【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
商業区へ入ると、街の活気はさらに強くなった。地球から訪れた観光客が月面土産を選び、仕事を終えた技術者たちが飲食店へ集まっている。研究者らしい男女がカフェの卓上へ設計図を広げ、身振りを交えて議論していた。
低重力を利用した遊技場では、子供たちが地球ではあり得ない高さまで跳び上がっている。一人の少女が壁を蹴り、身体を回転させながら着地すると、周囲から歓声が上がった。
「元気ですね」
「月の子は高いところが得意なんだよ。重力が軽いから、地球の子より動きが大きくなるの」
カノーラは自分のことのように誇らしげだった。
「市長も得意なんですか?」
「うん。昔はよく空を飛んだよ」
「空?」
「あはは、子供のころに無重力の中でってこと」
その直後、遊技場から弾かれたボールが、こちらへ勢いよく飛んできた 護衛が動くより早く、カノーラが一歩前へ出た。
左足を軸に身体をひねり、飛んできたボールを片手で受け止める。低重力とはいえ、かなりの速度だった。
「危ないよ。周りを見て遊ぼうね」
彼女は子供たちへ笑顔でボールを投げ返した。市庁舎からの随行員たちは誰も驚いていない。よくあることらしい。他方で、僕が連れた護衛たちは感心したように彼女を眺めていた。
「戦闘力も市長の資質に含まれるんですか?」
「護身術は少しだけだよ」
カノーラは笑った。
少しだけ、という言葉の信頼性は低そうだった。商店街には月面産の金属を加工した装飾品が並び、地球から輸送された本物の果物には目を疑うような値札が付いていた。リンゴ一個が、前世の僕の一日分の食費より高い。
「地球産の食品は高いんですね」
「輸送費がかかるからね。水分の多いものは特に高いよ。だからフォン・ブラウンでは、月面農業へ力を入れているの」
「生産量は?」
「穀物と葉物野菜なら自給率は六割を超えた。でも果樹はまだ難しくて――」
カノーラが答え始める。僕の頭の中では、すでに事業計画が組み上がっていた。低重力環境向けの果樹栽培設備。受粉管理。水使用量の最適化。地球から輸送される高級果物との価格差。観光客向けの収穫体験まで加えれば、農業と観光を一体化できる。
「ハワード」
「承知しています。月面農業企業の一覧を調査します」
「まだ何も言っていないよ」
「果樹栽培、水再生、観光事業の統合をご検討なのでしょう」
「よく分かったね」
「長年お仕えしていますので」
ハワードは諦めた顔で端末へ入力した。そんな彼のことがカノーラは興味津々のようだった。
「現在、十二件です」
「何が?」
「到着後、ムルタ様が新たに検討を始めた案件数です」
「街路樹と果樹栽培は別だから十三件だね」
「同じ農業分野です」
「顧客も収益構造も違う」
「十三件とします」
僕とハワードのやりとりを見て、カノーラが楽しそうに笑った。
「本当に、歩いているだけで投資先を見つけるんだね」
「問題がある場所には、改善の需要があります。需要があれば、事業になる可能性がある」
「それなら、この街は宝の山?」
「ええ。問題だらけですから」
案内役の職員たちが、微妙な顔をした。しかし、カノーラは気を悪くしなかった。
「うん。問題はたくさんあるよ」
あっさり認める。
「空気も水も作らないといけない。食料の多くは地球から運んでいる。医療費も高いし、機械は月塵ですぐ壊れる。住民は増えているのに、住宅も学校も足りない。地球の人たちはフォン・ブラウンを成功した都市だと言うけど、住んでいる私たちから見れば、まだまだ未完成なの」
市長の言葉に卑屈さはなかった。未完成であることを恥じるのではなく、これから作り上げる余地があることを喜んでいる。
「ムルタ君なら、この街をもっと良くするために、何をする?」
カノーラが尋ねた。少し考えた。行政改革。教育。医療。インフラ。環境整備。
どれも正しい。
しかし、それらを実現するために必要なものは一つだった。
「投資です」
僕が答えると、カノーラは目を瞬いた。
「もっと夢のある答えを期待していたんだけど」
「投資ほど夢のある言葉はありませんよ」
「そうなの?」
「まだ存在しない未来に対して、先に金を渡す行為です。成功する保証はない。それでも、価値があると信じて人や技術へ資源を託す。これを夢と言わずして何と言うんです」
カノーラは黙った。からかうような表情が消え、まっすぐに僕を見る。
「投資で、街を幸せにできる?」
「投資だけでは無理です」
「即答なんだ」
「金を使うのは人間です。どれほど金を集めても、間違った場所へ流せば浪費になる。だから、市長のように街を知っている人が必要です」
僕は周囲を見渡した。人工太陽の光の下を、大勢の人々が歩いている。地球から送られた者。月で生まれた者。観光客。研究者。労働者。その一人一人が、異なる事情と望みを抱えて暮らしている。
「僕には、金を増やし、事業を組み立てることができます。でも、何を良くするべきかは、住んでいる人にしか分からない。だから教えてください。あなたの街が、何に困っているのかを」
カノーラの表情が、ゆっくりとほころんだ。
「それじゃあ、いっぱい話さないとね」
「お手柔らかにお願いします」
「本当に長いよ?」
「覚悟します」
背後で助役が小さく息を吐いた。もう慣れっこなのだろう。
「アズラエル様、市長にその言葉を向けるべきではありません」
「どうして?」
「市庁舎へ着く前に日が暮れます」
「地下だから、日暮れは照明の設定次第だよ」
カノーラが真顔で訂正した。庁舎に戻ると言っても、お互いに忙しい身である。自然と道ながら話し合いをした。そこからの説明は、本当に長かった。
住宅不足。若手技術者の流出。低重力環境に対応した医療制度。月面生まれの子供たちの教育。地球資本による企業買収。水と空気の価格。採掘労働者の安全。観光収入を住民の生活改善へ回す仕組み。
カノーラは歩きながら、次々と街の課題を語った。
僕も質問を重ねた。予算規模は。事業主体は。過去の失敗は。民間へ委託できる部分は。住民が最も不満を持っているのは何か。
話を聞くほど、投資案件は増えていった。
「二十一件です」
ハワードが報告する。感情を排して客観的に報告する姿は、できる秘書そのものだ。
「低重力医療と高齢者住宅は連動させられるね]
「二十二件です」
「いや、一つに統合するから二十一件」
「減ることもあるのですね」
「代わりに月面保険を追加しよう」
ハワードが答える前に「二十二件だね」と言って、カノーラが声を上げて笑った。市長らしい威厳は少しもなかった。
だが、彼女が笑うと周囲の職員たちも安心したように表情を緩める。この人は、都市を権威で従わせているのではない。自分が先に歩き、自分が先に話を聞き、自分が先に責任を引き受けることで、人々を動かしているのだ。
しばらく歩くと、道路脇で一台の大型月面車が停止していた。
整備員が車体下部へ潜り込み、取り外した部品から灰色の粉末を払い落としている。僕が立ち止まると、カノーラが説明した。
「月塵だね。地球の砂と違って、風や水で丸く削られていないから、一粒一粒が鋭いの。機械にも宇宙服にも入り込んで、すぐ傷つけちゃう」
僕は整備員へ声をかけた。驚きながらも素直に質問に答えてくれる。隣にいるニコニコとした市長の存在も大きいだろう。
「同型の車両は、市内に何台ありますか?」
「四千二百台ほどです」
「点検時間は?」
「一台につき、週五時間から七時間ですね。古い車両ならもっとかかります」
「平均六時間として、毎週二万五千二百時間が月塵対策に消えている」
整備員は怪訝な顔をした。僕の中では計算が始まっている。
部品交換費。停止時間による逸失利益。整備員の人件費。事故率。保険料。粉塵対策素材の開発企業、整備会社、車両メーカーを結びつければ、一つの巨大な市場が生まれる。
「ハワード」
「防塵素材、整備会社、保険会社を調査します」
「車両メーカーも……」
「では、現在二十七件です」
「違う。四社を統合するなら二十四件だ」
「いえ、まだ実現していない以上二十七件です」
「数え方が保守的すぎるよ」
几帳面な彼らしく冷静に「ムルタ様の数え方が投機的なのです」と返答する。一方、カノーラは車体の傷を覗き込みながら、興味深そうに尋ねた。
「月塵までお金に変えられるの?」
「被害そのものを金にするわけではありません。被害を減らす技術に、価値を与えるんです」
へえ、と感心しつつ「同じように聞こえるけど」とカノーラは不思議そうな顔をした。愛嬌があるその姿は、年齢よりも幼く見える。
なるほど、これは人気になるわけだ。
「全然違います。困っている人から金を取るのではなく、困り事を解決して、その一部を報酬として受け取る」
「それで、たくさん儲かる?」
「たくさん儲かるようにします」
「自信があるんだね」
即座に「あります」と答えた僕をカノーラはしばらく見つめ、それから穏やかに笑った。
「じゃあ、期待してるよ。ムルタ君」
「友人として?」
「市長としても、友人としても」
名を呼び合えば友達になる。アーサーと同じ、ひどく単純な理屈だった。だが、この人が言うと、不思議と信じてもよいように思えた。
僕たちは再び街を歩き始めた。低重力の中を跳び回る子供たち。月面産の金属を売る商人。夜勤へ向かう労働者。研究資料を抱えた学生。
フォン・ブラウンには、確かな活気があった。
静止軌道ステーションで見た移民船のように、人間を効率よく運ぶためだけの場所ではない。ここには生活がある。産業がある。文化がある。誇りがある。
宇宙へ出た人類は、ただ地球から追い出されたわけではなかった。
何もない月へ渡り、地面を掘り、空気を作り、水を循環させ、光のない地下へ太陽を再現した。人類が宇宙へ進出したことは、間違いではない。
間違っているのは、宇宙へ渡った者たちを、地球の都合で移された労働力としてしか見ないことだ。資本と技術と人材を正しく結びつければ、宇宙は地球より豊かな場所にさえなり得る。フォン・ブラウンは、その可能性を証明していた。
市庁舎へ到着した時には、予定を大幅に過ぎていた。助役は疲れ切った顔をしていたが、カノーラはまだ話し足りない様子だった。
「このあと、技術博覧会にも行くんでしょう?」
「ええ。将来性のある技術を探します」
「だったら、きっと気に入ると思う。すごい技術を持っているのに、お金がなくて困っている人がたくさんいるから」
にこにこしながら、「それは素晴らしい」と話すと「困っているのに?」と彼女は思案顔である。
「投資家にとっては、解決できる問題があるという意味です」
「やっぱりムルタ君は、少し変わっているね」
「初対面の人から、よく言われます」
アーサーに言われたばかりだ。これで二度目。
「でも、悪い変わり方じゃないよ」
カノーラはそう言って、僕の肩を軽く叩いた。十二歳の少年へ向けるには自然な仕草だったが、僕は少しだけむずがゆさを覚えた。企業家も政治家も、僕を神童や資産家として扱う。
しかし、彼女は最初から、年下の友人へ接するように話している。それが嫌ではなかった。
「ところで、カノーラ」
「うん?」
「フォン・ブラウンで一番頑固な研究者は誰ですか?」
彼女は少し考え、それから悪戯を思いついた子供のように笑った。
「ロベルさんかな」
「どのような人です?」
「技術は本物。腕もいい。でも話を聞かないし、投資家が嫌いで、いつも怒ってる」
フッ、と意味深に「理想的ですね」とつぶやくと、「どこが?」とカノーラは反駁した。
「だって、
僕が答えると、彼女は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ながら、僕はまだ知らなかった。技術博覧会の片隅で出会うその頑固な研究者が、僕の人生へ思いがけない縁を運んでくることを。
そして、その日のうちに生まれる一人の赤ん坊の名前をだいぶ将来に聞いた、その瞬間、遠い前世の記憶が、再びかすかに揺れることなど、僕はまだ想像だにしていないのであった。