【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
俺には、変な友達がいる。
世界一の金持ちになるのが夢で、十二歳のくせに大人へ命令し、困っている人間を見つけると、助けるのではなく投資するのだと言い張る。
服も言葉遣いも、俺とは何もかも違っていた。
金色の髪はきれいに整えられ、身につけているものは、俺たち親子が全財産を集めても買えないような品ばかりだった。後ろには秘書と護衛が何人もついて歩き、大人たちはそいつが一言口を開くだけで態度を変えた。
どう見ても、物語に出てくる王子様だった。ただし、性格は王子様らしくなかった。偉そうで。理屈っぽくて。何でも金の話にして。
それでいて、どうしようもないほどのお人好しだった。
——そいつの名は、ムルタ・アズラエルという。
俺がムルタと出会ったのは、十二歳の時だった。
あの日、俺と母ちゃんは地球を捨てるつもりだった。いや、捨てるなんて言い方をすれば、母ちゃんはきっと悲しむだろう。新しい生活を始めるのだと、母ちゃんは何度も言っていた。
宇宙なら仕事がある。サイド3の工場なら、地球よりずっと高い給料がもらえる。住む場所も用意される。俺も学校へ行ける。何度も何度も繰り返していた。
まるで、口に出せば本当になると信じているようだった。
母ちゃんはお人好しだ。
他人の言葉をすぐ信じる。困っている人間を見れば、自分だって困っているくせに助けようとする。前の工場でも、同僚の仕事を代わって残業し、貸した金は返ってこなくても催促できなかった。そんな母ちゃんだから、俺は心配だった。
『宇宙へ行けば稼げる。渡航費も就職先が出してくれる。先に手付金だけ払えばいい』
そんな話を持ってきた男を、最初から信用していなかった。
けれど、怪しいと言ったところで、ほかにどうすればよかったのか。母ちゃんは工場を解雇されていた。貯金は減っていた。家賃も食費も待ってはくれない。地球に残っても、先がない。
俺だって、心のどこかでは信じたかったのだ。宇宙へ行けば何とかなる。今の生活から抜け出せる。母ちゃんが毎晩、金の計算をしながらため息をつかなくてもよくなる。
だから俺は、詐欺じゃないかと思いながらも、母ちゃんを止めきれなかった。
静止軌道ステーションの警備員から、切符が偽物だと言われた時。
俺は驚かなかった。やっぱりな、と思った。
母ちゃんを責めたかった。だから怪しいって言っただろ、と怒鳴りたかった。
けれど、何も言えなかった。母ちゃんは両手で切符を握り締めていた。指が白くなるほど強く握って、何度も、ちゃんと金を払ったのだと繰り返していた。その横顔を見ていると、怒ることなどできなかった。
母ちゃんだけが騙されたわけではない。俺も、宇宙へ行けば人生が変わると信じたかったのだ。全財産はなくなった。帰る場所もなかった。
俺たちは地球と宇宙の間で、行き先を失った。その時だった。
「待ってください」
子供の声がした。振り返ると、俺と同じくらいの少年が立っていた。
高そうな服。きれいな顔。後ろにはいかにも偉そうな大人たち。
最初は、金持ちの坊ちゃんが何か面白いものでも見つけたつもりなのだと思った。俺たちが困っている姿を見物しに来たのかもしれない。だから、あいつが母ちゃんを自分の会社の従業員だと言った時も、すぐには信用できなかった。
そんなわけがない。俺たちは、あいつの名前すら知らなかった。母ちゃんも正直に、あなたの会社では働いていないと言った。すると、あいつは澄ました顔で答えた。
「今から働けば、嘘ではなくなります」
何を言っているのか分からなかった。怪しい奴だと思った。母ちゃんを騙した男の仲間ではないかとさえ疑った。けれど、そいつは俺たちから金を取ろうとはしなかった。
母ちゃんが何の仕事をしていたのか。どれくらい経験があるのか。どんな機械を扱えるのか。それを聞き始めた。
可哀想だから助けるのではない。働けるなら雇う。会社に役立つなら給料を払う。
そういう話だった。
あとになって、俺はそのことがどれほど大切だったのかを知った。
あいつは母ちゃんを、騙された哀れな女として見なかった。働ける人間として見た。価値のある技能を持つ労働者として扱った。母ちゃんから、誇りまで奪わなかった。
それでも俺は不満だった。母ちゃんだけが借りを背負うように思えた。俺だって何か返したかった。だから、俺にも投資してくれと言った。
今考えれば、ひどく生意気な話だ。助けてもらう立場で、金持ちの御曹司へ条件をつけたのだから。ところが、あいつは怒らなかった。
「では、未来の友情への投資ということで」
変なことを言った。俺は笑った。
笑うしかなかった。それが、俺たちの始まりだった。
——名前を教えたら友達。
昔、近所の年上の子に聞いた理屈をそのまま口にしただけだった。
けれどムルタは、妙に真剣に受け取った。俺が十二歳だと言えば驚き、俺もあいつが同い年だと知って驚いた。
大学を出ている。会社を持っている。十億ドルを動かしている。
そんなことを聞いたあとでも、同い年だと分かった瞬間には、ただの変な奴に見えた。
俺たちは手紙を書くと約束した。そして俺と母ちゃんは、サイド3へ向かった。
あの時の俺は、ムルタに助けてもらったのだから、これからはすべてうまくいくと思っていた。けれど、人生はそんなに簡単ではなかった。サイド3へ着いた最初の日、母ちゃんは体調を崩した。
重力が軽い。空気の匂いが違う。
昼と夜は照明で作られ、空は巨大な板の向こうにある。
慣れない環境の中で、母ちゃんは何度も吐いた。
それでも仕事の採用試験を受けた。
そして落ちた。
地球で十年以上、精密機器の検査をしていた。技術には自信があった。けれど、宇宙用部品は地球のものと基準が違った。わずかな傷が空気漏れにつながる。温度差も放射線も考えなければならない。
母ちゃんの経験は役に立ったが、それだけでは足りなかった。
不合格を告げられた夜、母ちゃんは泣いた。
「やっぱり、私なんかが宇宙へ来たのが間違いだったのかもしれないね」
俺は何も言えなかった。大丈夫だと慰めたかった。けれど、何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。住居は用意されていたが、地球の家より狭かった。
食べ物は高い。水も空気も、使えば金がかかる。学校では地球生まれだとからかわれた。言葉の訛りを真似され、服が古いと笑われた。父親がいないことを知られて、宇宙まで逃げてきたのだと言われた。
喧嘩をした。相手の鼻から血が出た。俺の唇も切れた。学校から母ちゃんが呼び出され、俺はますます惨めになった。
地球へ帰りたかった。しかし帰る金などない。
そもそも、帰ったところで住む家も仕事もなかった。
俺たちは、どこにも行けなかった。
そんな時、ムルタから最初の手紙が届いた。豪華な紙に、美しい文字で書かれているのかと思っていた。実際には、妙に実務的な文面だった。長々としたあいさつの後にこう書かれていた。
『メアリーさんが技能試験に不合格だったと聞きました。当然です。
地球用の精密機器と、宇宙用の生命維持設備では、必要とされる検査基準が異なります。一度で合格できると考えていたのなら、その見通しの方が甘い。
再訓練の制度を用意しました。三か月後にもう一度受験してください。
これは慈善ではなく投資です。損失を出さないよう、十分に努力してください』
読んだ瞬間、腹が立った。何様だと思った。母ちゃんがどれほど落ち込んでいるのかも知らず、当然だなどと書いている。
けれど、母ちゃんはその手紙を読んで笑った。
「見捨てられてないみたいだね」
それから何度も読み返した。俺宛ての追伸もあった。
『アーサー・ワイズマン殿
学校で喧嘩をしたそうですね。殴り合いで解決できる問題は、世の中にそれほど多くありません。ただし、殴らなければ守れないものがあったのなら、負けないように鍛えてください。
それから勉強をしなさい。働くことは大人になってからでもできます。今の君ができる最も重要な投資は、教育です』
偉そうな手紙だった。十二歳の友達が書く内容ではなかった。
それでも、不思議と安心した。
遠く離れた場所に、俺たちのことを覚えている奴がいる。失敗したからといって、終わりだとは思っていない奴がいる。
母ちゃんは訓練を受けた。毎日遅くまで勉強した。俺も一緒に検査基準の資料を読んだ。難しいことはほとんど分からなかったが、用語を読み上げ、問題を出した。
三か月後、母ちゃんは合格した。
初めて給料を受け取った日、母ちゃんは小さなケーキを買ってきた。高かったから一つだけだった。二人で半分に分けて食べた。母ちゃんは、地球にいた頃よりずっと嬉しそうに笑っていた。
俺はそのことをムルタへ手紙で知らせた。
『母ちゃんが合格した。お前の投資は損しなかったぞ』
返事は短かった。
『当然です。僕は利益の見込めない投資をしません』
最後に、小さくこう書いてあった。
『おめでとうございます』
素直じゃない奴だった。
それから俺たちは、手紙を送り合った。俺は学校のことを書いた。母ちゃんの仕事のことを書いた。初めて友達ができたこと。喧嘩した相手とも仲直りしたこと。整備工場で手伝いを始めたこと。初めて給料をもらったこと。好きな女の子ができたこと。その子に告白して振られたことまで書いた。
ムルタの返事は、いつも変だった。学校で成績が上がれば、参考書が届いた。工場で働き始めれば、機械工学と会計の本が送られてきた。失恋したと書けば、恋愛について書かれた古い本が十二冊届いた。今思い返しても謎である。
疑問符を浮かべながら『どれも役に立たなかった』そう返すと、『恋愛は僕の専門外です』と頓珍漢なことを書いてきた。ムルタは世界の全ては本で解決できると考えているのだろうか。その後のやり取りはこんな感じである。
『なら送るな』
『調査は必要です』
『俺を実験台にするな』
『友人とは互いに学び合うものだと聞きました』
あいつ、絶対に楽しんでいたと思う。