【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
「メアリーさん。地球では、どのような仕事を?」
僕が尋ねると、彼女は戸惑いながらも、北米の工業都市で精密機器の検査員をしていたと答えた。
電子部品の外観検査と寸法測定を担当し、十年以上の経験がある。
しかし、工場の縮小で解雇され、別の仕事を探していたところ、サイド3の宇宙機器工場で高賃金の検査員を募集しているという話を聞いたのだという。詐欺師が持ちかけた求人は架空だったが、彼女の技能そのものには十分な需要がある。
「ちょうどいいですね」
「何がですか」
「僕が出資しているサイド3の生活設備メーカーで、検査部門の人材を募集しています。コロニー用の空調部品や水再生装置を作っている会社です。経歴を確認し、技能試験に合格する必要はありますが、条件が合えば雇用できます」
「そんな……急に言われても」
「急に失業し、急に騙され、急に宇宙港へ取り残されたのですから、一つくらい急に良いことが起きても構わないでしょう?」
ウインクすると、メアリーは笑うべきか泣くべきか分からないような顔をした。僕はハワードへ会社の採用担当者との通信を指示し、同時にメアリーの前職確認を進めさせた。正規の手続きを省くつもりはない。彼女に能力がなければ、別の仕事を探す必要がある。
しかし、話を聞く限り、彼女が役に立たない可能性は低かった。
「渡航費と、到着後の住居は会社が負担します。入社時の転居費用として処理できます」
そう説明したとき、それまで黙っていた少年が口を開いた。
「施しなんていらねえぞ」
幼い声だったが、言葉には強い意志があった。母親は慌てて少年をたしなめようとしたが、彼は僕から目をそらさなかった。
「母ちゃんは働ける。俺だって働けるようになったら返す。金持ちだからって、勝手に助けた顔するなよ」
「君のお母さんを労働者として雇うのです。施しではありません」
「でも、切符の金はお前が払うんだろ」
「会社の経費です」
「その会社、お前のなんだろ」
「一部は」
「じゃあ、同じじゃねえか」
理屈としては乱暴だが、彼が言いたいことは分かった。助けられるだけの存在にはなりたくないのだ。父親がいない家庭で、母親が苦労する姿を見てきたのだろう。自分も家族を守る側でありたい。その誇りを、僕が金で踏みつけるわけにはいかなかった。
「それでは、投資ということにしましょう」
「投資?」
「ええ。君のお母さんが働けば、会社は利益を得ます。会社が利益を得れば、僕にも利益が入ります。だから、これは僕が儲けるための投資です」
「ふーん、難しいことはわからねえや。でも投資って何か返さないといけないんだろ。なら、母ちゃんだけには負担させられねえ。俺にも何か投資してくれよ。頑張って返すからさ!」
物おじしない。なかなかユニークなことを言う少年だ。
僕が今まで出会ったことのなかったタイプである。背後ではメアリーが青ざめ、秘書や護衛たちがハラハラしている。だから、僕もユーモアをもって返した。
「では——未来の友情への投資ということで」
少年は目を瞬いた。
「何だそりゃ。意味が分からねえ」
「僕にも分かりません。友人へ投資したことがないので」
そう答えると、少年はしばらく僕の顔を見つめたあと、突然笑い出した。
「ダチになるってか。お前、すげえ変な奴だな」
「初対面の相手に失礼ですね」
「でも、お前すげえよ。大人がみんな、お前の言うこと聞いてる」
「僕の言うことを聞いているのではありません。僕の名前と旅客証と資産を見て判断しているだけです」
「同じじゃねえか」
「かなり違います」
「俺には分かんねえ」
少年は笑ったまま、僕へ手を差し出した。
「俺、アーサー。アーサー・ワイズマン」
「ムルタ・アズラエルです」
「知ってる。さっき警備員が呼んでた。それで、お前いくつ?」
「十二歳です」
アーサーの笑顔が固まった。
「同い年かよ!」
その声は展望室に響き、周囲の客が何事かとこちらを振り返った。僕は少し居心地の悪さを覚えたが、同時に妙な可笑しさも感じた。大学では最年少の学生として扱われ、会社では経営者や投資家として見られ、屋敷ではアズラエル家の跡取りとして育てられてきた。同年代の子供と、ただ年齢のことで驚き合う経験などなかった。
「十二歳で、何でそんな偉そうなんだよ」
「偉そうなのではありません。実際に責任があるのです」
「やっぱり変な奴だな」
「君はずいぶん気軽ですね。僕が誰か知った上で、その態度ですか」
「名前を教えたんだから、もう友達だろ」
「名前を教えたら、友達になるのですか?」
「知らねえのか。『名前を呼んだら友達』なんだぜ」
あまりに単純な理屈だった。
しかし、不思議と嫌ではなかった。誰かが僕へ近づくとき、その背後にはたいてい目的があった。父の名、家の財産、僕の才能、投資を引き出せる可能性。
アーサーにも助けを必要とする事情はある。だが、彼は僕へ頭を下げるどころか、施しを拒み、変な奴だと笑った。僕をアズラエル家の御曹司ではなく、同い年の少年として扱っている。
「君は、サイド3で何をしたいのですか?」
僕が尋ねると、アーサーは少し考えた。
「まずは勉強する。母ちゃんを手伝って、働けるようになったら働く。それから金を貯める」
「何のために?」
「結婚するため」
この少年は何をしたいのか。いまだ迷うことの多い自分が参考までに聞いてみたら、予想外の答えだったので僕は聞き返した。
「結婚?」
「うん。俺、父ちゃんいないからさ。自分が父ちゃんになったら、どんな感じか知りたいんだ。子供ができたら、ちゃんと飯食わせて、学校にも行かせる。母ちゃんみたいに、一人で何でもやらなくていい家にする。もちろん、母ちゃんにだって楽をさせてやるんだ」
それは世界を変える夢ではなかった。
国家を動かすことでも、富豪になることでもない。家庭を持ち、子供を育てる。それだけの、ありふれた夢だった。
しかし、父親のいない家庭で育ち、母親が全財産を詐欺で失ったばかりの少年にとって、それは決して小さな夢ではない。
「……いい夢じゃないか」
過去の記憶が蘇る。もう終わったことだ。僕には叶えられなかった夢である。心の底から僕が賛辞を贈ると、思ったよりも真面目に返されたのに気づいてアーサーは少し照れたように鼻をこすった。
「お前は?」
「世界一の金持ちになります」
「でっけえな」
「国家でさえ無視できないほどの財産を作ります」
「それで何すんだ?」
「札束で、気に食わない現実を
「やっぱり意味分かんねえ」
アーサーはまた笑った。その笑い声につられるように、メアリーの表情にもわずかな笑みが浮かんだ。偽造切符を突きつけられてから、彼女が初めて見せた笑顔だった。
「それでは、友情への投資の見返りを決めましょう」
僕が言うと、アーサーは警戒するように目を細めた。
「返せって言うのはわかるが、ごめん。俺には何もないぞ」
「金を返せとは言いません。君が将来結婚して、子供が生まれたら、その子の名前を僕に付けさせてください」
「ふーん。そんなんでいいのか?」
「何を言っているんです。名前は両親が子供へ贈る最初の贈り物です。しかも、一度付ければ、よほどの事情がない限り一生変わりません。軽く考えてよいものではありませんよ」
「急に怖えこと言うなよな」
「怖くなりましたか?」
「いや、全然。お前、頭いいんだろ。変な名前にはしねえよ」
「責任重大ですね」
「そんなのでいいなら、約束してやる」
アーサーは手を差し出した。僕はその手を取った。暖かい手だった。子供の体温だから高いのだろう、と冷静な思考をする一方で、感情は心が熱くなっているからだと判断した。
「では、無事に子供が生まれるところまで、ずっと投資してやります。勉強して、仕事をして、素敵な相手を見つけて、幸せな家庭を作ってください。途中で諦めたら、投資は打ち切りですからね」
「お前は俺の母ちゃんか」
「失礼な。僕は投資家です」
「変わんねえよ」
「まったく違います」
「お前って、意外とお人好しなんだな」
「おひと……?」
聞き慣れない評価だった。天才、神童、怪物、野心家。そう呼ばれたことはある。
しかし、「お人好し」と言われたのは初めてだった。僕が言葉を失っていると、メアリーが声を立てて笑った。アーサーも彼女につられて笑い、少し離れた場所にいたハワードたちまで口元を緩めていた。
数時間後、メアリーの経歴確認と簡易面接が終わった。前職の工場からも勤務態度と技能に問題がないとの回答が届き、サイド3の会社は正式に採用試験を実施することを決めた。到着後に実技試験を受け、合格すれば検査部門へ配属される。試験に落ちても、社内訓練を受けた上で別部署へ移る道を用意させた。二人分の正規搭乗券も発行され、親子は予定していた移民船へ乗れることになった。
「必ず返します」
出発口で、メアリーは何度も頭を下げた。
「返す必要はありません。働いた分の給料を受け取ってください。会社に利益をもたらしてくれれば、それで十分です」
「でも、今日のことは一生忘れません」
「それなら、困っている誰かを見つけたときに、その人へ返してください」
僕がそう言うと、メアリーは強く頷いた。
アーサーは僕の前へ立ち、少し気まずそうに靴の先で床をこすった。
「手紙、書くよ」
「データ通信でよいのでは?」
「友達には手紙を書くもんだって、母ちゃんが言ってた」
「そうですか。では、僕も書きます」
「絶対だぞ」
「君こそ、字の練習をしてください。読めない手紙には返事をしません」
冗談めかして僕は言った。
「うるせえな。お前の方が子供みたいな字だったら笑ってやる」
乗船開始を告げる放送が流れた。メアリーは最後にもう一度頭を下げ、アーサーの肩を押して出発口へ向かった。少年は何度も振り返り、搭乗通路へ入る直前に、大声で僕の名を呼んだ。
「ムルタ! 絶対に手紙書けよ!」
展望室にいた人々が再びこちらを見た。僕は少し恥ずかしかったが、彼に聞こえるよう声を張った。
「君もだ、アーサー!」
名前を呼んだら友達なのだと、彼は言った。その理屈が正しいのかは分からない。けれど、僕にはそれで十分だった。
親が用意した教師でもなく、会社の部下でもなく、投資先の経営者でもない。自分で出会い、自分で名前を呼び、自分の意思でつながった初めての友人だった。
——それが、ワイズマン家との長い付き合いの始まりとなった。
アーサーは約束どおり、サイド3から何通もの手紙を送ってきた。学校での出来事、母親の仕事、初めて給料を受け取った日、好きな女性ができたこと、結婚を決めたこと。そのたびに僕は返事を書き、頼まれてもいない助言をし、ときには過剰なほど世話を焼いた。
彼は僕が思っていたよりも早く夢をかなえ、やがて一人の息子をもうけた。
『約束だからな。こいつの名前を付けてくれ』
その手紙を受け取ったとき、僕は国家予算に匹敵する投資判断よりも長く悩むことになった。名前とは、両親が子供へ渡す最初の贈り物であり、その者が生涯背負う言葉でもある。少年時代の軽い約束が、これほど重い責任になって戻ってくるとは思ってもいなかった。
宇宙移民における希望の星の名前をつけられたその子が、後にどのような人生を歩み、宇宙世紀の小さくて大きな戦争へ巻き込まれていくことになるのか。
それは、また別の話である。