【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
港の気密区画を抜け、都市内部へ向かう大型昇降機へ乗り込む。
月面都市では地下へ降りた。
コロニーでは、外壁から内側へ入る。
方向感覚がおかしくなる移動だった。
案内表示では、昇降機はコロニー中心部へ向かって下降していることになっている。だが、僕の感覚では横へ進んでいるようにしか思えない。外壁の回転によって生まれる遠心重力のため、外壁側が地面で、中心軸側が空になる。
理屈では分かる。身体が納得しているかは別問題である。
扉が開いた。柔らかな風が頬へ触れた。
一瞬、僕は自分が宇宙にいることを忘れた。
目の前には、青い空が広がっていた。
白い雲が浮かび、遠方には緑の丘が連なっている。道路の脇には樹木が植えられ、小さな川が流れていた。建物は月面都市よりも低く、地球の郊外を思わせる。
頭上には太陽を模した照明ではなく、本物の太陽光が大型ミラーを通じて差し込んでいる。
空に見える部分は、コロニーの反対側だった。
よく見れば、青空の遠くに、上下が逆になった街並みがかすかに見える。あちらでも人々が歩き、車が走り、家々の屋根がこちらへ向いている。
知識としては知っていた。
しかし、実際に見ると異様だった。
地面の上に空があり、その空の向こうに別の地面がある。
「どうだ?」
カーディアスが尋ねた。
「気持ちが悪いですね」
「もう少し夢のある感想はないのか」
「美しいとは思います。しかし、構造を理解すると落ち着きません」
「いずれ慣れる」
「あなたは慣れているのですか?」
「子供の頃から何度も来ている」
それなら先に教えてほしかった。
カーディアスは、僕が頭上の街を見て困惑する姿を楽しんでいるらしい。
案内通路の先には、歓迎の一団が待っていた。
中央に立つ男は、軍服を着ている。
三十代前半だろうか。背が高く、肩幅も広い。きれいに整えられた髪と口髭。いかにも軍人らしい姿だったが、顔には大きな笑みが浮かんでいた。
僕たちの姿を確認するなり、大股で歩み寄ってくる。
「お待ちしておりました!」
声が大きい。
港の広い到着区画へ、よく響いた。
「ムルタ・アズラエル様! そしてカーディアス・ビスト様! お二人を同時にお迎えできるとは、バジルール家にとって末代までの誉れであります!」
ずいぶん大げさだった。
男は僕の前で姿勢を正し、見事な敬礼をする。
「地球連邦宇宙軍、ライオネル・バジルール少佐です。本日より、サイド1滞在中のご案内を務めさせていただきます!」
「ご丁寧にありがとうございます。ムルタ・アズラエルです」
「存じておりますとも! 十二歳にして十億ドルを築いた空前絶後の神童! 宇宙開発へ新しい風を吹き込む、若き投資家!」
褒めすぎである。
「まだ何もしていません」
「ご謙遜を! フォン・ブラウンでの投資、グラナダでの企業改革、いずれもサイド1まで届いております!」
「情報が早いですね」
「軍人にとって情報は命です。そしてバジルール家にとって、人脈は第二の命!」
本人が言ってしまった。
横を見ると、カーディアスはすでに疲れた顔をしている。
「カーディアス様も、ご無沙汰しております!」
「半年前に会ったばかりでしょう」
「若者の半年は大きい! ますます立派になられましたな。未来のビスト財団当主にふさわしい!」
「僕は当主になるつもりはありません」
「これは失礼しました!」
ライオネルは即座に頭を下げた。
「では、当主になられなかった暁には、私の人を見る目がなかったということで!」
まったく反省していない。
カーディアスは額へ手を当てた。
「相変わらずですね、少佐」
「変わらないことも軍人には必要です!」
そう言い切ったライオネルは、再び僕へ向き直った。
「アズラエル様には、ぜひサイド1を隅々までご覧いただきたい。ザーンは人類最初の宇宙居住地です。古いだけではない。歴史があり、産業があり、地球圏の未来がある!」
「そのために来ました」
「おお! 頼もしいお言葉です!」
ライオネルは僕の手を両手で握った。
握手というより、捕獲に近い。
「我がサイド1は、アズラエル様のような若く、賢く、資金力のある方を歓迎いたします!」
「最後の要素が一番重要なのでは?」
「もちろんです!」
即答だった。
嫌いではない。
打算を隠して善意を装われるより、金が欲しいと正直に言われた方が話は早い。
僕が笑うと、ライオネルも豪快に笑った。
「おや。お気を悪くされませんか」
「資本を求めることは悪ではありません。何へ使うかが問題です」
「なるほど! では、使い道を存分にご覧いただきましょう!」
ライオネルは後ろの副官へ合図を送った。
迎えの車両が用意されているらしい。
僕たちは案内されながら、港の外へ向かった。
「ライオネル少佐」
「どうぞ、ライオネルとお呼びください!」
「公的な場では少佐と呼びます」
「では私も、ムルタ様と!」
「様は不要です」
「なんと寛大な!」
呼称一つで大げさすぎる。
カーディアスが僕の隣へ寄り、小声で言った。
「気をつけろ。あの人は褒めながら懐へ入ってくる」
「分かっています」
「分かっていて楽しんでいるだろう」
「正直な人は好きです」
「正直というより、隠す気がないだけだ」
それも一種の正直さである。
用意されていた車両は軍用ではなく、黒塗りの大型乗用車だった。
僕とカーディアス、ハワード、ライオネルが同じ車へ乗る。護衛と随行員は後続車両へ分かれた。
車が港湾区画を出る。
窓の外には、地球とほとんど変わらない街が広がっていた。
道路沿いには商店や集合住宅が並び、学校帰りの子供たちが歩いている。公園では老人が椅子へ座り、若者たちが球技をしていた。農業区画へ向かう輸送車が交差点を横切り、遠方では風力発電に似た空気循環設備がゆっくり回っている。
フォン・ブラウンには、宇宙へ築かれた都市という感覚があった。
岩盤を掘り、空気を閉じ込め、機械によって人間の生活を守っている。どこを見ても、宇宙という過酷な環境へ挑んでいることが分かる。
サイド1は違った。
あまりにも地球に似ている。
人々は頭上に宇宙があることを意識せず、買い物をし、学校へ通い、庭の手入れをしている。
月は、人間が宇宙へ挑んでいる場所だった。
サイド1は、人間が宇宙へ住み着いた場所だった。
「地球と変わらないでしょう」
ライオネルが誇らしげに言った。
「ええ。一見すれば」
「一見すれば?」
「地球では、空気循環設備が故障しても、住民全員が窒息することはありません」
ライオネルは目を瞬いたあと、大きく笑った。
「なるほど! アズラエル様は夢より先に弱点を見る!」
「投資家なので」
「軍人も同じです。敵が来ないことを祈るより、来た場合にどこを守るか考える」
軽薄に見えるが、発想は軍人だった。
「サイド1は古い。最初期のコロニーは、建造からすでに長い年月が経っています。外壁、空気循環、水再生、姿勢制御。更新費用は増える一方でしょう」
僕が尋ねると、ライオネルの笑みが少しだけ薄くなった。
「おっしゃるとおりです」
「予算は足りていますか」
「足りている、と申し上げたいところですが」
やはり足りていないんだな。
「連邦政府には、ほかにも優先すべき地域があります。新しく建造されたサイドは人口も増え、政治的な発言力も強い。我々は最初の宇宙都市としての誇りを持っていますが、政府から見れば、すでに完成した地域なのでしょう」
「完成したものに、更新費用が必要だとは考えない」
「ええ。新しく作る予算は目立ちます。古いものを壊れないよう維持する予算は、成果が見えにくい」
どこでも同じだった。
事故が起きなければ、安全投資の成果は見えない。
設備が壊れなければ、保守費用は無駄に見える。
人間は、起こらなかった不幸へ金を払ったことを忘れやすい。
「だから、アズラエル様には期待しております」
「僕の金を当てにしているのですか」
「はい!」
やはり即答だった。
「ただし、寄付を求めるつもりはありません。サイド1にも利益を生む産業はある。軍需、航路管理、精密機器、農業研究。利益の出る仕組みへ変えていただけるなら、我々も正当な対価を支払う」
「ずいぶん話が早いですね」
「アズラエル様が慈善家ではないことは、承知しております」
「僕も、自分を慈善家だと思ったことはありません」
メラニーにも同じことを言った。
ライオネルは、ますます嬉しそうな顔をした。
「いやあ、実に頼もしい! 慈善家は、飽きれば去る。しかし投資家は、利益がある限り残る!」
「利益がなくなれば去りますよ」
「ならば、利益がなくならない関係を作ればよい!」
この男、政治家や商人になっても成功したのではないだろうか。
「少佐は、本当に軍人なのですか」
「もちろんです。軍人だからこそ、補給と予算の重要性を知っております。勇敢な兵士も、弾薬と食料がなければ戦えません!」
「理想や名誉を語らないのですね」
「理想と名誉で腹が膨れるなら、軍の食費は半分で済みます!」
カーディアスが声を立てて笑った。
僕も笑う。
ライオネル・バジルール。
押しが強く、声が大きく、褒め方が大げさで、打算を隠そうともしない。
面白い人だった。