【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
第10話 カノーラ・ハイタウン
フォン・ブラウンが視界に現れたのは、地球を発ってから数えて三日目のことだった。
月は遠くから見れば、ただ静かな天体である。
灰色の地表に無数のクレーターが刻まれ、光に照らされた側と闇に沈む側とが、刃物で切り分けたような境界を作っている。海もなければ、雲もない。生命の存在を感じさせるものは、どこにも見当たらなかった。
それでも船が高度を下げていくにつれ、荒涼とした地表のあちこちに人工の光が見え始めた。着陸誘導灯が、月面に細い線を描いている。採掘施設の金属外壁が陽光を反射し、遠方では貨物船が白い噴射光を残して離陸していく。死んだ星の表面へ、人類が無理やり血管を通し、血を流し始めているように見えた。
「地球の王子、フォン・ブラウンへ行く――なんてね」
前世で見た古い映画の題名をもじり、僕は小さく呟いた。自分で言っておいて、あまり似合っているとは思えなかった。王子というには自分で金を稼ぎすぎているし、庶民というには護衛の人数が多すぎる。何より、宇宙船の一等客室で月を眺めながら言う台詞としては、少々浮かれすぎていた。
「何かおっしゃいましたか?」
隣に立つ秘書のハワードが尋ねる。
「いいや。前世の……ではなく、昔読んだ物語を思い出しただけだよ」
「そうですか」
ハワードは疑う様子もなく頷いた。危ない。旅に出て気が緩んでいるらしい。十二歳まで転生者であることを隠し通してきたのに、月を見た程度で墓穴を掘っていては話にならない。
もっとも、窓の向こうの光景には、それだけの力があった。フォン・ブラウンは、人類が月面に築いた最初の本格的な恒久都市である。地球から月や各サイドへ向かう人と物が集まる交通の要衝であり、同時に鉱業、研究、金融、観光の中心地でもあった。
資料の上では知っている。人口、産業構造、税収、平均所得、主要企業。
都市の数字ならば、僕は市の職員より詳しいかもしれない。
しかし、数字の中に実際に降り立つのは初めてだった。着陸船が月面港へ接続すると、乗客は気密通路を通って入国区画へ移動した。月面都市といっても、地表へ建物が並んでいるわけではない。放射線や隕石、激しい温度差から住民を守るため、都市の大部分は地下深くに築かれている。
入国手続きを終え、大型昇降機で地下へ降りる。耳がわずかに詰まり、数字の表示が地表からの深度を刻んでいく。扉が開いた瞬間、僕は息を呑んだ。
巨大な空間が広がっていた。
地下都市と聞いて、狭く薄暗い坑道のような場所を想像していたわけではない。それでも、目の前の光景は予想を大きく超えていた。
都市は平面ではなく、空洞全体へ立体的に築かれている。
底部には広い大通りと商業区があり、壁面には住宅と研究施設が幾層にも重なっていた。頭上では交通用の小型車両が透明な管路を走り、そのさらに上を資材運搬用のドローンが横切っていく。
人工太陽を模した照明が、地球の昼間と変わらない柔らかな光を街へ降り注がせていた。建物の間には街路樹さえ植えられている。本物の土を使っているのか、それとも月面資源を加工した人工土壌なのか。樹木の維持費と水の使用量はどれほどか。酸素生成への寄与を含めれば、単なる景観設備以上の価値がある。
考え始めた瞬間、僕の頭の中で数字が動き出した。
「ムルタ様」
ハワードの声がした。彼は僕の良き話し相手であり、完璧な秘書でもあった。
「何だい?」
「市長をはじめ、歓迎団の皆様がお待ちです」
そんなこと分かっていると返すが、一刀両断にされる。
「先ほどから三度申し上げています」
「それはすまなかった」
僕は端末に街路樹関連企業の調査指示を入力しながら答えた。ハワードは何か言いたげだったが、長年の経験から諦めるべき時を心得ている。歓迎団は、到着口に近い広場で待っていた。中心に立つのは、淡い栗色の髪を肩の辺りで揃えた若い女性だった。
年齢は二十代半ばほどだろうか。市長という肩書から想像していたより、ずっと若い。白を基調とした簡素なジャケットに——どこか学校の制服のようにも見えて懐かしさを感じた———赤い細身のタイを合わせている。華美ではないが、清潔感があり、人前に立つことへ慣れた装いだった。
柔らかな表情を浮かべている。
しかし、まっすぐにこちらを見る
ところが女性市長は、それを横からそっと押し下げた。
「長い挨拶はなしにしましょう。せっかく遠くから来てくれたのに、立ったまま話を聞かせるのも申し訳ないもの」
「しかし市長、公式の歓迎行事ですので」
「大切なのは形式より、来てくれた人がフォン・ブラウンを好きになってくれることでしょう?」
声は柔らかい。だが、助役はそれ以上反論しなかった。なるほど。気さくであると同時に、かなり頑固らしい。女性は僕の前まで歩み寄り、右手を差し出した。
「ようこそ、フォン・ブラウンへ。市長のカノーラ・ハイタウンです」
「ムルタ・アズラエルです。このたびは歓迎いただき、ありがとうございます」
よろしくね、と言われ手を握る。平均的な身長の女性だったが、握手には驚くほど力があった。
「ムルタ君、と呼んでもいい?」
「構いません。では、僕もハイタウン市長と」
「カノーラでいいよ」
即座に訂正された。どうやらかなり気さくな人物らしい。あるいはハイタウンという苗字に思い入れがないようにも見える。結婚して苗字が変わって不本意だった、とかだろうか。
「公的な場所で市長を呼び捨てにするのは、少し問題があるのでは?」
「名前を呼んだら友達でしょう?」
聞き覚えのある理屈だった。静止軌道ステーションで出会った
「以前、同じことを言った友人がいました」
「やっぱり、その人とは仲良くなれた?」
「ええ。僕にとって初めての友人です」
「だったら正しかったでしょう?」と、カノーラは得意げに笑った。
「私にもフェイトちゃんっていう親友がいたんだ。最初は少し難しい子だったけれど、一度名前を呼び合ったら、ずっと友達。だから私は名前って大切だと思うの。それでそのフェイトちゃんってとってもかわいくて、いい子でね。一緒の職場に就職したときなんか……」
唐突にマシンガントークを始めた彼女は、しかし遠い目をしていた。一見元気に嬉しそうに話しをしているようでも、チート持ちで多くの経験を積んだ僕の目からは逃れられない。どこか寂寥と諦観が感じられた。やはり理由は分からない。
おほん、と助役が小さく咳払いをして注意を引く。市長としての紹介から、いつの間にか親友自慢へ移っている。ハワードが無表情のまま、そっと僕の耳元へ顔を寄せた。
「ハイタウン市長は一度お話を始めると、長いことで有名です」
「聞こえていますよ、ハワードさん」
カノーラはにこやかに言った。笑顔のままだったが、ハワードがわずかに姿勢を正す。聴覚も鋭いらしい。
「大丈夫。市長の話も大切だけど、今日は街を見てもらう方が大切だから。まずは歩きましょう」
「予定では、先に市庁舎で正式会談を行うことになっていますが」
「街を見ないで、街の話をしても仕方ないでしょう?」
ハワードは僕を見た。僕は頷いた。まったくもって、その通りである。こうして僕たちは、歓迎団を引き連れてフォン・ブラウンの中心街へ歩き出した。
カノーラはよく話した。よく歩き、よく笑い、そして実によく話した。
街路樹を見れば、最初に植えられた樹木が根付かなかった失敗談を語り、交通管路を見れば、開通式の直前に制御装置が故障して、自ら作業着を着て復旧を手伝った話をする。
学校の前を通れば、月生まれの子供に地球の自然をどう教えるかを熱心に説明し、病院が見えれば、低重力環境での出産や骨密度低下の問題について語り始めた。
気さくなお話好き。そう表現すれば可愛らしい。
しかし、内容を聞いていると、この都市のほぼすべてを理解していることが分かる。
人口統計も予算も、設備の不具合も、住民から寄せられた苦情も覚えている。現場の職員は皆、彼女の顔を知っていた。
市長が声をかけると、清掃員も研究者も商店主も、驚きながら笑顔を見せた。
「ずいぶん市民との距離が近いんですね」と僕が言うと、カノーラは少し首を傾げた。
「遠いと、困っている声が聞こえなくなるでしょう?」と答えた。
「市長がすべてを直接聞く必要はありません。組織を整えれば、情報は集まります」
「もちろん、組織は必要だよ。でも数字だけだと、痛いとか、悲しいとか、悔しいとかは分からないから」
不意に、胸を突かれた。静止軌道ステーションへ到着する前の僕も、似たようなことを考えたばかりだった。
人口、所得、失業率、医療機関数。数字は知っていた。だが、そこに暮らす人間の声や匂い、街の温度は知らなかった。
「だから私は、できるだけ歩いて、話を聞くようにしているの。市長室で報告書を読むだけなら、私じゃなくてもできるもの」
カノーラは穏やかに言った。言葉は柔らかいのに、その姿勢は頑固なほど一貫している。この人は、おそらく自分が正しいと信じたことを簡単には曲げない。政治家としては危うい性質でもある。
だが、開拓都市の指導者としては、これほど頼もしい資質もないだろう。