【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
マリューは成長し、月面の学校で優秀な成績を修めた。機械工学、宇宙船構造、航法、管制技術。父親としては誇らしかった。
当然、フォン・ブラウンの大学へ進むものだと思っていた。本人が地球連邦軍の士官学校へ願書を出していたと知ったのは、合格通知が届いた後だった。
「士官学校だと?」
食卓で通知書を突きつけると、マリューは覚悟を決めた顔で頷いた。
「俺は何も聞いていない」
「言ったら反対したでしょう?」
「当たり前だ!」
思わず卓を叩いた。食器が揺れ、妻が眉をひそめる。
「軍人になる必要がどこにある。技術を学びたいなら、月にも大学はある。うちの研究所でも学べる」
「兵器を作りたいんじゃないの。宇宙船の設計と、艦艇の運用を学びたいのよ」
そんなもの、民間でもできるだろうが。わざわざ遠くへ行く必要などない。
「民間企業では、複数の艦艇を同時に動かす航法も、大規模な管制も学べない。非常時の指揮や、長距離航行の実務も」
「だから、軍へ行くのか」
「軍人になりたいというより、学びたいの」
「同じだ。軍の学校へ入れば、軍の命令に従うことになる」
マリューの目に、俺とよく似た頑固な光があった。
「お父さんだって、自分の研究のためなら危険な場所へ行ったでしょう」
「今は俺の話は関係ない」
「関係あるわ。技術を知りたいと思う気持ちを、一番分かっているのはお父さんでしょう?」
言葉に詰まった。否定したい。だが、否定すれば俺が俺でなくなるだろう。自分に嘘は付けない。
妻が小さくため息をついた。
「誰に似たのかしらね」
「待て。俺のせいだと言うのか」
「あなた以外に誰がいるの?」
真っ直ぐに言われて、反論できなかった。
それでも、士官学校だけは認めたくなかった。最近、ムルタが地球連邦軍と軍需関連企業への投資を増やしていることも知っていた。兵器そのものだけではない。輸送艦、基地設備、食料備蓄、医療、通信、避難施設。異常な規模だった。
あいつは無駄な金を使わない。
何かを恐れている。
だが、理由は話さなかった。
「士官学校へ行くのは、ムルタに会いたいからじゃないのか」
俺が尋ねると、マリューの表情が一瞬揺れた。まさか。
「それも、目的の一つだけど」
「一つなのか。だが、手紙や通信で事足りるだろう」
「恩人に直接挨拶するのは当然でしょう」
「お前がどう思っているか分からないが、あいつは、お前より十二歳も年上だぞ」
「たった十二歳しか違わないでしょう」
「しか、だと?」
警戒すべき言葉だった。かまをかけたつもりだったが、躊躇なく言い返されると反応に困る。
妻は口元を押さえて笑いを堪えている。
「何がおかしい」
「だって、ムルタさんは顔も悪くないし、お金持ちで、頭もよくて、マリューにはずっと優しかったでしょう」
「馬鹿を言え。あいつは性格が悪い」
「あなたにはね」
妻まで娘の側についた。
「マリュー。お前はあいつの本性を知らない。利益にうるさく、契約違反には容赦がなく、人の弱みを見つけるのが異常にうまい」
「ということは、経営者として優秀なのね」
そういう話をしているんじゃない。
マリューは少し笑った後、真剣な表情になった。
「あの人が最近、軍へたくさんお金を出しているのは、何か理由があるのでしょう?」
「なぜ、それを。いや、それは本人へ聞け」
娘は、聞いても教えてくれなかった、と寂しそうに言った。
「なら、知らなくていいことだ」
「でも、ムルタさんは必要のないことにお金を使わない。あれだけの人が、誰にも説明せず何かへ備えているなら、本当に危険なことが起きるのかもしれない」
嫌な予感がした。理由は分からないが、直感が働いた。
「お前は、あいつを助けるために軍へ入るつもりなのか」
「いえ、それだけじゃない。でも、あの人が何かを守ろうとしているなら、私も役に立ちたい」
結局、その日は結論が出なかった。俺は翌朝、ムルタへ通信をつないだ。
「娘を士官学校へ入れたのはお前か」
『まさか。違います』
執務室にいるらしいムルタは、端末の向こうで書類を読みながら答えた。
二十代半ばを過ぎ、十二歳の頃の幼さはもう残っていない。世間では世界的な財界人、ブルーコスモスの代表、地球圏の経済を左右する男と呼ばれている。そして、最近は死の商人とも。俺はこいつが何を考えているのかわからなくなった。
まあ、俺にとっては、相変わらず生意気な坊主だったがな。
「マリューの学費を出しただろう。俺に断ることもせず勝手にな」
『いいえ、マリューがあなたと話をする必要などありません。教育信託は、進路を制限していませんから』
「お前が推薦状を書いたと聞いた」
『士官学校から能力と人物について照会が来たので、事実を書きました』
この男らしい事務的な口調で言った。なぜ止めなかったんだ。マリューの人生がかかっているんだぞ。
『本人が望んでいるからです』
「お前が軍へ金を出すから、娘まで影響されたんだ!」
瞬間、ムルタの手が止まった。
ほんの一瞬だったが、表情から余裕が消えた。
『それは……困りましたね』
困る、とはどの口がほざくんだ。
『僕はマリューに、危険な仕事をしてほしいとは頼んでいません』
「だが、お前は危険なことを始めている」
ムルタは否定しなかった。しかし、今にも泣きそうな子どものように感じた。お遊びではないことくらい、俺にも分かっていた。
『そう見えますか』
「お前が慈善心だけで軍へ金を出す男か。何が起きる」
どんなに問い詰めても、まだ言えませんとだけ繰り返す。
「俺の娘まで巻き込んでおいて、言えないで済むと思うか」
『巻き込んだつもりはありません』
「本人が勝手に巻き込まれたなら、お前には責任がないと?」
ムルタは黙った。十二歳のときから、こいつは届く範囲の人間を見捨てられなかった。自分の金や企業や財団が大きくなるほど、救えなかった者まで自分の責任として背負うようになった。
責めるべき言葉ではなかったのかもしれない。
だが、父親として引くことはできなかった。
『申し訳ありません』
やがてムルタは言った。泣きそうな子どものイメージが脳裏をよぎる。
『ただ、僕たちの都合で、彼女の意思を取り上げるべきではありません』
奇麗事を言うな。軍に入れば、死ぬかも知れない。親がそれを許すと思うか。
『では、彼女が生きて帰れる可能性を、少しでも高くします』
「特別扱いするつもりか」
『本人が嫌がるでしょう』
常識があるのかないのか分からん奴だ。分かっているなら言うな。
『ですから、彼女一人ではなく、全員が生きて帰れる仕組みを作ります』
また、そういうことを言う。
一人を守るために、制度を作り、会社を動かし、全体を変えようとする。それがムルタ・アズラエルだった。
「何を作るつもりだ」
俺が尋ねると、ムルタは机の上の別の端末を操作した。
『その件で、ロベルさんへ頼みがあります』
「俺に?」
『軍関係の仕事です』
送られてきた資料を開く。
月面基地用地下掩体。コロニー災害時避難坑道。崩落区域への救助用掘削機。小惑星基地の緊急建設設備。大規模落下物を破砕するための高出力穿孔装置。
兵器ではない。
だが、軍事利用されることを前提とした技術だった。
断る、と即答した。
「俺の掘削機は、人を殺すためのものじゃない」
『人を殺す穴を掘ってほしいのではありません』
「軍は必ず転用する」
『分かっています』
「分かっていて作れと言うのか」
『作らなければ、救えない人がいます』
画面の向こうのムルタは、いつになく真剣だった。こいつが理由もなく軍へ近づく男ではない。軍人の名誉にも兵器の美しさにも興味がない。むしろ軍事費を、生産性のない巨大支出と呼んで嫌っていた。
その男が、莫大な金を軍と避難設備へ注いでいる。あれほど嫌っていた死の商人と呼ばれても。
何かが来る。
俺には見えない何かを、ムルタは恐れている。
「設計の最終決定権は俺が持つ」
『認めます』
「対人兵器への転用は禁止する」
『可能な限り――』
「その言葉を使うなら契約しない」
ムルタは少し考えた。当然だろう。俺だって無理を言っている自覚はある。
『違反時には、特許使用権を即時停止できる条項を入れます。製造設備も、ロベルさん側から監査できるようにする』
「お前の会社も例外にするな」
重ねて要求をするも、快諾された。だが、本命はこちらだ。
「軍が命令した場合もだ」
『契約違反として公表します。必要なら、僕が連邦政府と争います』
まさか、政府に勝とうとでも言うのか。いくらムルタが権勢を誇っていても、そこまで無理するようなことだろうか。
『勝てるように準備します』
昔と変わらない。簡単ではないことを、簡単そうに言う。
だが、あの頃から、ムルタは言ったことを実現してきた。俺の機械を売ると言い、売った。会社を利益が出る形にすると言い、そのとおりにした。妻と過ごす時間を作ると言い、俺の休日まで制度に組み込んだ。
「理由は、まだ言えないんだな」
表情を変えずに肯定される。長い付き合いだからわかる。
この硬い表情は何かを我慢しているときに出る。
「俺にもか」
『ロベルさんにもです』
腹は立った。しかし、十二歳の頃から見てきたあの男が、自ら軍へ近づかなければならないほどの何かがある。それだけは理解した。
「今回だけだ」
『ありがとうございます』
「礼を言うな。取引だ」
『ええ。そういうことにしておきます』
「その言い方をやめろ」
通信を切った後、俺はしばらく設計資料を眺めていた。
娘は地球へ行く。
親が心配したところで、自分の進路を変えるつもりはないだろう。
技術者は、自分の作ったものがどこへ行くのかを完全には選べない。親もまた、自分が育てた子供の行き先を選べない。
できるのは、どこへ進んでも生き延びられるよう、可能な限り頑丈に作ることだけだ。
マリューが地球へ向かう日、俺と妻は月面港まで見送りに行った。
娘は新しい制服を着ていた。まだ身体に馴染んでおらず、少し硬そうに見える。荷物は思ったより少なかった。
「忘れ物はないか」
「三回確認したわ」
工具は持っただろうか。この娘はしっかりしているようで意外と抜けている。
「士官学校へ個人用工具を全部持っていく学生はいないと思う」
そういうものか。誕生日に贈ってからずっと、あれほどマリューが大切にしてきたものだ。少し寂しさを感じる。
向こうにも工具はあるが、質が悪い可能性がある。娘を説得していると、妻が俺の腕をつついた。
「もう、そのくらいにしてあげて」
マリューは笑っていた。
「お父さん、今までありがとう」
「二度と帰って来ないような言い方をするな。卒業まで何年もあるが、まさか一度も帰って来ないつもりか」
「いつでも帰ってきていいのよ」
「お父さん、お母さん。分かった。帰ったら、もう一度言うわ」
娘は妻を抱き締め、その後、少し迷ってから俺にも腕を回した。
どう反応すればよいのか分からず、背中へ手を置いた。
おせっかいだと分かっていても、危険なことはするなよと言ってしまった。
「軍の学校へ行くのに?」
「危険を学ぶことと、危険へ飛び込むことは違う」
「お父さんが言うと、説得力がない」
「俺の失敗から学べと言っている」
分かってる、と娘は笑顔で返した。
その時、搭乗案内が流れた。マリューは通路へ向かい、途中で振り返った。
「ムルタさんにも会ってくるね」
「あいつには、必要以上に近づくな」
「何それ。どういう意味?」
「そのままの意味だ」
娘は不思議そうな顔をした後、何かに気づいたように笑った。
「お父さん、心配しすぎ」
「ぐ……誰のせいだ」
「お父さんの血じゃない?」
そう言い残し、マリューは船へ乗り込んだ。
窓の向こうで旅客船が離れていく。噴射光が月面港の照明へ重なり、やがて小さな点になった。
妻が俺の隣へ立った。
「寂しい?」
研究所が静かになる。
工具が勝手に移動することもなくなる
部品を分解されることもない。
「寂しいのね」
そうは言っていない。
妻は笑った。
家へ戻る途中、ムルタから新しい設計資料が届いた。
表題は、コロニー災害時地下避難・救助システム。想定被害の項目には、通常の事故では考えにくい数字が並んでいた。大規模な外壁破損、都市機能の同時停止、数十万人単位の避難、落下物による広域破壊。
いったい、何を想定している。何と戦うつもりだ。
俺は、ムルタ・アズラエルを恩人だと思ったことはない。
あいつは俺の技術を買った。俺はその金を使い、利益を返した。ただの取引だ。
妻が笑って暮らせる家も、娘が自分の進路を選べる教育も、今も俺が研究を続けられる環境も、契約に基づいて手に入れた結果である。
だから、借りなどない。……ないはずだった。
それでも、妻の出産費用まで研究へ使っていた俺を、技術者として生き残らせたのは誰か。
娘が生まれた日、商談を放り出して病院へ行けと追い出したのは誰か。
マリューが金の心配をせず、自分の行きたい場所を選べるようにしたのは誰か。
考えれば、答えは決まっていた。
今回だけだ。理由を話さなくても、信じてやる。あの坊主が、意味もなく世界を怖がる男ではないことを、俺は知っている。
俺は作業着へ着替え、研究所へ向かった。ムルタが何と戦おうとしているのかは分からない。だが、娘が進む未来に危険があるというのなら、俺はそこへ穴を掘る。
人を殺すためではない。
誰かが逃げ込み、生き延びるための穴を。
技術者として、父親として。それが今の俺にできる、唯一の仕事だった。
そして、宇宙世紀0079年。
——俺はヤツの正しさを知った。
結局、俺はムルタ・アズラエルのことを、本当の意味では理解できていなかったんだ。だが分かったときには……もうあまりにも遅すぎた。
マリュー。お前が正しかった。だから、お前はお前の道を行け。
頼んだぞ。