【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
静止軌道ステーションへ到着したのは、それから数時間後だった。
地球と月を結ぶ交通の要衝であり、宇宙へ向かう人間の多くが一度は通過する巨大施設である。外観は複数の円筒と居住ブロックが結合した、都市というより巨大工場に近い姿をしていた。宇宙港、ホテル、倉庫、税関、商業施設、修理ドックが一体となり、貨物船や旅客船が絶え間なく発着している。
地球から離れた場所でありながら、内部へ入れば広告と案内放送と企業の看板が溢れ、地上の大都市と大きく変わらなかった。宇宙は新天地である以前に、すでに巨大な市場だった。
一等旅客用の展望区画は、地上の高級ホテルをそのまま無重力空間へ持ち込んだような場所だった。薄い人工重力が働き、床には絨毯が敷かれ、窓際には磨かれたテーブルが並んでいる。
乗客たちはシャンパンを片手に、地球を背景として写真を撮っていた。新婚旅行らしい夫婦もいれば、子供へ初めての宇宙を見せる家族もいる。
前世は旅行なんてものにはとんと縁がなかったし、今世でも初めての旅行である。「高い料金を支払い、旅を楽しむ」という行為そのものに、少々の罪悪感を覚えた自分に驚いた。貧乏根性はなかなか無くならないらしい。
それは快適すぎる環境も原因か。専用ラウンジを利用し、荷物は係員が運び、次の船が出るまで個室で休むことができる。前世の自分がイメージしていた「旅」とは随分違っていた。
窓の向こうには地球が大きく浮かんでいた。その美しさに見入っていると、反対側の小さな窓へ一隻の輸送船が接近してくるのが見えた。
一等客用の月航路船とは比べものにならないほど無骨で、機体表面には貨物用コンテナが並び、その中央に細長い居住区画が接続されている。僕の目は自然に船籍番号を追い、すぐに搭載人数と航路を端末で調べた。
地球からサイド3へ向かう移民輸送船。定員八百四十名。乗客の多くは、連邦の移住計画によって宇宙へ送られる労働者とその家族だった。
「ずいぶん詰め込むんだな」
僕の独り言を聞いた秘書——父に連れて行けと言われた——が、自然な笑顔で答えた。
「移民船は輸送効率を優先しておりますので。個室を設けるより、一度に多くの方を運んだ方が費用を抑えられます」
説明自体は間違っていない。移民の多くは渡航費を連邦か雇用先企業に立て替えてもらい、到着後の給与から返済する。輸送費が高くなれば、その借金も増える。居住環境を簡素化することには、経済的な合理性があった。しかし、合理性があることと、それが正しいことは同じではない。
ラウンジの近くで、幼い子供の声がした。
「あの船にも人が乗っているの?」と、地球を眺めていた富裕層の少女が母親に尋ねていた。母親は一度だけ輸送船へ視線を向け、「ええ、作業員の人たちよ」と答えた。
「あの人たちも月へ行くの?」
「いいえ。もっと遠いコロニーへ行くの。私たちとは行き先が違うのよ」
「へえー、作業員って大変なのね。」
少女は納得したように頷き、再び地球を背景に写真を撮り始めた。悪意はない。ただ、自分たちとは異なる人間として、ごく自然に分類しただけだった。
地球は、どこから見ても美しかった。
しかし、それを見る窓の値段は、誰にでも同じではなかった。一等旅客はシャンパンを飲みながら青い星を眺め、移民たちは狭い区画で到着後の生活説明を受けている。
僕は宇宙移民が棄民として扱われる現実の一端にややショックを受けながら、彼らを上から眺める窓の内側に立っていた。
その事実は、どれほど立派な理念を並べるよりも雄弁だった。金によって選択肢を得た僕と、金がないために移住以外の選択肢を失った彼ら。同じ宇宙へ向かいながら、その旅は最初から別のものだった。
もっと間近で見てみたい。いや、見なければならない。僕はデータの上でしかモノをしらない。現実の中でモノを知れば、チートの力にもますます磨きがかかろうというものである。
そう内心言い訳しつつ、秘書と護衛に移民船側の共用ラウンジに行くと告げた。
当然のように反対されたが——過保護な両親から何かしら言い含められているのは知っている——ここは雇い主権限で黙らせておく。
「お前たちは一流のプロだと聞いた。僕を守る自信がそんなにないのか? 僕はあなたたちを信じている」
と
談笑しながら、共用ラウンジに赴く。やはり金持ち用の専用ラウンジとは趣が大違いである。前世の自分は「こっちの方が自宅のような安心感がある」とのたまい。今世の自分が「これが資本主義の現実。金持ちに生まれてよかった」と単純な感想を抱いた。
そのとき、共用ラウンジの入口で小さな騒ぎが起きた。地味な服を着た女と、十歳ほどの少年が警備員に止められている。
警備員に何事か凄まれ女が何度も平謝りしていた。息子らしき少年は不安そうな顔をしている。母子家庭だろうか。
少年は何も言わず、母親の隣で俯いていた。その横顔には怒りも悲しみもなかった。初めから、自分たちの無力さを理解している顔だった。
「母に何事か言いたいが我慢している」、そんな顔だった。
僕はその表情を知っていた。前世で何度も鏡の中に見た顔である。欲しいものがあっても、値段を見た瞬間に諦める。
選択肢が示される前から、自分には関係がないと判断する。そうすることで、欲しがった自分が傷つかないようにする。
貧困は人間から物を奪うだけではない。欲しがる権利まで奪っていく。
なぜか胸が切なくなり僕は割って入ったのだった。
「待ってください」
僕が声をかけると、警備員も女性も言い合いを止めた。同行していた秘書が何か言おうとしたが、僕は手で制した。説明を求めると、警備員が答えた。
「いえ、それがこのお客様の持っている乗車切符が、どうも偽造されているチケットのようでして……」
「そんな?! 私はちゃんと前金を払いました。ちゃんと役人の人から貰ったんです!」
よくよく話を聞いてみると、貧困に苦しむ女性は宇宙なら稼げると聞いて、有り金はたいてサイド3への就職を決めたらしい。らしい、というのはそれは詐欺だったからだ。サイド3までの移住費用をすべて持ってくれるから手付金だけ払ってくれと言われ、代わりに受け取ったのがこの偽造切符だったわけだ。
甘い言葉で詐欺師に騙される。よくある話である。よくある悲劇だった。そして、僕はそれを許してはならない。だって、これは札束ビンタをするチャンスなのでは?
「なるほど。実は、彼女は僕の会社の従業員なんです。手違いがあったようですね。上にはあとで話は付けておきましょう。問題はありますか?」
警備員は一瞬迷い、それから僕の顔と胸元の旅客証を確認した。
ムルタ・アズラエルという名を知らなくても、最上位区分の旅客証が持つ意味は理解できる。もしくは、僕のことを知っている可能性もある。ほどほどの知名度はあると自負していた。
「お客様の同伴者ということであれば」
と、警備員はすぐに態度を改めた。規則は消えたのではない。金を持つ人間が保証人になったことで、適用されなくなっただけだった。
警備員が立ち去ったあとも、女性はしばらく何が起きたのか理解できていないようだった。
偽造された搭乗券を両手で握り締め、僕と警備員が消えていった通路とを交互に見ている。その顔には助かったという安堵より、自分の足元が突然なくなったような戸惑いが浮かんでいた。
無理もない。全財産を差し出して手に入れたはずの宇宙への切符が紙くずだと告げられ、その直後に見知らぬ少年から、「あなたは自分の会社の従業員である」と宣言されたのである。隣にいた少年も状況が一変したのを感じたのか、母親を守ろうとするように半歩前へ出る。警戒心の強い目で僕を見ていた。
「あの……先ほどは、ありがとうございました」
女性はようやくそう言うと、深く頭を下げた。しかし、すぐに顔を上げ、困惑を隠せないまま続けた。
「でも私は、あなたの会社で働いてなどいません。あんなことを言って、本当に大丈夫なのですか」
「今から働けば、嘘ではなくなります」
僕が答えると、女性は言葉を失った。少年の方は眉をひそめ、露骨に怪しいものを見る顔をした。
同行していた秘書——父がつけたハワードという名前の優秀な秘書だ。30代で漆黒の長髪をオールバックにした男で、頼りになるのは事実。ただ、女性秘書ならもっとよかった——は僕の背後で小さく息を吐いた。 彼にとっては、また僕が思いつきで新しい案件を増やした瞬間である。
しかし、僕には思いつきのつもりはなかった。目の前の親子を助けるために、同情から金を渡して終わらせるのではない。彼女が持つ能力と、僕の企業が必要としている人材とを結びつける。それができるなら、これは慈善ではなく、正当な雇用になる。
「まず、お名前を確認してもよろしいですか」
僕は女性が持っていた偽造切符を受け取り、表面に記された文字を読んだ。
「メアリー・ワイズマンさんですね。本名ですか?」
「もちろんです!」
彼女は反射的に声を上げた。詐欺師の仲間ではないかと疑われたと思ったのだろう。少年も一歩前へ出て、「母ちゃんは嘘なんかついてねえ」と強い口調で言った。僕は二人の反応を見て、自分の言葉が足りなかったことに気づいた。
「失礼しました。あなたを疑っているわけではありません。こうした移民詐欺では、被害者に偽名を使わせ、その名義で別の犯罪へ巻き込むことがあります。念のため確認しただけです」
メアリーは少し肩の力を抜いたものの、偽造切符を見る目にはまだ恐怖が残っていた。
僕は端末へ切符の識別番号を入力し、発行記録を照会させた。番号そのものは実在していたが、本来は三か月前に使用済みとなった貨物会社職員用の搭乗証だった。表面の氏名と航路だけを書き換え、正規の切符に見せかけたのだろう。
決済記録をたどるようハワードへ指示すると、彼は手早く作業を始めた。ほどなくして、メアリーが前金を支払った仲介業者は登録住所を持たず、同じ名義で複数の移民希望者から金を集めていたことが判明した。
「よくある手口です」
ハワードが低い声で報告した。
「宇宙へ行けば高い賃金を得られると持ちかけ、渡航費の一部だけ先に払わせる。被害者が港へ着く頃には、業者は姿を消している」
「同じ業者に騙された人間は、ほかにも?」
「今調べたところ、今回の渡航者の中で少なくとも七名。実際には、もっと多いでしょう」
「全員を調べてください。トラブルが起きているようなら、僕が正規の切符と仕事を用意します」
僕がそう言うと、ハワードは端末から顔を上げた。その表情は反対というより、心配に近かった。
「坊ちゃま」
「何です」
「目の前へ手を伸ばすことを、お止めするつもりはありません。しかし、坊ちゃまの手は長すぎるのです」
その言葉の意味が分からず、僕は彼を見返した。ハワードはメアリー親子へ視線を向け、それから窓の外に停泊する移民船へ目を移した。
「今は、この親子と、同じ業者に騙された数人へ手が届くでしょう。ですが、これから坊ちゃまは多くの会社を持ち、財団を持ち、いずれは国家にすら影響を及ぼすほどの力を手に入れるかもしれません。手が長くなればなるほど、指の隙間からこぼれ落ちる者も増えます。そのすべてを、ご自分の責任だと思わないでください」
「手が届いたのに助けなかったなら、僕の責任でしょう」
「手が届くことと、抱え切れることは違います」
僕はすぐには答えなかった。正しい忠告だと思う。
世界には貧困も病気も戦争もあり、そのすべてを一人で救うことなどできない。どれほど金を増やしても、必ず届かない場所が残る。それでも、目の前で沈もうとしている人間を見ながら、ほかにも救えない者がいるからと手を引くことは、僕にはできそうになかった。
——だって、札束ビンタするチャンスだろう?
「それでも、今は届きます」
僕が言うと、ハワードは深く息を吐き、それ以上は止めなかった。
「承知しました。被害者の確認を進めます」
結局のところ、僕はその忠告を最後まで生かせなかった。
手の届かない場所で誰かが死ぬたび、もっと早く、もっと遠くまで手を伸ばせなかった自分を責めることになる。だが、それはまだ先の話である。このときの僕には、目の前の親子を救える力があり、その力を使わない理由などなかった。
——札束ビンタができる限り、僕は止まらないのだろう。