【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
病院へ移動した僕は、作業員への治療費の支払いや、その他保障について指示をした。一息ついたとき、偶然、待合室で一組の若い夫婦と出会った。事故の負傷者の家族ではなく、月面の生殖医療センターから紹介状を受け取り、サイド3へ向かう途中だという。
夫は温和な顔立ちをした技術者で、妻は疲れを隠すように背筋を伸ばしていた。受付の事務処理が滞り、航路予約と診療日程が合わなくなったらしく、二人は端末を前に困り果てていた。
僕が病院側と話していたため、病院関係者と勘違いして相談を持ちかけてきたのである。正確には、病院関係者の子供だと思われたのだろう。慌ただしい状況の説明だけでもして欲しいらしかった。勘違いされているのに気づいていたが、これについては僕が一番の関係者である。鉱山事故についてのあらましを説明し、自然とプライベートな話題へと移った。
そのとき、夫婦がサイド3という言葉を口にしたことで興味を引かれた。
「不妊治療を受けに行かれるのですか」
十二歳の子供に尋ねられるには、いささか答えにくい質問だっただろう。妻は一瞬戸惑ったが、夫が穏やかに頷いた。
「月面でも治療は受けました。ただ、低重力環境での生殖医療はまだ症例が少ない。サイド3に新しい研究施設があり、そこでなら別の方法を試せると言われたのです」
新しい治療は費用がかかるが、大丈夫だろうか。
「払えない額ではありません。しかし、何度も続けば難しい」
妻はそこで夫を制し——そうえいば、お互い名乗るを忘れていた——「カリダ」と名乗った。夫は「ハルマ・ヤマトです」と続けた。ヤマト。どこかで聞いたような気がしたが、ガンダムSEEDの主人公も同じ名前だったな。だがしかし、日系人ならありふれた苗字である。
話を聞けば、二人は月面の技術者として安定した収入を得ていた。
しかし、生殖医療は保険の適用範囲が狭く、月面からサイド3までの移動費、滞在費、長期休職による収入減まで含めれば、家計への負担は小さくない。
夫婦は同情を求めているわけではなかった。子供を持つことができないなら、それも人生だと受け入れる覚悟はある。ただ、可能性があるのに、費用や制度の隙間によって試すことさえできないのは悔しいのだと、カリダは静かに語った。
その言葉は、前世の僕が何度も味わったものとよく似ていた。道が存在しないのではない。道はある。しかし、金がないために入口へ立つことすら許されない。
僕が「支援させてください」と言うと、二人は同時に顔を上げた。
「返済不要の慈善ではありません。月面とコロニーにおける生殖医療の症例研究へ協力していただく。治療結果や生活上の負担を匿名化して提供してもらい、その代わりに治療費と渡航費を基金が負担する。あなた方だけではなく、今後同じ問題を抱える家族にも利用できる制度にします」
しばらく唖然としてから、「なぜ、そこまで」とハルマが尋ねた。
「子供が欲しいと望むことが、贅沢品であってよいとは思わないからです。それに、宇宙へ人を移住させておきながら、そこで家庭を作るための医療を整えないなら、移民政策は最初から人間を見ていない」
カリダはすぐには答えなかった。やがて、「私たちは、あなたの善意を宣伝に使われるのでしょうか」と尋ねた。鋭い質問だった。
「使いません。名前も公表しない。成功する保証もない治療を、慈善事業の美談にするつもりはありません」
「ふふ。あなたは十二歳なのに、ずいぶん嫌な大人のことを知っているのね」
「十二歳になる前に、一度三十歳まで生きたような気がするんです。内緒ですよ?」
冗談のような本当のことを答えると、カリダは困ったように笑った。夫婦はその場で結論を出さず、契約書を読んだ上で考えると言った。
それでよかった。選択肢を与えることと、決断を急がせることは反対である。
後になって振り返れば、この出会いもまた、宇宙世紀の歴史へ小さな波紋を残すことになる。ヤマト夫妻はサイド3で治療を受けたが、結局子を授かることができなかった。しかし、やがて一人の子供を得る。
その子がどのような運命を辿り、誰と出会い、どのように戦乱へ巻き込まれるかを、この時点の僕は知る由もなかった。僕にとって二人は、基金の最初の利用候補者であり、数字の向こうにいる一組の夫婦にすぎなかった。
ただ、宇宙へ人類を送り出すということが、労働力を運ぶことだけではなく、そこで人が愛し、子を望み、新しい世代を育てることなのだと、二人から教えられたことだけは確かだった。
翌日、現場代表、労働組合、医療担当者、工場責任者、経営陣を集めた会議が開かれた。メラニーも、買収を検討する者として参加した。議論は開始直後から荒れた。
経営陣は安全投資による利益率の低下を懸念し、現場側は過去に守られなかった約束を並べた。
医師は重大事故より、慢性的な粉塵障害や筋骨格系の疾患の方が深刻だと訴えた。
工場長は生産停止が顧客との関係を壊すと主張し、労働組合は顧客の信用を守るために作業員の身体を担保にするのかと反発した。
誰もが自分の立場からは正しい。すべてを同時に満たせる答えはなく、金の流れを読む僕の能力も、何を最優先にすべきかまでは教えてくれなかった。
メラニーが提示した再建案は、冷徹だが明快だった。不採算の採掘部門を縮小し、老朽設備を停止し、余剰人員を整理した上で、高付加価値の加工部門へ投資を集中する。安全性は上がり、会社の存続可能性も高い。
ただし、古い居住区を支えてきた多くの労働者が職を失う。
僕は、採掘部門を別企業と統合し、作業員を保守、建設、輸送へ再配置する案を出した。短期的には費用がかかり、利益率も下がる。
しかし、人材を失わず、グラナダ全体の産業基盤を広げられる可能性がある。
対照的な案を前に、「君は会社を救うのではなく、街を買おうとしている」とメラニーは言った。
「大袈裟ですよ。街を買うつもりはありません」
「同じことだよ。雇用、医療、住宅、教育へ資本を入れれば、住民の生活は君の事業へ結びつく。彼らは君を支持し、君を必要とする。君が望むかどうかにかかわらず、それは支配だ」
「メラニーさん。あなたは人を解雇して会社だけを残す。僕は人と会社を残すために仕組みを作る。それを支配と呼ぶなら、否定はしません」
「恐ろしい子供だ。善意で作られた支配ほど、抵抗しにくいものはない」
「では、意思決定に住民を入れます。僕を解任できる仕組みも作りましょう」
「自分を縛る契約を、自分から作るのかね?」
「権力を持つ組織には、権力を使えない場合を先に決めておく必要があります」
僕のその答えを聞いたとき、メラニーの表情から一瞬だけ笑みが消えた。おそらく彼は、僕が単なる慈善家でも、利益だけを追う投資家でもないと、本当の意味で理解したのだろう。
僕は金を使って人の選択肢を増やしたい。
同時に、その金によって自分が巨大な権力を持つことも望んでいる。
その矛盾を抱えたまま、権力が腐る前に制度で縛ろうとしている。メラニーは僕よりも早く、その試みがいずれ失敗する可能性まで見ていたのかもしれない。
最終的に、会社は第三精錬炉を停止し、期限を過ぎた設備をすべて交換することを決めた。採掘区画では追加検査を義務化し、現場の安全担当者が単独で作業停止を命じられる制度を導入する。役員報酬は短期利益だけでなく、設備保全、作業員の健康、事故寸前事例の報告数にも連動させる。
さらに、現場代表、医療担当者、外部技術者を含む安全委員会を設置し、その議事録を株主と従業員へ公開することになった。会社の再建については、メラニーの全面買収案ではなく、僕の増資と事業統合案が採用された。
ただし、メラニーにも精密加工部門への共同出資を認める。完全な勝敗ではなく、互いの資本と得意分野を利用する形に落ち着いた。
会議後にメラニーが「今回は君の勝ちということにしておこう」と言った。
「共同出資しておいて、負けを認めるのですか」
「私は勝敗より、利益を取る主義でね。それに、アズラエル君の方法が失敗すれば、そのときは安く買える」
いえ、私失敗しないので。チートさんがいるからね。
「経営者が最初に捨てるべき言葉だ。必ず、絶対、失敗しない。そういう言葉を好む者から先に破滅する」
「ご忠告痛み入ります。では、失敗しても立て直せる仕組みを作ります」
「それなら少しは長生きできるだろう」
グラナダの地下都市を見渡す展望通路で、僕とメラニーは並んで街の灯りを眺めた。彼は僕の投資先を調べた結果、水、食料、医療、保険、輸送と、人間が生きる限り必要になるものばかりへ金を出していると指摘した。
「ずいぶん善良な組み合わせだが、同時に恐ろしく強欲だ。君は人類の生活そのものを市場にしようとしている」
「これが悪趣味ですか」
「いや。実に将来性がある。ただ、覚えておくといい。人間が最も金を使うのは幸福なときではない。恐れているときだ」
「もしかして、戦争の話ですか?」
「戦争、災害、病気、飢餓。危機は需要を生む。平時には一ドルを値切る国家が、危機の最中には百ドルを言い値で払う。それを理解しない企業は、危機が来たとき真っ先に死ぬ」
「僕には経験がないのでわかりません。ですが、メラニーさんは戦争を利用するのですか?」
「ふん。利用しない者が、利用する者に負けるだけだ」
戦争を利用する商売なんて、そんなの悲しいじゃないか。
綺麗に儲けて、綺麗に使う。これ大事ね。「死の商人」とか絶対に呼ばれたくないよ。
「平和より戦争を望む者の方が、多く儲けたらどうする?」
「その者より、もっと金を持ちます」
メラニーはしばらく僕を見つめ、それから静かに笑った。
「それができれば、世界は変わるかもしれないな。十年後、君がまだ同じことを言っていられるか楽しみにしている」
「きっと十年後には、あなたの会社を買えるほど大きくなっていますよ」
「それは困る。では私も、君に買われない程度には成長しよう。アズラエル君こそ、アナハイムにモルゲンレーテが買収される可能性を心配したまえ」
差し出された手を握りながら、僕は初めて、自分と同じ言語で世界を語る人間に出会ったのだと思った。彼は僕の仲間ではなく、師でもない。敵とも言い切れない。互いを利用し、学び、いずれ同じ市場や戦争を巡って争うことになる、長い競争相手だった。
別れ際、メラニーは一本の古い万年筆を僕へ渡した。月面企業との最初の契約に使った品だという。「なぜ僕に」と尋ねると。
『君は金を使う才能を持っている。しかし、金に使われる怖さはまだ知らない』
と、答えた。その契約は大きな契約だったらしい。だがその反面、多方面の調整を必要とした。環境保護の案件だったため、様々なステークホルダーの利害が衝突したのだ。規模が規模だけに巨額の金額が動いた。が、調整を一手に担い、無事取引を成功させたものの、以来二度と「金に使われる」ような仕事はしないと誓ったという。
——この万年筆はその戒めだ、と。
「金に使われる怖さ、ですか。メラニーさんは知っているのですね」
「正確には、知っているつもりでいる。それが最も危険なのだがね」
その言葉の意味を、当時の僕は十分には理解できなかった。金は僕の武器であり、選択肢を生む道具であり、前世の不幸を殴り返す札束だった。
しかし、金が増え、企業が増え、守るべき人間が増えたとき、僕自身の選択もまた、資本と組織によって縛られていく。その未来を、メラニーはすでに見ていたのかもしれない。