにと言われたので旅行先に追加した経緯がある。

 

 コロニーでいえば、最初期に建造されたサイド1は最も「模範的な」コロニーといわれており、スペースコロニーの基本を学ぶ上で重要だと父に言われた。

 本当は今一番ホットなのはサイド6なのだが、さすがに大半が建造中ということで見送った。政財界がこぞって投資しており、当然のように僕も投資している。最も「力を持つ」コロニーになると予想されている。

 

 そして、現在最も「豊かな」コロニーはサイド5だと聞いた。ただし、貧富の格差が激しいせいで治安は悪い。サイド5に寄ることを父は良い顔をしなかったが「社会勉強のため」と言えば反対はしなかった。護衛を念入りにつけられたのは仕方がないかもしれない。

 

 最後に、サイド3は月の裏側にある最も「進歩的な」コロニーだ。地球から最も遠くにあり、開拓者精神旺盛だ。そして、それは心の距離でもある。

 進歩的ということは独立独歩の気質があるということ。今政治的に最も微妙な立場でもあった。だからこそ、僕を招待したのかも知れない。

 

 さて、幼い頃から欲しがり、両親を説得し続け、大学を卒業してようやく手に入れた宇宙への許可証でもある。僕はそれを指先で持ち上げた。十億ドルの資産報告書と比べれば何の重みもない薄い紙だったが、その向こうには、僕の知らない世界が幾重にも連なっていた。

 

 宇宙移民の暮らすコロニーがある。人類最初の本格的な月面都市フォン・ブラウンがあり、地下深くに築かれたグラナダがある。

 人類が宇宙へ進出した希望の象徴であるサイド1も、地球から遠く離れたサイド5も、そして僕が大口出資者として名を連ねながら、一度も足を踏み入れたことのないサイド3もある。

 

 書類の上では、それぞれの人口も産業構造も知っていた。

 平均所得、失業率、輸送費、エネルギー価格、医療機関の数まで、必要とあればすぐに答えられる。

 しかし、そこで暮らす人間の声も、匂いも、街の温度も、僕は何一つ知らなかった。世界を変えると語るには、あまりにも世界を知らなすぎたのである。

 

 

 大学生が自分探しのためにインドへ旅立つようなものだろうか、と考えて、僕は少し笑った。

 旅に出た程度で本当の自分が見つかるとは思わない。そんなに簡単な話ならば、人間は自分の内面にこれほど苦しみはしないだろう。それでも、屋敷の中で資産報告書を眺め、数字の向こう側にいる人々の人生を想像し続けるよりはましだった。

 想像するだけでは、何も現実は変えられないのだから。

 

 自分探しの旅に十億ドルを持ち込む人間など、歴史上でもそう多くはいないだろうが、僕にはそれが似合っていた。金によって人生を取り戻した僕は、その金を何のために、誰のために、どのように使うかによって、自分が何者であるかを知るしかない。

 

 ——札束ビンタと自分探し。

 

 一見すれば、ひどく不釣り合いな組み合わせだった。しかし僕にとっては、同じ問いの表と裏にすぎない。世界のどこを殴るべきかを知るには、まず世界のどこが痛んでいるのかを見なければならない。前世の僕を救い直すために、亡き母の冗談を僕なりの方法で現実にするために、そして今世の僕が何を望み、何者になろうとしているのかを確かめるために、僕は宇宙へ行く。

 

 その夜、遠い記憶の底から母の笑い声が聞こえた気がした。

「気に食わない奴を、札束でビンタしてやりたいね」と囁いた。あの人は、まさか自分の冗談が時代を越え、十億ドルを持つ少年の人生目標になるとは想像もしなかっただろう。

 

 僕は切符を胸元へしまい、「任せてよ、母さん。百万円どころじゃないからさ」と小さく呟いた。

 

 

 翌朝、北米東岸の宇宙港は夜明け前から慌ただしかった。

 巨大な発射施設の周囲を、貨物車両と燃料輸送車が絶え間なく行き交い、遠くでは打ち上げを待つシャトルが照明の中に白い機体を浮かび上がらせていた。映像では何度も見たことがある。それでも、実物の宇宙船は僕の想像よりもはるかに大きく、そして無骨だった。空を飛ぶ優雅な乗り物というより、爆発する燃料の上へ人間を無理やり括りつけ、地球の重力から引き剝がすための巨大な機械に見えた。

 人類が宇宙へ進出したという事実は、こうして目の前に立つと、夢というより執念の産物に思えた。

 

 見送りに来た母は、出発時刻が近づくにつれて口数を失っていった。前世の母ではない。ムルタ・アズラエルとして生まれた僕を三歳まで育て、記憶が蘇って倒れた僕の傍らで三日三晩眠らずにいた、今世の母である。

 

 僕が三十歳分の記憶を持っていようと、大学を卒業していようと、十億ドルを築いていようと、彼女にとって僕は十二歳の息子だった。

 

「無理をしないこと。食事を抜かないこと。眠れないなら医師に相談すること。それから、予定を変えるときには必ず連絡を」

 

 母は昨夜から何度も繰り返している。僕が「分かっているよ」と答えるたび、その目に浮かぶ不安はかえって濃くなった。

 

 父は母ほど取り乱してはいなかったが、僕の旅行日程を記した端末を何度も確認していた。専属医師、警備責任者、秘書、随行員、各都市での連絡先。父は僕が一人で旅に出ることを最後まで許さず、結局、小規模な外交使節団に近い人数が同行することになった。

 

 いつになく真剣な表情で「君は自分を大人だと思っているようだが、世間から見れば十二歳の億万長者だ。誘拐犯にとって、これほど分かりやすい商品もない」と父は言った。

 

「商品という表現はどうかと思います」

 

「投資家なら公正な価値評価の重要性は理解できるだろう」

 

 そんな冗談めいた会話を交わしても、父の声には息子を手放す寂しさが混じっていた。

 

 搭乗口へ向かう直前、母は僕を抱き締めた。

 十二歳の身体は、三十歳の記憶とは関係なく、その温もりに安心した。今世の両親を前世の両親の代用品にしているつもりはない。亡くした母への思いと、目の前にいる母への愛情は別のものでありながら、僕の中で矛盾せず存在していた。

 

 「必ず帰ってくるよ」と言うと、母は「当たり前です」と答えた。それから少し間を置いて、こう続けた。

 

 「どんなに素晴らしい景色を見ても、地球に帰る場所があることを忘れないで」

 

 その言葉が、旅の途中で何度も蘇ることになるとは、このときの僕はまだ知らなかった。

 

 シャトルの座席に身体を固定され、発射時刻を待っている間、僕は自分が少しも落ち着いていないことを認めざるを得なかった。金を動かすときには、一億ドル規模の判断でも手は震えない。企業の命運を左右する契約書にも、必要なら迷わず署名できる。

 

 しかし、これから自分の身体を乗せた巨大な燃料タンクへ点火すると考えると、心臓は年齢相応に早鐘を打った。窓の外に見える発射塔は静止しているのに、その静けさがかえって不気味だった。やがて機内放送が最終確認を告げ、船内の照明が落ちる。カウントダウンが始まると、乗客たちのざわめきも消えた。

 

 零を告げる声と同時に、世界が震えた。背中から突き上げられるような衝撃があり、全身が座席へ押しつけられる。身体の中の臓器まで重くなり、胸郭が圧迫され、呼吸するという当たり前の動作に意思が必要になった。

 

 窓の外では発射施設が急速に遠ざかり、雲が一瞬で下へ沈んでいく。優雅さなど微塵もない。人類の宇宙進出は、地球に別れを告げて静かに飛び立つ行為ではなかった。地球の重力に抵抗し、轟音と振動の中で強引に身体を引き剝がす、ほとんど暴力に近い行為だった。

 

 加速が続く間、僕は何度も吐き気を覚えた。三十歳の精神があろうと、十二歳の内臓は十二歳のままである。隣に座る専属医師は、僕の顔色を見て「無理に我慢されなくても」と小声で言ったが、初めての宇宙旅行で吐いたという記録を残すのは、いささか格好が悪い。

 

 もっとも、その直後に前方の座席から盛大な音が聞こえ、僕は自分の虚栄心がひどくくだらなく思えてきた。宇宙へ行く人間がすべて英雄的である必要はない。

 人類は吐き気を堪え、胃袋をひっくり返しながら、それでも星の外へ出ていったのだろう。

 

 やがて、身体を押さえつけていた力が消えた。急に軽くなった腕が浮き、固定されていない小物が船内を漂い始める。無重力という言葉は知っていた。それでも、自分の身体が上下という概念から解放される感覚は、知識では理解できないものだった。

 胃の辺りが落ち着かず、頭の方向も曖昧になる。客室乗務員は慣れた動きで座席の固定を確認し、窓の遮光板を開けていった。そして僕は、窓の外に広がった光景を見た。

 

 ——地球は青かった。

 

 あまりにも有名で、あまりにも使い古された言葉(ガガーリン)だった。映像でも写真でも、幼い頃から数え切れないほど見ている。

 

 それでも、本物を前にすると、他の表現を探すことができなかった。

 深い青の上に白い雲が流れ、その縁を薄い光が包んでいる。陸地も海も、すべてが一つの球体の上に収まり、そこに何十億もの人間が暮らしていることが嘘のように思えた。かつての国境は見えなかった。国家も、民族も、貧富も、戦争も見えない。ただ青く、静かで、宇宙の闇の中に浮かんでいた。

 

 僕は企業の価値を計算できる。土地の収益性も、都市の将来性も、航路の採算も計算できる。

 だが、地球の価格だけは計算できなかった。資源量や人口や生産力を合計すれば、何らかの数字は出せるだろう。

 しかし、今、窓の外にある青い星の価値を、それだけで表すことはできない。あそこには前世の僕が生まれた街があり、母と暮らした狭い部屋があった。今世の両親と過ごした屋敷があり、僕が設立した会社があり、まだ会ったこともない人々の人生がある。

 

 そのすべてを含む星を前にして、僕の頭は初めて計算を止めた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。