【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
結局、僕たちはほとんど料理へ手を付けないまま、晩餐会を抜け出した。
ハワードは遠くから僕らを見ていたが、止めなかった。相手が誰かをすでに調べているのだろう。護衛二人だけが一定の距離を保ち、僕たちの後ろをついてきた。
向かった先は、船尾側の展望室だった。
月はすでに遠く、窓の外には黒い宇宙と星の光だけが広がっている。カーディアスは窓の前へ立ち、しばらく何も言わなかった。
「グラナダは、どんな場所だった」
やがて彼が尋ねた。
「報告書に書かれているとおりです」
僕は少し考え、少女との会話を話した。
地球へ行ってみたいかと尋ねたこと。
旅行なら行きたいが、住みたくはないと答えたこと。
ここが家だから、と言われたこと。
カーディアスは黙って聞いていた。
「地球の人間は、宇宙に住む者を移民と呼ぶ」
彼は静かに言った。
「だが、そこで生まれた者には、移ってきた覚えなどない」
その通りだ。生まれた場所が、故郷である。
「財団の人間は、地球圏全体を俯瞰して考えると言う。けれど、俯瞰とは、高い場所から人間を小さく見ることなのかもしれないな」
「高い場所から見なければ、全体は分かりません」
「低い場所から見なければ、人間は分からない」
その言葉に、僕はメラニーとの会話を思い出した。どちらも必要なのだろうね。
「君は意外と素直だな」
「相手が正しい場合は認めます」
「自分が間違っている場合は?」
「証明してください」
「面倒な奴だ」
よく言われる。
僕はカーディアスへ、アーサーのことを話した。
静止軌道ステーションで出会った少年。
詐欺に遭った母親。
未来の友情へ投資すると言い、名前を呼び合ったこと。
カーディアスは途中から笑いを堪えていた。
「名前を呼べば友達?」
宇宙では、そうらしいよ?
フォン・ブラウン市長も言っていたからな。
「随分安い友情だ」
「僕も最初はそう思いました」
「今は?」
「名前だけで始められるなら、悪くないと思っています」
カーディアスは窓へ映る自分の顔を見た。
「なら、僕たちも友達か」
「まだカーディアスと呼んでいません」
「今呼んだ」
「説明のためです」
「細かい男だな、ムルタ」
名前を呼ばれた。
僕は少しだけ困った。
「何ですか、カーディアス」
「これで友達だ」
勝手に決めないでおくれ。
「安い友情なのだろう」
「投資審査は厳格です」
「なら僕にも投資してみろ」
何だいきなり。アーサーの時ほど優しくはしないぞ。
「ハハハ、厳格で良いさ。俺は自分の人生を、自分で決める。俺の人生に投資しろ」
は? 利益の見込みが一切不明やろ。何そのハイリスクノーリターンはよ。
「損はさせない」
だから根拠は何なのさ。
「僕だからだ」
ひどく自信に満ちた答えだった。
しかし、不思議と嫌ではなかった。
サイド1へは、何をしに行くのか、と僕が尋ねると、カーディアスは懐から一通の招待状を取り出した。
「バジルール家の晩餐へ出ろと言われている」
「偶然ですね」
僕も同じ紋章の入った招待状を端末に表示した。
サイド1に影響力を持つ軍人名家、バジルール家からの招待だった。宇宙航路とコロニー防衛について意見を聞きたいとのことである。僕としても、サイド1の軍人社会と接点を持つ機会として断る理由はなかった。
「目的地は同じか」
そうだね。
「なら、君についていく」
なぜそうなるのか。
「財団の船へ戻りたくない」
お前の随行員が困るだろうが。
「困らせればいい」
僕の秘書も困るだろうが。
「慣れているように見える」
その瞬間、背後からハワードの声がした。
「慣れてはおりますが、歓迎はしておりません」
振り返ると、彼はいつもの冷静な表情で立っていた。
「坊ちゃま。今度は、人を拾われたのですか」
「拾っていません。勝手についてくるそうです」
僕は荷物ではないぞ、とカーディアスが言うと、ハワードは優雅に一礼した。
「荷物であれば、輸送費だけで済むのですが」
「君の秘書は面白いな」
上げませんよ?
「別に欲しくはない」
「カーディアス様の随行員から、すでに問い合わせが来ております」
何と答えた、とカーディアス。
「ご本人がこちらにいる、と」
余計なことを、とカーディアス。相変わらず尊大な態度を崩さない。僕を見習いたまえ。
まあ、捜索させては迷惑だ。連絡がついてよかったよ。
ほどなくして、ビスト家の随行員が展望室へ現れた。カーディアスへ財団の船へ戻るよう説得したが、本人は聞かなかった。サイド1までは、この船に乗ると繰り返す。
「旦那様の許可がありません」
「十八歳だ。旅行するのに父の許可はいらない」
「ビスト家の後継候補として――」
「その言葉を使うな」
カーディアスの声が低くなった。
随行員は一瞬黙ったが、それでも引かなかった。財団の予定、警備上の問題、サイド1での面会日程。次々と理由を並べる。
僕は聞きながら、カーディアスの言ったことを理解した。
彼らはカーディアスへ仕えているのではない。
ビスト家の将来を管理している。
「旅費はご本人に支払っていただきます」
僕が口を挟むと、全員が僕を見た。
「ムルタ?」
「こちらの船へ同行するのであれば、客室の追加費用が発生します。ビスト財団へ請求するつもりはありません」
なぜだ、とカーディアスは本気で不思議そうな顔をする。
「家から自由になりたい人間が、家の金で自由を買うのは矛盾しています」
カーディアスはしばらく僕を見つめ、それから笑った。
「分かった。自分で払う」
でもお前収入はあるのかよ。
「個人資産がある」
「それはビスト家から与えられたものでは?」
ノーカンで。
「君はどこまで細かいんだ」
そこんとこ重要だろうが。
「なら、サイド1へ着いたら働いて返す」
ほーん、仕事の内容は?
「君の旅の案内役をする。バジルール家にも面識がある」
それだけでは足らん。ワシの投資は安くないぞ。
「僕を安く見積もるな。サイド1の有力者、軍人、財団関係者、企業家の関係を教えてやる」
ふーん。情報の正確性は?
「僕を誰だと思っている」
「財団ではないのでしょう?」
カーディアスは一瞬言葉に詰まり、やがて声を立てて笑った。
「いいだろう。サイド1へ着くまでに、君が僕を友達として認める程度の利益を出してみせる」
「期待しています」
「言ったな、ムルタ」
「ええ、カーディアス」
こうして、月を出たときにはいなかった旅の仲間が、一人増えた。
――カーディアス・ビスト
後に巨大な財団の二代目当主となる男である。しかし、このときの僕にとっては、堅苦しい晩餐から勝手に逃げ出し、人の旅程へ当然のように入り込んできた、少し年上の変わり者にすぎなかった。
「ところで、ムルタ。サイド1へ着くまでに、操船区画を見学できないか」
いや、乗客が入れる場所ではないぞ。
「船長とは顔見知りだ」
「それはビスト家の力では?」
「僕個人の人脈だ」
同じだろう。違いが分からん。
「使えるものを捨てるのは、資源の無駄なのだろう?」
自分の言葉を返され、僕は黙った。
カーディアスは勝ち誇ったように笑った。
どうやら今回の旅は、予定よりもずっと騒がしくなりそうだった。