【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
サイド1が見えてきた、と船内放送が告げた時、僕は個室の机へ広げた報告書を読んでいた。
グラナダの精錬会社から届いた、設備交換の進捗報告である。第三精錬炉は予定どおり停止し、主要弁の交換作業が始まっていた。安全委員会には現場代表と医療担当者が加わり、最初の会議では早くも経営陣と激しい議論になったらしい。
よい傾向である。
会議が穏やかに終わったという報告ほど、信用できないものはない。全員が納得しているのではなく、誰かが発言を諦めている可能性が高いからだ。立場の異なる人間が本音を出せば、意見は衝突する。その衝突を隠すのではなく、企業を壊さない形へ変換するのが制度の役割だった。
僕は報告書へ承認の署名を入れた。メラニーから受け取った万年筆ではなく、端末上の電子署名である。
せっかく貰ったのだから使ってみたい気持ちはあったが、古い万年筆を宇宙船の中で持ち歩き、インクを漏らしたら目も当てられない。戒めの品を壊したせいで、別の戒めが必要になるのは勘弁してほしい。
万年筆は専用の箱へ収め、荷物の奥へしまっていた。
「ムルタ」
返事をする前に、個室の扉が開いた。
カーディアスだった。
彼は僕の返事を待つという常識を、ビスト家へ置いてきたらしい。
「入ってよいとは言っていません」
「名前を呼べば友達なのだろう。友達の部屋へ入るのに許可が必要なのか?」
「必要です。友情と領有権は別問題です」
「君は本当に細かいな」
「あなたが大雑把すぎるのです」
カーディアスは悪びれもせず、僕の机の向かい側へ座った。
月からサイド1へ向かう短い航海の間に、彼はすっかり僕たちの一行へ馴染んでいた。少なくとも本人は、そのつもりでいる。
護衛へ勝手に話しかけ、船員から操船の話を聞き出し、ハワードが整理した予定表へ自分の予定を書き足し、僕の個室へ許可なく入ってくる。
これを馴染んだと表現してよいのかは疑問だった。
「到着前に外を見ないのか?」
「映像なら端末で確認できます」
「実物と映像は違う」
カーディアスがそんなことを言う。グラナダで僕が学んだことを、もう自分の思想のように使っていた。人の言葉を吸収するのが早い。
「報告書がまだ残っています」
「仕事はサイド1へ着いてからでもできる」
「先日知り合った頑固な技術者にも、同じことを言いました」
「なら、自分も従え」
他人へ向けた正論が、自分へ戻ってくると腹立たしい。
僕は端末を閉じた。
「五分だけですよ」
「十分にしよう」
「七分です」
「交渉成立だ」
成立させた覚えはなかった。
展望室へ到着すると、すでに多くの乗客が窓の前へ集まっていた。
黒い宇宙の中に、細長い円筒が浮かんでいる。サイド1を構成するスペースコロニーの一つだった。
遠目には、銀色の巨大な筒に見える。しかし船が近づくにつれ、その大きさを実感できなくなっていった。巨大すぎて、全体を一つの建造物として認識できない。
外壁の一部には細長い採光窓が走り、その周囲へ太陽光を反射する大型ミラーが開いている。コロニーの両端には港湾設備、通信施設、姿勢制御装置が集まり、貨物船や旅客船が小さな昆虫のように出入りしていた。
人間が作ったものだという実感が湧かなかった。
「大きいですね」
「感想が普通だな」
「大きいものを大きいと言って何が悪いのです」
「十二歳で十億ドルを稼いだ神童らしく、もっと変わったことを言うかと思った」
「建設費はいくらでしょう」
「やはり君だな」
カーディアスは満足そうに頷いた。
僕の頭の中では、すでに数字が動いている。
外壁材。採光設備。空気。水。農地。輸送費。保守費。人口。税収。土地使用料。生命維持設備の更新費。
コロニーは巨大な都市であり、同時に一つの企業のようでもあった。地球の都市は、土地と空気と重力を最初から与えられている。
コロニーでは違う。
人間が生きるために必要なものを、すべて作らなければならない。空気も、水も、土も、昼と夜も。地球では無料だと思われているものに、値段と管理責任が発生する。
その意味では、コロニーほど会計に正直な社会はない。
空気を浪費すれば、空気循環設備の負荷として表れる。
水を汚せば、浄化費用になる。
農地を潰せば、食料輸入費が増える。
社会の失敗が、費用としてすぐに返ってくる。地球では自然へ押しつけ、見えなくできた損失が、宇宙では逃げ場を失うのだ。
「何を考えている?」
「コロニーの減価償却です」
「景色を見て最初に考えることか?」
「重要ですよ。建設した設備は、いつか壊れます」
サイド1は、人類最初期のコロニー群である。
開拓の歴史が長いことは、文化や産業が成熟しているという意味であり、同時に設備が古いという意味でもあった。
宇宙へ最初に築かれた都市は、最初に老朽化を迎える。
僕がこれから投資する先として、実に魅力的だった。
「また何か買うつもりだな」
「まだ見てもいないのに決めつけないでください」
「月では、歩くだけで何十件も投資先を増やしたそうじゃないか」
「ハワードから聞いたのですか?」
「船内の記事に書いてあった」
ゴシップ誌は余計なことまで調べている。
僕が顔をしかめると、カーディアスは楽しそうに笑った。
「君の秘書が苦労するわけだ」
「ハワードは優秀です」
「否定はしない」
そのハワードは、僕たちの少し後ろで到着予定を確認していた。
「坊ちゃま。間もなく接舷いたします。入港後はバジルール家より迎えが参ります」
「分かっています」
「今回こそ、予定を守ってください」
ハワードが念押ししてくる。今回こそ、とは心外である。
「フォン・ブラウンでは、市長の案内が予定の三倍に延びました」
カノーラが話し好きなのが悪い。
「技術博覧会では、滞在時間が二倍になりました」
ロベルとの交渉が長引いたからである。
「グラナダでは、予定になかった事故現場へ向かわれました」
事故が起きたのだから仕方がない。
「つまり、坊ちゃまに責任はないと?」
そう聞かれると、反論しづらい。
カーディアスが笑いを堪えている。
「何がおかしいのです」
「いや。君にも勝てない相手がいるのだと思って」
「雇用主は僕です」
「そう見えないな」
僕にも、時々そう思える。
船体へわずかな振動が走った。接舷したらしい。
窓の外に広がっていたコロニーの外壁が見えなくなり、代わりに港湾施設の照明が視界を埋めた。
いよいよ、