【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
最初に暦を聞いたときは、使用人の言葉を聞き間違えたのだと思った。
宇宙世紀。英語ではユニバーサル・センチュリー。
まったく聞き覚えがない。コズミックイラはどこに消えたん?
もしこの世界がガンダムSEEDだったのなら自信があった。
作品は何度も見返した。放送終了後も、録画した映像を擦り切れるほど見た。続編も見た。貧苦に喘ぎ関連書籍までは買えなかったが、図書館とインターネットで調べられることは調べた。
キラ・ヤマトがどこで戦い、アスラン・ザラが何に迷い、ラウ・ル・クルーゼが何を憎んでいたのかも知っている。
そして、ムルタ・アズラエルがどのような最期を迎えるのかも。
僕はその知識を頼りに生き延びるつもりだった。
コーディネイターとの競争に備え、ブルーコスモスの過激化を防ぎ、あわよくば血のバレンタインも戦争も回避する。少なくとも原作の僕のように、核ミサイルを撃てと叫びながら死ぬつもりはなかった。
ところが、ここにはコーディネイターがいなかった。プラントもなかった。ザフトもなければ、大西洋連邦すら存在しなかった。
その代わり、地球は地球連邦政府という一つの巨大な政治機構によって、建前の上では統一されていた。
月には都市があり、地球の周囲には巨大な円筒形の居住施設が浮かんでいる。
サイド1。
サイド2。
サイド3。
書斎にあった児童向けの図鑑には、宇宙から撮影されたスペースコロニーの写真が載っていた。
漆黒の宇宙に浮かぶ銀色の筒。その内側には大地があり、川が流れ、街が築かれているという。
三歳児向けの本には、笑顔の家族が宇宙船へ乗り込む挿絵が描かれていた。その上には、明るい色の文字でこう書かれていた。
『さあ、新しい故郷へ!』
僕はその一文を、しばらく黙って見つめていた。新しい故郷。ずいぶん綺麗な言葉だと思った。僕の前世にも、綺麗な言葉はたくさんあった。努力は報われる。学ぶ意志があれば道は開かれる。仕事を選ばなければ働き口はある。家族を大切にしよう。
どれも間違いではない。
ただし、それを実現できるだけの金と時間と余裕がある者に限る。
「この人たちは、自分で宇宙へ行きたいと言ったの?」
図鑑を開いたまま尋ねると、家庭教師の女性は少し意外そうな顔をした。
「もちろん希望して移住される方もいらっしゃいます。宇宙には新しい仕事も、新しい土地もございますから」
「希望しない人は?」
「地球の人口を減らすことは、人類全体のために必要なことです」
答えになっていなかった。
しかし必要性は分かっていた。僕が生きていたころすら環境破壊が問題になっていたのに人類は学ばなかったようだ。環境破壊は危険な域まで進み、宇宙へとまるで捨てるように人を追い出していた。棄民政策という言葉がニュースで流れていたのだから、一般的な認識なのだと悟った。
もっとも、責任ある家庭教師として三歳児へ政治の現実を説明するつもりなどなかったのだろう。彼女に悪意はない。ただ、そう教えられたことを、そのまま口にしただけだ。
「地球に残りたい人もいるよね」
「ええ。ですが、誰かが宇宙へ行かなければなりません」
——誰かが。
その一言が、妙に胸へ残った。
誰かが高校を諦めなければならない。
誰かが安い賃金で働かなければならない。
誰かが身体を壊すまで働かなければならない。
仕方がない。
社会とはそういうものだ。
前世で何度も聞いた言葉だった。
「その誰かは、どうやって決めるの?」
家庭教師は答えなかった。困らせてしまったらしい。その日の授業は、予定より早く終わった。
それから僕は、屋敷の書斎へ入り浸るようになった。
三歳児が読むには難しすぎる本ばかりだったが、幸いなことに文字そのものは読めた。前世の記憶があるからではない。ムルタ・アズラエルとして受けた早期教育のおかげである。
前世では文字を覚えるための本すら満足に買ってもらえなかった僕が、今世では三歳にして複数の言語を習わされている。
同じ人間でも、生まれた場所が違えば、これほど違う。
笑うしかなかった。
歴史書によれば、世界は僕が死んだ後も続いていた。国家同士の争いは次第に統合へ向かい、地球連邦政府が成立した。人口増加と環境破壊は深刻化し、人類は宇宙へ生活圏を広げた。
西暦は終わり、宇宙世紀が始まった。
それは未来だった。僕が生きていた世界の、遠い未来。
ならば、ムルタ・アズラエルという名前が存在することも、単なる偶然なのかもしれない。
ガンダムSEEDという作品に登場したムルタ・アズラエルは、未来に実在する人物を無意識に先取りした存在だったのかもしれない。あるいは、この世界そのものが、僕の知っているガンダムとは何の関係もないのかもしれない。
そう考えれば、まだ心は穏やかでいられた。
だから僕は、ひとまず考えることをやめた。転生先は未来の地球。名前がムルタ・アズラエルなのは偶然。そういうことにして、金持ちの生活を楽しもうと思った。
前世では食べられなかった菓子を食べる。好きなだけ本を読む。
最高の教育を受ける。いつか財団を継ぎ、金を稼ぐ。母にしてやれなかったことを、今度は自分がしてやる。それでいいではないか。
僕はそうしてすくすく育ち8歳になった。私生活は充実しているがいまだチート能力の片鱗が見えないのが不満であった。
今日も地球は平和だった―—僕の見える範囲はそうだった。
結局前世は小市民に過ぎなかった僕は、狭い世界で満足していたのだ。
綿菓子に包まれたようなふわふわとした日々。後年になっても懐かしく思い返すことが出来た。本当に、平和だった。
宇宙世紀0050年——節目の年であった。
宇宙移民人口が90億人に達し、ついにスペースノイドが人口上の多数派となる。アースノイドとスペースノイドの権利が本格的にぶつかり合う兆しが見えていた。