【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
俺は成長し、工場で正式に働くようになった。母ちゃんと同じ検査部門ではなく、設備整備の道を選んだ。
機械の音を聞けば、どこが悪いのか少しずつ分かるようになった。現場の作業員が何に困っているのかも分かった。設計者は机の上で完璧な機械を作る。
けれど、実際に使う人間の身体までは考えないことがある。経営者は数字を見る。だが、その数字を作っている人間の疲れや不満までは見えない。
俺は頭が特別に良いわけではなかった。ムルタのように企業の将来を見抜くこともできない。けれど、現場で働く人間の声なら聞けた。
ある時、ムルタの会社がサイド3の工場を一つ閉鎖しようとした。
古い設備を使い続け、利益は出ていない。別の工場へ生産を集めた方が効率がよい。数字だけ見れば、正しい判断だった。けれど、その工場には何百人もの人間が働いていた。閉鎖されれば、すぐに次の仕事を見つけられない者も多い。
俺はムルタへ手紙を書いた。
『工場を残せとは言わない。赤字なのも、設備が古いのも分かっている。でも、そこで働いている奴らを数字だけで捨てるな。閉めるなら、次の仕事を作ってからにしてくれ。お前ならできるだろ』
返事はすぐには来なかった。怒らせたかもしれないと思った。経営のことなど分からないくせに口を出すなと言われても仕方がなかった。
数週間後、工場の閉鎖計画が変更された。
設備は段階的に停止され、作業員には再訓練が行われた。新しい生活設備工場や整備部門へ移れる制度が作られた。
全員が残れたわけではない。それでも、多くの人間が仕事を失わずに済んだ。
ムルタから届いた手紙には、こう書かれていた。
『指摘は妥当でした。再配置に必要な費用は大きいですが、熟練労働者を失うよりは安い。結果として、長期的な利益にもつながるでしょう』
やはり、利益の話にした。最後まで、俺の言葉に動かされたとは認めなかった。
けれど俺は知っていた。あいつは遠くを見ることができる。
遠くを見すぎて、足元が見えなくなることもある。俺にできるのは、その時に下を見ろと怒鳴ることだけだった。それが少しでも役に立ったのなら、嬉しかった。
やがて俺は結婚した。
相手は、同じ工場の事務部門で働いていた女性だった。俺がムルタの話をすると、最初は信じてもらえなかった。世界的な大富豪と手紙をやり取りしている。十二歳の時に友達になった。
子供が生まれたら名前をつけてもらう約束までしている。
「あなた、何かの詐欺に騙されていない?」
いつかの母ちゃんと同じことを言われた。
手紙を見せると、ようやく信じた。
「ずいぶん偉そうな人ね」
「だろ」
「でも、あなたのことをよく見ている」
「そうか?」
「興味がなければ、こんなに細かく返事は書かないでしょう」
そんなものかと思った。
結婚式にはムルタを招待した。本人は忙しく、来られるか分からないと言っていた。それでも当日、会場の一番後ろに、場違いなほど高そうな服を着た男が立っていた。
昔と同じ金髪。昔よりずっと背が高くなり、顔つきも大人びていた。
周囲の客がざわついた。
ムルタ・アズラエルだと気づいた者もいた。けれど、あいつは大勢の視線など気にせず、俺のところへ来た。
ムルタは開口一番に、約束を守りましたねと言ってきた。
「まだ子供はいないぞ?」
「結婚まで到達したという意味です。投資計画は順調です」
いつものムルタらしい言い分だ。俺の人生を事業みたいに言うな。
やつは心底不思議そうな顔をする。
「アーサー、違うのですか?」
「違う」
「では、友情への投資です」
「もっと悪い。でも、ムルタらしい」
俺たちは笑った。名前を呼んだら友達。
十二歳の時と何も変わらなかった。
そして今日、俺に息子が生まれた。
小さな身体。赤い顔。握り締めた手は、俺の指よりずっと小さい。
妻は疲れて眠っている。母ちゃんは孫の顔を見て泣いた。俺も少し泣いた。
父親がいない家で育った俺が、父親になった。子供に飯を食わせる。学校へ行かせる。妻一人へ何もかも背負わせない。母ちゃんを楽にさせる。
十二歳の俺がムルタへ語った夢は、すべてここにあった。机の上には、書きかけの手紙がある。
『息子ができた。お前との約束を果たす時が来たな。いや、投資に対する利益だったか。だからお前に』
そこまで書いて、手が止まった。本当に任せてよいのかと思った。名前は、親が子供へ贈る最初の贈り物だと、ムルタ自身が言っていた。
俺と妻の子供だ。俺たちが決めるべきではないか。迷っていると、目を覚ました妻が言った。
「まだ書いていないの?」
「名づけだけどさ。本当にあいつに任せていいのかなって」
「あなたの人生を変えた人なんでしょう?」
「あいつ一人のおかげじゃない。母ちゃんも頑張ったし、俺だって働いた」
妻は、知っていると頷く。
「それに、あいつは変な名前をつけるかもしれない」
「世界中の企業を動かしている人が、友達の子供に変な名前をつけるとは思えないけれど」
「金儲け以外は、意外と抜けてるんだよ」
妻は笑った。
「でも、あなたは信じているんでしょう?」
俺は眠る息子を見た。小さな胸が、ゆっくりと上下している。この子の未来がどうなるのか、俺には分からない。
俺たちが宇宙へ来た時のように、苦しいこともあるだろう。
それでも、自分の名前を誇れる人生を歩いてほしい。ムルタなら、この子の未来を考えて名前を選んでくれる。
国家予算を動かす時より悩むかもしれない。そんな姿を想像すると、少し笑えた。
俺は手紙の続きを書いた。
なぜ、あの日、ムルタが俺たちへ声をかけたのか。結局、本当の理由は分からなかった。
母ちゃんに働く価値を見たからか。
詐欺師が気に食わなかったからか。
札束ビンタとやらを試したかったからか。
たぶん、全部本当なのだろう。
でも俺は知っている。
あいつは、見えてしまった人間を見捨てられない。それを認めるのが恥ずかしいから、投資だの利益だのと言い張っているだけだ。俺たちに使った金なら、もう返したつもりだ。
母ちゃんは働いた。俺も働いた。会社へ利益を返し、サイド3で家庭を作った。
けれど、友情への投資だけは、どう返せばいいのか分からない。だから、これからも友達でいようと思う。あいつが遠くばかり見ている時は、足元を見ろと怒鳴る。
一人で何もかも背負おうとした時には、お人好しも大概にしろと笑う。あいつが自分を投資家だと言い張るなら、俺はその投資が失敗しないように、ずっと友達でいてやる。
俺も少しくらい、ムルタの役に立てたのだろうか。聞いても、あいつは認めないだろう。
きっと澄ました顔で、こう言う。
『利益は十分に出ています』
それでいい。俺たちは、そういう友達なのだから。手紙の最後に、もう一度書いた。
『約束だからな。こいつの名前を付けてくれ』
ペンを置き、眠る息子の小さな手へ指を触れた。その手が、弱々しく俺の指を握る。俺は声に出さず、遠く離れた変な友達へ語りかけた。
あの日、俺たちへ声をかけてくれて、ありがとう。
母ちゃんを働ける人間として見てくれて、ありがとう。
俺を助けられるだけの子供ではなく、友達として扱ってくれて、ありがとう。
感謝してるんだぜ。
変な友達
俺の親友