【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
フォン・ブラウンからグラナダへ向かう旅は、同じ月面都市から同じ月面都市へ移動するだけのものではなかった。
両者の間に横たわっていたのは距離ではなく、宇宙開発という巨大な営みをどちら側から眺めるかという、視線の違いだったように思う。
フォン・ブラウンを出発した与圧列車は、観光客を月面へ迎え入れる明るい駅舎を離れると、ほどなく地下深くに築かれた貨物幹線へ合流した。
車窓の向こうから華やかな広告も、ホテルの光も消え、代わりに現れたのは、岩盤をくり抜いた無骨なトンネルと、一定の間隔で並ぶ保守用照明ばかりだった。車内にも旅行者らしい姿はほとんどなく、防塵服を抱えた技術者、交代勤務を終えた作業員、部品箱を足元へ置いた整備士たちが、疲れた顔で黙って座っていた。
フォン・ブラウンでは月面に来たという事実そのものが商品になっていたが、こちら側では月は夢を眺める場所ではなく、明日の酸素と賃金を得るために働く現場だった。
グラナダへ到着すると、その違いはいっそう鮮明になった。
駅舎の壁は灰色の複合材で覆われ、広告よりも安全標識の方が大きく、天井から下がる照明にも都市を美しく見せようという意図は感じられなかった。鉱石を積んだ輸送車両が絶えず構内を行き交い、遠くからは大型機械の振動が地面を通じて伝わってくる。
空気は濾過されているはずなのに、金属と潤滑油、それに乾いた岩石の匂いが薄く混じっていた。
案内役として現れた現地法人の責任者は、歓迎の挨拶もそこそこに、僕とハワードへ防塵用の上着と非常用呼吸器を差し出した。
ハワードが「市内だけなら必要ないと聞いていますが」と確認すると、責任者は困ったように笑う。
「市内だけなら、です。しかしアズラエル様は、採掘区画も精錬施設もご覧になるのでしょう。でしたら、常に携帯してください。グラナダでは、事故は起こらないものではなく、『起きたときにどこで止めるか』を考えます」
その率直さを、僕は嫌いではなかった。危険を隠して安全を売るよりも、危険があると認めた上で備える方が信頼できる。ただし、そのときの僕は、危険を認識していることと、その危険に十分な費用を払っていることが同じではないと、まだ理解していなかった。
グラナダの中心部は、フォン・ブラウンよりも狭く、密度が高かった。
住宅、工場、倉庫、学校、病院が互いに押し合うように配置され、通りには作業服姿の人間が溢れている。商店に並ぶのも地球産の果物や装飾品ではなく、交換部品、保護具、保存食、簡易工具といった実用品が中心だった。
しかし、街に活気がないわけではない。食堂からは仕事終わりの笑い声が漏れ、広場では若者たちが低重力を利用した球技に興じていた。
壁面には最初期の坑道を掘った労働者の名を刻んだ記念板が掲げられ、廃棄された採掘機の部品を組み合わせた巨大な彫刻が、都市の象徴として天井へ腕を伸ばしていた。洗練された美しさはなかったが、自分たちの手でここまで築いたのだという誇りが、街の隅々まで染みついていた。
感心した風に「思っていたより、ずっと生活の匂いがしますね」と僕が言うと、案内役は苦笑して、答えた。
「地球の方はグラナダを鉱山か工場のように考えます。しかし、ここで生まれ、学校へ通い、家庭を持つ者も大勢います。報告書に家庭料理の味は載りませんから」
最初に訪れたのは、月面鉱物を精錬する巨大な加工施設だった。
僕の投資会社が株式の一部を保有しており、帳簿上は申し分のない優良企業である。
フォン・ブラウンの造船所や建設会社へ高品質の合金を供給し、ここ数年は利益率も着実に伸びていた。
工場長は誇らしげに生産能力を説明し、昨年度の増益が現場改善によるものだと強調した。僕は説明を聞きながら機械の配置、作業員の動線、停止記録、部品交換履歴に目を走らせた。
確かに稼働率は上がっていた。しかし、設備停止時間が不自然なほど減っている。定期点検の間隔を延ばし、予備機への切り替えを抑え、交換基準を緩めることで、生産量を維持していたのである。
僕のチートが火を吹く。「第三精錬炉の主要弁は交換時期を過ぎていますね」と僕が指摘すると、工場長の表情がわずかに固まった。
「メーカー推奨値には余裕があります。現場判断で継続使用しています」
「部品がないのですか?」
「あります。ただ、交換すれば炉を止めなければならない」
「では、今日止めましょう」
「突然停止すれば納期に影響します」
全くの善意で「違約金は僕が負担します」と言ったとき、工場長は安堵するどころか、かえって苦い顔をした。
「金を出せば済む話ではありません。納期が遅れれば、こちらの信用が落ちます。アズラエル様は地球へ戻れば終わりでしょうが、取引先と顔を合わせ続けるのは我々です」
その言葉は、僕を責めるために発せられたものではなかった。ただ、現場に残る者だけが背負うものがあると指摘したにすぎない。金は違約金を補填できる。
しかし、長年積み上げた信用や、現場が無能だと見なされる屈辱まで、即座に買い戻すことはできない。
札束ビンタを掲げる僕にとって、金で解決できないと言われることは不愉快だったが、不愉快であることと相手が間違っていることは別問題だった。
僕が返答を探していると、背後から穏やかな声がした。
「少年の判断としては正しい。経営者の判断としては、少し足りないがね」
振り返ると、三十代半ばと思われる男が、工場の案内役を一人だけ伴って立っていた。仕立てのよい服を着ていたが、月面工業区には不似合いな華美さはなく、手袋にも靴にも細かな塵が付着していた。男は僕と工場長を交互に眺め、わずかに微笑んだ。
「お初にお目にかかる。メラニー・ヒュー・カーバインだ。しがないビジネスマンをやっている。初めまして、ムルタ・アズラエル様。お会いできて光栄です」
芝居がかかった振る舞いで、大仰に挨拶してきた。
なぜ知っているのか、と目線で問う。
「十二歳で十億ドルを稼いだ少年を知らないビジネスマンはビジネスを辞めた方がいいと思っている。そして……最近急成長中のモルゲンレーテ社。そこには影の支配者がいると一部では評判でね」
「へえ。それは知りませんでした」
表情が硬くならないように努めて意識する。モルゲンレーテはまだできたばかりの会社。邪魔されないように幾重にも隠蔽工作をしていたのだが。僕は投資家が本分だが、モルゲンレーテだけは違う。まだ十二歳だから表には立てないが、いずれ経営者として自由にやるつもりだ。だって、モルゲンレーテだからね。だいぶ自分の趣味が入っていることは否定しない。
なのにこれか。これだからやりてのビジネスマンの相手は嫌なんだ。
「急成長中の優良企業だからね。耳ざといものは注目している。外からは分からないが、投資顧問として実権を握っている人物がいるらしいよ」
——たとえば、あなたのような。
「僕はただの投資家です」
「ええ、基本的には。しかし、蛇の道は蛇と言う。アズラエル様も十分お気を付けください」
動揺を表に出さないように必死に自制している僕を眺めながら、メラニーは黙って微笑んだ。
情報が洩れている、という忠告だろう。不意打ちを食らって業腹だが、分かりやすく注意してくれたことは助かる。先を行く先輩のビジネスマンとして、年長として気を使ってくれたと分かる。
「僕をご存じなら、僕もあなたを知っているべきでしょうか?」
「今はまだ知らなくていいさ。いずれ、嫌でも覚えることになる」
男は、自信満々に言い放った。
それが、メラニー・ヒュー・カーバインとの最初の出会いだった。
当時は、まだ中堅どころのアナハイム・エレクトロニクス取締役、経営企画・宇宙開発担当で、視察の途中だったそうだ。いずれにせよ、やり手のビジネスマンである。そして、月を本拠とするアナハイム・エレクトロニクス中興の祖となる大人物へと成長していく。もちろん、ロゴスのメンバーにした。
彼は僕を神童とも子供とも呼ばなかった。珍しい見世物を見るような目もしなかった。僕が何を所有し、何へ投資し、どのような利益を上げてきたかを調べた上で、一人の経済人として値踏みしていた。
その視線に、僕は警戒より先に心地よさを感じてしまった。世の大人たちは僕の年齢を忘れたふりをしながら、都合が悪くなれば必ず十二歳であることを持ち出した。
しかし、メラニーは、最初から僕の失敗も成功も年齢とは切り離して評価するつもりらしい。
カーバイン氏はこちらへ何をしているのか、と尋ねる。
彼は動いている精錬炉を眺めながら、「この会社を買おうと思っている」と、朝食の献立でも告げるように答えた。
詳しく話を聞けば、彼が狙っていたのは精錬会社だけではなかった。会社が保有する加工特許、熟練技術者、地下輸送路の使用権、それにサイド3方面との長期供給契約まで含めて、一つの産業基盤として評価している。
僕も同じ資料を読めば、同じ価値に気づいただろう。
しかし、メラニーはそれを僕より早く、しかも僕の投資会社が株主として利益率の改善に満足している間に見抜いていた。「あなたはこの会社をどうするつもりです」と尋ねると、彼は悪びれもせずに答えた。
「負債を整理し、工場を再編し、利益率の低い部門を切る。優秀な技術者と有望な特許を残し、宇宙船部品と精密加工へ集中させる。半数ほど職を失うかもしれないが、企業そのものは生き残る」
「人を切り捨てて、ですか」
「人を残すために会社を潰すのかね。沈む船から荷物を捨てることを、荷物への差別とは呼ばないだろう」
彼の言葉には残酷さがあったが、感情的な冷酷さはなかった。彼にとって解雇は人を罰する行為ではなく、企業という生命体を救うための外科手術だった。
「僕なら、切らずに活用します。精錬設備だけを見るから余剰になる。輸送会社、建設企業、月面農業、保険をつなげれば、この会社の人材は別の利益を生める」
メラニーは、瞬時に時間がかかる、と指摘した。
「時間を買うために資本がある」
「理想的だ。だが、君の方法では失敗したときの損失が大きい」
「あなたの方法では、成功したときに残るものが少ない」
メラニーは少し目を細め、それから楽しげに笑った。
「なるほど。君は従業員を守りたいのではない。人材という資産を、安値で手放すのが惜しいのだな」
「守ることと利益を出すことが両立するなら、わざわざ分ける必要はありません」
「私は君を慈善家だと思っていた」
「僕も自分を善人だと思ったことはありません」
答えると、メラニーは初めて声を立てて笑った。僕たちは似ていた。人を数字として見ることができる。
しかし、そこから導き出す結論が違っていた。彼は企業を生き残らせるためなら、構成する人間を切り離す。僕は人間を組み替えることで、企業の価値を増やせると信じている。どちらが正しいかは、その時点ではまだ分からなかった。