【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
第24話 旅は道連れ
グラナダを発つ前夜、僕は古い居住区の広場をもう一度訪れた。
事故に遭った作業員は命を取り留めたものの、片脚には長い治療が必要になるという。会社は治療費と休業補償を全額負担し、元の仕事へ戻れない場合には、本人の希望と適性を確認した上で別の職務を用意することになった。
安全委員会の設置も決まり、点検停止を申請した者が不利益を受けない制度も、契約書へ正式に組み込まれた。
僕が地球へ帰ったあとも改革が続くよう、経営者の善意ではなく、制度によって縛った。
だが、それでも失われたものが完全に戻るわけではない。治療費を払っても、傷ついた脚が事故の前へ戻るとは限らない。生活を保障しても、瓦礫に挟まれた恐怖や、家族が手術室の前で過ごした時間まで消えるわけではなかった。
金は未来を買うことができる。
しかし、過去まで買い戻せるわけではない。
広場では、子供たちが低重力用の大きなボールを蹴って遊んでいた。地球であれば両手で抱えるほどの球が、月面では軽々と宙を舞う。一人の少女が片手で受け止め、僕の不器用な歩き方を見て笑った。地球の歩き方だと分かるらしい。
「跳ぶのが下手だから、すぐわかったわ」
クスクスと笑い、少女はその場で床を蹴った。身体が僕の頭をはるかに越える高さまで浮かび、空中で軽やかに回転したあと、音もなく着地する。地球ではできない動きだった。
ふと、地球へ住んでみたいか尋ねてみた。ただの好奇心からだ。
「うーん。地球に憧れはあるけれど、旅行だけでいいわ」
「本当に住んでみたいとは思わないの?」
「思わない」
どうしてだろうと思う僕に対して、少女は不思議そうに僕を見た。
「ここが家だから」
あまりにも簡単な答えだった。
僕は宇宙移民を、地球から離れた人間として考えていた。地球を故郷とし、そこから遠ざけられた者。だから、彼らを棄民として扱ってはならないと考えていた。
しかし、月面で生まれた子供にとって、地球は失われた故郷ですらない。頭上に浮かぶ遠い青い星であり、旅行へ行く場所であっても、帰るべき家ではなかった。
人が生まれ、誰かを愛し、働き、笑い、死者を葬った場所が故郷になる。
その当たり前のことを、僕はようやく理解した。
宇宙へ暮らす者たちは、地球から救済されるのを待つ弱者ではない。月面の粉塵にまみれながら都市を作り、学校を建て、家庭を築き、子供たちへ未来を残そうとしている。必要なのは哀れみではなく、自分たちの社会を自分たちで選ぶための資源と権利だった。
少し離れた通りでは、ヤマト夫妻がサイド3行きの荷物を抱えて歩いていた。
僕が紹介した生殖医療基金の契約書を検討し、支援を受けることを決めたという。二人は僕を見つけると深く頭を下げたが、僕にはその礼を受け取る資格があるとは思えなかった。
基金が正しく機能すれば、二人の治療記録は匿名化され、将来、同じ問題を抱える家族の役に立つ。その社会的価値が次の資金を呼び、支援の対象を広げていく。
僕は二人を救ったのではない。
彼らの望みと、社会の需要が交わる場所へ金を置いただけだ。
それでも、二人が並んでサイド3行きの船へ向かう姿を見送っていると、利益や制度だけでは言い表せない何かが、確かに未来へ運ばれていくように思えた。
フォン・ブラウンでは、金と技術が正しく結びつけば、人類は宇宙で繁栄できると知った。
グラナダでは、その繁栄の影に、数字へ表れない痛みがあることを知った。
資本は未来を作る。しかし、使い方を誤れば、未来の代金を誰かへ押しつけ、その存在を見えなくすることもできる。それは、僕の目指すところにある札束ビンタではない。
金が悪いのではない。
利益が悪いのでもない。
問題は、誰が利益を受け取り、誰が危険を負い、誰の声が意思決定から消えているかが、見えなくなることだった。そして、その声を拾い上げる仕組みがなければ、善良な人間が運営する組織でさえ、いつか誰かを踏みつける。
青い地球を守ること。
宇宙へ旅立つ者を見捨てないこと。
その言葉の意味も、グラナダを訪れる前とは少し変わっていた。
宇宙へ渡った者たちは、地球に救いを求める棄民ではない。過酷な環境の中で都市を築き、家庭を作り、自分たちの未来を選ぼうとする開拓者だった。
その営みを支えるために必要なのは、上から与える慈善だけではない。自分たちの声を届ける制度であり、危険と利益を公平に引き受ける契約であり、世代をつなぐ医療と教育であり、それらを何十年にもわたって維持できる資本だった。
我々は棄民ではない。
我々は開拓民である。
その言葉を、僕はグラナダの夜に初めて思い浮かべた。
やがて多くの人間の前で語ることになる言葉だったが、このときはまだ、月面の古びた広場で一人の少女が低重力の空へ跳び上がる姿と、サイド3へ向かうヤマト夫妻の背中を眺めながら、胸の内でそっと形にしただけだった。
翌朝、僕たちは月を離れ、サイド1へ向かった。
メラニー・ヒュー・カーバインから受け取った古い万年筆と、グラナダで新たに結んだ無数の契約を携えて。
フォン・ブラウンは宇宙開発の希望を見せ、グラナダはその希望を支える手がどれほど傷ついているかを教えた。
僕のスペース・グランドツアーは、まだ始まったばかりだった。しかし、地球を出たときよりも、僕の荷物は確実に重くなっていた。
十億ドルの資産報告書には記載されない、数え切れない人間の声と、まだ生まれてもいない未来によって。
月からサイド1へ向かう旅客船は、地球から静止軌道ステーションへ上がった船よりも、はるかに落ち着いた雰囲気だった。
宇宙航行に慣れた乗客が多いのだろう。窓の外へ月が遠ざかっても歓声を上げる者は少なく、それぞれが仕事や読書や会話へ戻っていた。僕も個室へ戻り、グラナダ事故後の報告書と、再建計画の草案を読み直すつもりだった。
ところがハワードから、船内で開かれる晩餐会へ出席するよう念を押された。本当に出席する必要があるのだろうか。
「ございます」
僕は、勝手気ままな旅行中のはずだ。
「旅行中だからこそです。サイド1の行政関係者、軍人、企業経営者が多く乗船しています。顔をつないでおいて損はありません」
「食事をしながら値踏みされるのは好きではありません」
「坊ちゃまも、常に相手を値踏みしていらっしゃいます」
「僕は数字を見ているだけです」
ハワードは、相手も坊ちゃまの数字を見ていますと切って捨てた。
僕は反論できなかった。
結局、僕は船内の晩餐会へ参加することになった。
会場には、月面都市の実業家、サイド1の自治政府関係者、地球連邦軍の士官、財団関係者などが集まっていた。誰もが上品な笑顔を浮かべながら、互いの肩書と資産と人脈を測っている。
僕が入場すると、すぐに何人もの大人が近づいてきた。
「アズラエル様、グラナダでのご活躍を聞きました」
「十二歳で安全改革まで指揮されたそうですね」
「ぜひ一度、我が社の案件もご覧いただきたい」
称賛の言葉を口にしながら、目は僕の背後にいる秘書や護衛、胸元の旅客証、手に持った端末へ向いていた。彼らが見ているのは、ムルタ・アズラエルという人間ではない。
十億ドルの資産と、アズラエル家の後継者と、将来利用できる可能性だった。
慣れているとはいえ、楽しいものではない。
用意された席へ向かうと、隣には一人の青年が座っていた。
年齢は十八歳ほどだろう。黒に近い髪を無造作に整え、仕立てのよい服を着ていたが、首元はわずかに緩められている。周囲の格式に合わせてはいるものの、本心ではこの場にうんざりしていることが見て取れた。
青年は僕を見ると、挨拶もせずに言った。
「君がムルタ・アズラエルか」
この尊大さは名家の出身だろうか。
「本当に十二歳なのか?」
「お疑いなら、戸籍を取り寄せましょうか」
「いや。安全委員会の規約を従業員と討論する十二歳が実在するなら、一度見てみたかっただけだ。このゴシップ記事は傑作だな」
僕は青年の手元へ目を向けた。彼の端末には、僕がグラナダで設置を決めた安全委員会についての記事が表示されていた。
ただし、ゴシップ誌らしく僕のエピソードが面白おかしく書かれている。彼が持つ端末には、屈強な作業員たちに囲まれながら、笑顔で今後の予定を話し合う子どもの姿があった。確かに、客観的に見ると、少し滑稽かも知れない。
最も、後ろのハワードたちは、誇らしげだった。まあ、少数でも評価して貰えるのなら、パンダ扱いも甘んじて受け入れよう。
「本人の前で盗み見るのは趣味が悪いですよ」
「ただの公開情報だろう。それとも、知られてマズイことでもあるのか?」
別にそんなものはない。だが、ずいぶん熱心に話しかけてくる。アズラエルの名を勝手に恐れて、勝手に萎縮する人間のなんと多いことか。何か下心がありそうだった。
「ハハハ、鋭いね。父から、君へ接触しろと言われた」
青年は悪びれずに答えた。
そこは正直に言うのか。
「嘘をついても、君は調べるだろう」
そのとおり。それに対する彼の返答は簡潔だった。実に自分好みである。
「だから手間を省いたのさ」
周囲の大人たちが僕らの様子を気にしている。おそらく席順も偶然ではない。アズラエル家の神童と、名のある家の若者を隣に座らせ、将来の縁を作らせるつもりなのだろう。
青年は周囲へ視線を向け、小声で言った。
「どうやら僕たちは珍獣らしい」
「僕は投資商品だと思われています。ローリスク・ハイリターンのインチキ商品ですね」
「僕は血統書付きの繁殖用さ。まだ少年の君がうらやましいね」
あまりにも身も蓋もない表現だったので、思わず笑ってしまった。
青年もつられるように口元を緩めた。
「カーディアス・ビスト」
彼は簡潔に名乗った。
「ビスト財団の?」
「その言い方は嫌いだ。僕は財団ではない」
「ですが、ビストの姓を名乗っています」
「名前は選べない」
しかし、捨てることはできる。驚いたカーディアスが、君が言うのか、と問うた。
「僕はアズラエル家の力を捨てるつもりはありません」
「なるほど。利用するつもりか」
だって、使えるものを捨てるのは、資源の無駄じゃん。
カーディアスは興味深そうに僕を見た。若者らしく好奇心旺盛らしい。
「君は家を利用しているつもりなのか」
「少なくとも今は、家に利用されるより上手に使っています」
「ずいぶん自信があるな。謙虚さを美徳とは思わないが、大言壮語は身を滅ぼすぞ」
無問題。なんせ、結果は出していますから。あんたも十億ドルを稼いでから説教しな。
「聞いていた話と違って、ずっと嫌な奴だな」
「褒め言葉として受け取ります」
「そして、聞いていた話より面白い」
ちょうど料理が運ばれてきたが、二人とも手を付けなかった。
「君は、なぜグラナダであんなことをした」
カーディアスが尋ねた。
あんなこととは何か。思い当たる節が多すぎる。
「さっきの話さ。利益を減らしてまで、安全委員会を作った。労働者へ経営の情報を公開し、自分を解任できる仕組みまで入れたそうだな」
「その方が、長期的には企業価値が上がるからです」
「本当にそれだけか」
それだけだ。僕は利益が出ない行動はしていない。
「君は何でも利益の話へ逃げるらしい」
何故かアーサーと似たことを言われた。きっと僕のことを誤解している。
だって、利益は、誰にでも理解できる共通語じゃないか。
「感情より便利、というわけだ」
その通り。少なくとも決算書にも契約書にも書けるよ。安心感が違う。
「なるほど。君は人間の善意を信用していないんだな」
「善意を信用していないのではありません。善意が続くことを信用していないのです」
父や母や、僕自身が善意を持っている間だけ成立する制度では足りない。次の経営者が利己的であっても、最低限守られる仕組みが必要だった。
「だから自分まで縛るのか」
「権力を持つなら、その権力を使えない場合を先に決めるべきです」
「自由ではないな」
「自由とは、好き勝手に振る舞うことではないでしょう」
「僕は、そう思わない」
カーディアスは椅子の背へ身体を預けた。
「家の人間は、僕がどこへ行き、誰と会い、何を学び、将来誰と結婚するかまで決めようとする。ビスト家のため。財団のため。地球圏の安定のため。言葉だけは立派だ。だが結局、僕自身の意思など誰も聞いていない」
「だから逃げるのですか?」
逃げるつもりはない、と言ってカーディアスは眉を潜めた。
「家を離れ、家の名前が通用しない場所へ行こうとしているのでしょう」
カーディアスの目が細くなった。
父から聞いたのか、と聞いてくる。
「いいえ。服装、荷物、周囲の監視役、あなたの態度から推測しました」
「監視役ではない。随行員だ。君も似たようなものだろう」
「いいえ全く違います。随行員だと本人がそう思っていないなら、それは監視役です。さて、彼らはあなたとビスト家のどちらの味方でしょうね?」
「くっ、君は人の弱みを見つけるのが趣味なのか」
そら、世界一の投資家だからな!
「やはり嫌な奴だ」
カーディアスはそう言いながら、楽しそうだった。逃げることが悪いとは言いません、と僕は続けた。
「逃げなければ、自分を守れない場合もある。ただ、家を捨てれば自由になれると考えているなら、少し単純だと思います」
前世のカルトの出家制度がそうだった。きっと誰からも救いがなくてカルトに頼って、世俗を捨て去って自由になるはずが、今度は教団に縛られていた。底辺だった俺には、当然のごとくお誘いがったし、似たような境遇の周囲もカモられていたのを思い出す。
「家に縛られながら、自由を語る君に言われたくない」
「僕は縛られていることを認めています。その縄をどこまで伸ばせるか試しているだけです」
「それは金持ちの哲学だな」
いや、あんたも金持ちだろう。このボンボンがよ。
「だから嫌なんだ」
カーディアスは料理を一口だけ食べ、すぐにフォークを置いた。味がしないらしい。言葉通りの意味ではないだろう。もっと感情的な話だ。こんなに高価な料理なのに、感想がそれか。料理人に失礼だろう。
「値段を聞けば味が良くなるのか。貧乏人の発想だな」
「値段を手掛かりに、高価である理由を分析できます。価値評価は人格が現れますしね」
「あきれたね。君は食事まで投資なのか」
費用対効果は重要だよ。またおかしそうに笑った彼は、ここを出よう、と言った。
突然何なのさ。どこへ行こうというのかね。
「どこでもいい。この晩餐から逃げたい。全員がこちらを見ている。珍獣が食事をするところを観察したいらしい」
「途中退席は失礼ですよ」
「意外だな。君は礼儀を気にするのか」
「当然のこと。信用には値段があります」
「なら、その値段は僕が払う」
何だと。でも、お高いですよ。
彼は自然と、ビスト家へ請求しろ、と返した。これだから金持ちのボンボンは困る。自分で稼ぐ気も、自分で払う気もないのだから。