【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
俺は、ムルタ・アズラエルを恩人だと思ったことはない。
あいつは俺の技術を買った。俺はあいつの金を使って機械を完成させ、鉱山会社へ売り込み、投じられた資本を何倍もの利益にして返した。
ただそれだけの関係だ。助けられたのではない。投資を受け、結果を出した。少なくとも、俺は長い間そう言い張ってきた。実際、十二歳の子供に救われたなどと認められるものか。
あの日の俺には、金がなかった。
研究費がないというだけではない。家賃も、光熱費も、妻の出産費用も、すべてが足りなかった。研究所と呼んでいた場所は、フォン・ブラウンの古い工業区画に借りた小さな作業場だった。断熱材は剥がれ、空調は時折妙な音を立て、床には月塵を含んだ灰色の汚れが染みついていた。研究員は俺を含めて四人。給料を払えない月が続き、最後には二人が去った。
当然の判断だった。家族を養う人間に、夢だけで働けとは言えない。残った一人も、次の実証試験に失敗すれば辞めると告げていた。いや、失敗する以前の問題だった。試作機を作る金がない。図面も理論も揃っている。小型試験装置では期待どおりの結果が出た。
しかし、実際の月面鉱山で動かす規模へ拡大するには、材料も製造設備も試験場所も必要になる。
技術はあった。金だけがなかった。
そして世の中では、金がない技術は、存在しないものと大して変わらない。
妻は何も言わなかった。腹が大きくなり、歩くのも辛い時期だったのに、研究室へ食事を運び、遅くまで帰らない俺を責めなかった。出産のために貯めていた金の一部まで、いつの間にか研究用の部品代へ回していた。
通帳を見て気づいた俺は、さすがに声を荒らげた。
「なぜ使った」
「開発に必要だったのでしょう」
だが、これは出産のための金だ。イライラする。
「病院への支払いは、まだ足りるわ。だから心配しないで」
「足りるかどうかの問題じゃない!」
妻は怒鳴る俺を静かに見ていた。その冷静な目にうっ、と詰まる。
「あなたの研究が終わってしまったら、あなたは一生、あのとき部品を買えなかったからだと思うでしょう」
「だからといって、お前と子供の金を使うな」
「そうはいっても、あなたの研究は、私たちの生活と無関係なの?」
その問いに、俺は答えられなかった。
研究が成功すれば、生活は変わる。そう言い続けて何年も経っていた。妻は古い家に住み、必要なものを我慢し、俺の代わりに家計を管理していた。それでも一度も、研究をやめろとは言わなかった。
「私は、あなたが一生後悔する顔を見る方が嫌なの」
そう言われてしまえば、何も返せなかった。
俺には、もったいない女だった。
月面技術博覧会の日は、娘の出産予定日でもあった。行くべきではないと思った。研究より家族が大切だと、その程度の常識は俺にもあった。しかし、博覧会を逃せば研究チームは終わる。投資家へ技術を見せられる最後の機会だった。
「行ってきて」
病院へ向かう支度をしながら、妻が言った。
「一人にはしない。俺も病院へ行く」
「あなたが隣にいても、代わりに産んではくれないでしょう」
こんなときでも冗談を言う妻に、当たり前だ、としか返せない自分のつまらなさ。辟易する。
「なら、お医者様に任せます。あなたは、自分にできることをしてきて」
「しかし」
「成功して帰ってきてくれた方が、私は安心できるわ」
妻はそう言って笑った。
後になって思えば、あれは強がりだったのだろう。初めての出産が怖くないはずはない。それでも妻は、俺の背中を押した。
博覧会では、誰も立ち止まらなかった。
説明を始める前に価格を聞かれ、既存機の三倍だと答えれば、そこで話は終わった。長期的な電力費、粉塵被害、保守費用まで説明しようとしても、設備担当者は今期の予算に収まらないと言った。投資家は試験結果より、既に顧客がいるかどうかを尋ねた。
顧客がいないから金が必要なのだ。金がないから顧客へ見せる実証機を作れない。その程度のことも理解できない連中ばかりだった。
俺は何度も病院からの連絡を確認しながら、誰にも見向きされない展示台の前へ座っていた。このまま終われば、妻の金まで使って何も残らない。生まれてくる子供へ、俺は何を渡せるのだろう。
そこへ現れたのが、フォン・ブラウン市長のカノーラ・ハイタウンと、一人の子供だった。金持ちの坊主だと聞いた。が、そんなものに期待するほど、俺は困っていないつもりだった。
「金持ちの子供に玩具を売るつもりはない」
最初にそう言ったことを、今でも覚えている。だが、その坊主は怒らなかった。俺の失礼な言葉など耳に入っていないように、展示資料へ食いついた。消費電力、耐用年数、粉塵被害、量産価格。質問はどれも的確だった。
十二歳の質問ではない。
下手な設備担当者より、よほど技術を理解していた。ただし、技術者ではなかった。
俺が機械を完成させることばかり考えていたのに対し、あいつは機械が完成した後、誰が金を払い、誰が整備し、誰が危険を負い、どこから利益を回収するかを考えていた。
機械を売るのではなく、所有して貸し出す。料金を掘削量へ連動させる。整備会社と保険会社を組み込み、稼働データを集める。製造は既存の機械メーカーへ委託する。技術、製造、販売、整備、保険を、一つの仕組みへ結びつける。
俺にはなかった発想だった。
「ロベルさんに足りないのは技術ではありません。技術以外のすべてです」
今思い出しても腹が立つ。だが、事実だった。
俺は技術が優れていれば、いつか誰かが理解すると信じていた。実際には、理解されるのを待つだけでは、技術は研究室で死ぬ。製造も販売も契約も、機械を社会へ出すために必要な技術だった。
あの坊主は、俺が人生をかけて作った機械を見て、値段が高いだけの金食い虫とは呼ばなかった。利益を生む価値があると認めた。
「僕はあなたを救いに来たのではありません。あなたの技術が生む利益を、誰より先に奪いに来たんです」
ひどい言い方だった。しかし、同情されるより何倍もよかった。俺は施しが欲しかったのではない。技術を評価してほしかったのだ。その直後、病院から娘が生まれたと連絡が来た。
俺は商談を続けようとした。ここで話を中断すれば、また機会を失う気がした。だがムルタは、契約書は逃げないから病院へ行けと言った。
「娘さんが生まれた瞬間は、今日しかありません」
十二歳の子供に言われることではなかった。それでも病院へ向かった。もしあのまま商談を続けていたら、妻には一生言われていただろう。いや、妻は責めなかったかもしれない。だからこそ、俺自身が一生後悔したはずだ。
病室で初めて娘を抱いた。
驚くほど小さかった。壊れそうで、どう持てばよいのか分からなかった。機械なら構造も強度も分かる。どこを支え、どこへ力を加えてはいけないか判断できる。しかし、生まれたばかりの人間には設計図がない。
「マリューよ」
妻が言った。
「マリュー・ラミアス」
俺はその名を何度か口の中で繰り返した。その日の朝まで、研究が終わることばかり考えていた。日暮れ前には、守らなければならないものが一つ増えていた。
翌日、俺はムルタと契約交渉を再開した。
新会社は、予想を超える速度で成長した。
最初の実証試験で、掘削機は資料どおりの性能を示した。消費電力は下がり、採掘量は増え、粉塵による故障も減少した。作業員の呼吸器疾患や皮膚障害まで減ったことで、鉱山会社は導入に前向きになった。ムルタは契約どおり、技術へ口を出さなかった。
その代わり、赤字には徹底的に口を出した。試作品へ高価な部品を使えば理由を説明させられた。製造工程が遅れれば、技術者ではなく工程管理者を入れられた。俺が営業先で技術説明を始め、相手を怒らせれば、次からは営業担当者が同行した。
「俺一人で十分だ!」
「ロベルさん一人だったから売れなかったんです」
「技術を理解しない相手が悪い」
「理解させられない説明をする側にも問題があります」
ムルタはいつものごとく正論を浴びせてくる。
俺が悪いとでもいうのか。いや、頭ではわかっていたんだ。ただ認めるのが難しいだけで。
「お前はいつも言い方が腹立たしい」
「内容に反論してください」
腹が立つ。だが、間違ってはいなかった。
会社はフォン・ブラウンだけでなく、グラナダ、各サイド、小惑星資源開発へ進出した。俺たちの掘削機は月面鉱業の標準機の一つとなり、関連する防塵技術や保守契約からも利益が入った。
生活は一変した。
古い集合住宅から広い家へ移り、妻は値札を気にせず食料を買えるようになった。マリューの医療費も教育費も心配する必要がなくなった。
もっとも、俺自身の生活は大して変わらなかった。
相変わらず作業着を着て、研究所へ泊まり込み、機械の下へ潜った。高級な車を与えられても、会社の試験車両を使う方が早かった。広い家へ帰らず研究室で眠っていると、妻から通信が入る。
『今日は帰ってくるのよね』
「試験が終われば、なんとか」
『昨日もそう言っていたわ』
「昨日の試験は終わった。今日の試験が増えた。明日のことなどわからん」
電話の向こうでロベル、と悲しそうに呼ぶ。こうやって名前を呼ばれると、逃げられなかった。だが、俺にはどうすることもできなかった。
ある日、妻を楽にするには何を買えばよいか、俺はムルタへ相談した。今思えば、相談する相手を完全に間違えていた。
「本人に聞いてください」
「聞いた。何もいらないと言われた」
「それはまずいのでは? だったら、一緒に過ごす時間を作ればよいでしょう」
「時間などそう簡単に作れるものではない。金で買えるものを聞いている」
「あなたが研究室へ行かない時間を、会社が買えばいい」
意味が分からなかった。
数日後、研究所へ副所長が送り込まれた。生産工程と試験計画を管理する有能な技術者で、俺がいなくても研究所が回るよう組織を整えた。
そして取締役会は、俺に週一日の完全休養を義務づけた。
「余計なことをするな!」
通信越しに怒鳴ると、ムルタは平然としていた。にたにたと趣味の悪い笑みを浮かべているのにさらに腹が立つ。
「あなたをメンテする奥様への福利厚生です」
「俺は会社の設備じゃない」
「会社の設備よりご自分の保守を怠るので困っています」
結果、妻は喜んだ。俺は制度を撤回させられなかった。
早く帰宅し、家族で過ごす時間も増えた。そこで思ったのは子供の成長の速さだ。あっという間に身長が伸び、大人びていく。
もしも、研究室に寝泊まりしたままであれば、それを見ることはかなわなかっただろう。
その娘のマリューは、研究所で育ったようなものだった。
幼い頃から機械へ興味を持ち、目を離せば工具を持ち出した。五歳で部品箱をひっくり返し、七歳で小型駆動装置を分解した。十歳になる頃には、簡単な整備なら研究員の指示を理解できた。
「危険だから触るな」
「お父さんも触ってるでしょう」
「俺は専門家だ」
「どうしたら専門家になれるの?」
真剣な表情に絆されて、つい「勉強しろ」とだけ言ってしまう。
本当はここで拒絶するべきだったのだ。
「じゃあ教えて」
正直に言えば、さすが俺の血だと思った。嬉しくないわけではない。
だが、技術者の人生がどれほど不器用で、周囲へ負担をかけるかを知っているだけに、複雑だった。
ムルタは、フォン・ブラウンへ来るたびにラミアス家へ顔を出した。
最初は仕事のついでだったはずだ。だが、マリューが成長するにつれ、土産や本、学習用端末を持ってくるようになった。
「また高価なものを持ってきたのか」
「一般的な贈り物です」
「お前の一般は信用できん」
その後もやり取りが続く。今日はまともなものを持ってきたようだ。
マリューは、そんな俺たちの言い合いを笑って見ていた。幼い頃のマリューにとって、ムルタは不思議な人物だったらしい。
父親がいつも文句を言うのに、実際には言うことを聞く相手。
研究所の全員が緊張するのに、自分には優しく話す相手。
世界的な大富豪であるにもかかわらず、家へ来ると母の手料理を喜んで食べる相手。
「お父さん、ムルタさんのこと嫌いなの?」
ある日、娘に尋ねられた。
どうしようかと悩み正直に答えた。
「嫌いではない」
「好きなの?」
好き、というのもまた違う。他に呼びようがあるかというと難しい。俺たちは近すぎず、離れすぎずをお互い意識してきた、つもりだ。まあ、あいつは距離感がおかしいから、たまにやってきたときに可笑しな距離の詰め方をしてくることもあるけれどな。
「じゃあ、何?」
そう、言うならばただの「取引相手」だ。
娘はきょとんとした顔をする。
「お友達じゃないの?」
「名前を呼べば友達になるという、あいつらの理屈を真に受けるな」
そのトンデモ理論で多くの友人に囲まれている
「でも、お父さん、ムルタさんが来る前は機嫌が悪いのに、帰った後は研究室で楽しそうだよ」
子供は、妙なところを見ている。だが、ただの気のせいだ。
マリューが十二歳になった頃、教育信託の存在が発覚した。進学先を考えるため財産管理の資料を確認していた妻が、マリュー名義の信託口座を見つけた。金額を見た俺は、翌日には地球のムルタへ通信をつないだ。
「勝手に娘へ金を残すな!」
『おはようございます、ロベルさん』
「何がおはようだ! この信託は何だ!」
こいつは、どや顔をしながら、うきうきとネタ晴らしをしてくる。
何が『出産祝いです』だ。
高すぎるものは教育に悪いとこいつに何度言ったものか。「もの」はダメだから「カネ」にしたんだって? なお悪いわ!
「あのとき、ぬいぐるみで十分だとハイタウン市長に言われただろう!」
『僕は納得していませんでした』
「だから黙って金を積んだのか!」
悪びれず小僧は『教育資金です。受取人はマリューですので、ロベルさんには返却できません』と平然と言い放つ。
それが無性に俺をイライラさせる。俺は父親だぞ。
『所有者は彼女です』
「十二歳の頃から性格が悪かったが、さらに悪くなったな」
『成長したと言ってください』
とはいえ、すぐにでも解約させるつもりだった。だが、妻が通帳を手にして言った。
「この子が学びたいことを、お金の心配をせず選べるのよ」
俺は黙った。自分が金を持たなかったため、妻に出産費用を研究へ使わせた。研究者として生きるために、家族へどれほど負担をかけたか忘れたわけではない。確かに今は裕福な暮らしができているが、世の中何が起こるかわからない。保険は常に必要だ。
娘には、困窮して同じ思いをさせたくなかった。
結局、ムルタへ礼は言わなかった。代わりに、あいつが以前から欲しがっていた高耐久掘削ヘッドの試作品を送った。
『これは?』
「不良品だ。捨てる予定だった」
『性能試験では、量産品を三割上回っていますが』
「俺の基準では不良品だ」
『ありがとうございます』
礼を言うな。捨てただけだ。
俺たちの関係なら、それで十分だろう。