【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
車は中心都市を抜け、郊外の住宅区画へ入った。
バジルール家の邸宅は、軍人名家と聞いて想像したほど豪華ではなかった。広い敷地と庭はあるが、建物は古く、装飾も控えめである。
玄関には歴代当主と思われる軍人の肖像が並び、壁には宇宙船や戦闘機の模型が飾られていた。
「由緒ある家なのですね」
「古いだけです!」
ライオネルは笑った。
「初代は宇宙移民船団の護衛士官でした。それ以来、バジルール家は代々軍人です。優秀な者も、そうでない者もいましたが、全員が制服を着ました」
「少佐も選択肢はなかったのですか」
「ありましたとも。陸軍か、海軍か、宇宙軍か!」
「軍人以外の選択肢です」
「考えたこともありませんな」
即答だった。
カーディアスが、僕を見た。
家から逃げたい彼には、理解しにくい答えなのだろう。
「家に決められた人生を、不自由とは思わないのですか」
カーディアスが尋ねた。
ライオネルは少しだけ考えた。
「思ったことはあります」
意外な返答だった。
「若い頃は、民間船の船長にも憧れました。自分の船で、好きな場所へ行きたいと。しかし、軍人になってみれば、悪くなかった。家に道を決められたからといって、その道で得たものまで偽物になるわけではありません」
「自分で選ばなかったのに?」
「最初の道は家が選びました。しかし、その道を歩き続けることは私が選んでいます」
ライオネルは笑っていたが、言葉は真剣だった。
「もちろん、カーディアス様へ同じ選択を勧めるつもりはありません。人には向き不向きがあります。私には、家を捨てて一人で生きる勇気がなかっただけかもしれない」
「ずいぶん謙虚ですね」
「褒めていただけますか?」
「褒めていません」
「残念!」
すぐに軽い調子へ戻った。
しかし、カーディアスは考え込んでいた。
家に従うことと、家に利用されること。
家を捨てることと、自由になること。
正解は一つではないのだろう。
僕はアズラエル家を利用する。
カーディアスはビスト家から離れようとする。
ライオネルはバジルール家が用意した道を、自分の意思で歩いている。
三人とも違った。どの道が正しいかは、まだ分からない。
「さあ、難しい話はここまでにしましょう!」
ライオネルが両手を叩いた。
「妻が晩餐の準備をしております。お二人を迎えるため、朝から張り切っておりましてな!」
「それは申し訳ありません」
「何をおっしゃる! 未来の世界一の富豪と、未来の財団当主を同時に迎える機会など、人生に一度あるかどうか!」
カーディアスは「僕は財団当主にはなりません」と即答する。
「まだおっしゃいますか!」
「まだも何も、最初から言っています」
「では、未来の何か大きなことをする方としておきましょう!」
バジルール少佐も大概適当である。
晩餐まで少し時間があるというので、ライオネルは邸宅の庭を案内した。
コロニー内部に庭を持つことは、地球より贅沢である。
土も水も空間も、すべて有限だ。軍人の家としては質素に見えても、相当な資産を持っていることが分かる。
庭の一角には、小さな果樹が植えられていた。
「月面では果樹栽培へ投資されたそうですな」
いや、まだ検討段階だよ。耳が早いな。
「サイド1でも、果物は高い。地球産ほどではありませんが、果樹は土地を長く占有しますから」
おや。この木は、なんぞ?
「妻が育てています。まだ一度も実をつけておりません」
チートさんが反応したぜ。品種と土壌データを下さいな。
「投資案件になりますかな?」
「可能性はあります」
僕が答えると、少し後ろにいたハワードが端末を操作した。
「サイド1到着後、一件目です」
まーた、数えるつもりか。
「必要かと思いまして」
「まだ投資すると決めていません」
「フォン・ブラウンでも同じことをおっしゃいました」
カーディアスが僕たちのやり取りを見て、呆れた顔をした。
「本当に歩くだけで案件を増やすのだな」
そこに問題があれば需要があるのだよ。
「そのうち、道端の石にも投資しそうだ」
月面の石なら投資したぜ。
「冗談だったのだが」
ロベルの掘削技術は、月面の石を利益へ変える。
間違ってはいない。
「いやはや、頼もしい!」
ライオネルは嬉しそうに僕の肩を叩いた。
「我が家の木が、アズラエル様の手で巨大事業へ育つかもしれない!」
「まだ一件目ですよ」
「一件目があるなら、二件目もある!」
この積極性は見習うべきかもしれない。
庭を抜けたところで、屋敷の中から女性が現れた。
ライオネルの妻だった。
夫とは対照的に、静かな雰囲気の女性である。年齢はライオネルより少し若いだろう。丁寧に挨拶し、僕たちを歓迎してくれた。
その腹部は、衣服の上からでもわずかに膨らんでいた。
「奥様は、お子様を?」
僕が尋ねると、ライオネルの顔がさらに明るくなった。
「お気づきになりましたか! まだ安定期へ入ったばかりですが、順調なら来年には家族が増えます!」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます!」
妻も穏やかに頭を下げた。
「男児か女児かは?」
「まだ分かりません」
妻が答える。
ライオネルは待っていましたとばかりに、僕へ身を乗り出した。
「そこで、アズラエル様!」
嫌な予感がした。
「もし女児であれば、将来の嫁候補にいかがでしょう!」
カーディアスが噴き出した。
ライオネルの妻が目を閉じ、深いため息をついた。
「あなた。お客様へ何を言っているのです」
「いや、未来を見据えた話だ!」
「まだ生まれてもいません」
「だからこそ先行投資だ!」
その言葉を僕へ使うのか。
「少佐」
「ライオネルとお呼びください、未来の婿殿!」
この空気で呼ばないよ。
「残念!」
我、十二歳ぞ?
「娘もいずれ成長します!」
年齢差ってやつがあるだろうに。
「十二歳程度、長い人生では誤差です!」
誤差ではないってばよ。干支が一回り違うじゃないか。
カーディアスが横から口を挟んだ。
「僕よりムルタを選ぶのですか、少佐」
「おお、カーディアス様もご希望ですか!」
違いますよ、とカーディアスは笑いをこらえている。
「ビスト財団との縁も魅力的ですな!」
「僕は財団ではないと言っているでしょう」
「では、個人として!」
「まだ生まれていない子供の婚約者候補を二人並べるな」
ライオネルは、しばらく僕とカーディアスを見比べた。
「これは悩みますな」
「悩む必要はありません」
僕とカーディアスの声が重なった。
ライオネルの妻が夫の腕をつかむ。
「いい加減にしてください」
「冗談だ」
「どこまでが?」
「半分ほど」
半分は本気なのか、と僕が尋ねると、ライオネルは胸を張った。
「バジルール家の将来を考えるのも、当主の責務です!」
あまりにも押しが強すぎる。
「ムルタ。君が引き受けろ」
「なぜです。カーディアスの方が年齢的に適切でしょう」
「僕は十八歳だ。生まれていない子供と適切な年齢差ではない」
僕も同じだよ。
「君は十二歳だろう。僕よりは近い」
六年しか違わんよ。
「二人とも、真剣に検討してくださるとは!」
ライオネルが嬉しそうに言う。
「していません!」
また声が重なった。
妻がついにライオネルを屋敷の中へ引きずっていった。
「皆様、どうぞお入りください。夫の話は忘れてください」
「待て。私はまだ案内を――」
「十分です」
軍人少佐が、妻には逆らえないらしい。カーディアスが僕の隣で笑っていた。
未来の婿、と僕を呼ぶ。
「カーディアスにも候補資格はありますよ」
「僕は辞退する」
奇遇だね。僕もだ。
「なら、どちらが先に逃げるか競争だな」
「何の競争ですか」
僕たちは顔を見合わせた。サイド1へ到着してから、まだ数時間しか経っていない。
しかし、すでに今回の滞在が予定どおりに進まないことだけは確信できた。
バジルール家の晩餐は、船内の晩餐会よりずっと居心地がよかった。
豪華な料理ではあるが、見せるためではなく食べるために作られている。ライオネルの妻が家庭菜園で育てた野菜も使われていた。
参加者は僕たちの一行と、バジルール家の親族、軍関係者、サイド1の行政官、企業家たちである。
人数は多かったが、船内のような露骨な値踏みは少ない。
代わりに、ライオネルが僕とカーディアスを大声で紹介し続けた。
「こちらが、かのムルタ・アズラエル様! 十二歳で十億ドルを稼ぎ、月面の頑固な技術者さえ口説き落とした若き天才!」
「口説いてはいません」
「投資家の世界では、契約を結ぶことを口説くと言うのでは?」
言わんよ、たぶん。
「そして、こちらがカーディアス・ビスト様! ビスト財団初代当主サイアム・ビスト氏の孫にして、将来の――」
「財団当主とは言わないでください」
「将来の大人物!」
紹介が雑になった。
出席者たちは笑った。
ライオネルは、道化のように場を盛り上げながら、自然に僕たちをサイド1の要人へ引き合わせていく。
行政官には設備更新の問題を語らせる。
企業家には投資案件を説明させる。
軍人には航路防衛と補給の課題を話させる。
一見すると、ただおしゃべりなだけだった。
しかし、会話の順序が計算されている。
僕が興味を持ちそうな人物を先に近づけ、話が長くなりすぎれば冗談を挟んで別の相手へ移る。僕の反応を見ながら、話題の優先順位を変えている。
人脈を第二の命と言ったのは、誇張ではなかった。
ライオネルは人と人を結びつけることを、軍事作戦のように考えている。
「少佐は、案内役より仲介業者の方が向いていますね。
僕が小声で言うと、ライオネルは胸へ手を当てた。
「最高の褒め言葉です!」
「褒めてはいません」
「では、今後褒めていただけるよう努力します!」
何を言っても前向きに受け取る。
強い。
食事が進み、話題は宇宙航路へ移った。
サイド1は地球、月、ほかのサイドを結ぶ交通の要衝でもある。軍人たちは航路警備の不足を訴え、企業家は海賊や事故による保険料の上昇を語った。
「最近では、木星航路への関心も高まっております」
ライオネルが言った。
「木星ですか」
僕はフォークを止めた。
「核融合燃料として、ヘリウム3の需要は今後さらに増えます。木星は巨大な供給源になり得る。しかし距離が遠すぎる。航海には長い時間がかかり、船も人員も不足している」
行政官が続ける。
「政府主導の木星開発事業はありますが、予算は限られています。民間企業は投資回収までの期間を嫌がる」
「当然でしょう」
僕は答えた。
木星は遠い。
宇宙世紀の技術でも、地球圏との往復には長い時間がかかる。船を建造し、人員を送り、生活設備を維持し、資源を持ち帰る。
投資額は巨大。
回収は遅い。
事故が起きれば全損。
政策変更の危険も高い。
普通の投資家なら避ける。
「アズラエル様でも、魅力を感じませんか」
企業家が尋ねる。
「短期的には、魅力がありません」
正直に答えた。
「現時点では政府補助なしに成立しない。地球圏で投資した方が、同じ資本から大きな利益を得られるでしょう」
出席者の何人かが残念そうな顔をした。
ただし、と僕は続けた。
「木星資源が不要になるとは思いません。地球圏の人口とエネルギー需要が増えれば、いずれ必要になる。問題は、誰が最初の損失を負担し、長い時間を待つかです」
「未来の利益へ、先に金を渡す」
カーディアスが言った。フォン・ブラウンで、僕がカノーラへ話した投資の説明を覚えていたらしい。
「そうです」
「なら、君向きではないか」
「投資家にも資金の限界があります」
「十億ドル持っていて、よく言う」
「十億ドルしかありません。実家のお金を動かす権限を持っていないのです」
それこそ財団を動かば桁が1つは余裕で増えるよ。
食卓が静かになった。
なぜ皆、変な顔をするのだろう。
木星開発へ本格的に投資するなら、十億ドルなど大金ではない。船団建造、航路設備、生命維持、保険、教育、医療。必要な額は桁が違う。
「アズラエル様にしか言えない言葉ですな!」
ライオネルが大笑いした。
「十億ドルしかない! 私も一度言ってみたいものです!」
「軍人が言えば、横領を疑われますよ」
「それは困る!」
晩餐の場に笑いが広がった。
僕は木星開発について、もう少し詳しく尋ねた。
翌日、サイド1中央区で民間向けの木星資源開発説明会が開かれるという。政府関係者、船舶企業、資源会社、研究者が参加する予定だった。
「ご興味がおありなら、席をご用意します」
ライオネルが言う。
「お願いします」
「僕も行こう」
カーディアスが当然のように口を挟んだ。
「あなたは、明日ビスト財団関係者との面会があるのでは?」
「断る」
「勝手に断れば、随行員が困りますよ」
「困らせればいい」
カーディアスの随行員が、離れた席で頭を抱えていた。船の中と同じである。
「木星へ興味があるのですか」
「君が興味を持ったものに、僕も興味がある」
友人だからかな?
「投資案件としてだ」
「僕の言い方を使わないでください」
「便利な共通語なのだろう?」
自分の言葉を使われると、やはり腹が立つ。ライオネルは僕たちを見比べ、満足そうに頷いた。
「よい友情ですな!」
「いつから見ていたのですか」
「港へ到着した時から!」
まだ数時間しか経ってないよ。
「時間ではありません。軍人は、一瞬で信頼を築かなければならないこともある!」
僕たちは軍人ではないよ。
「未来の婿候補です!」
「その話は終わったでしょう!」
奥の席から、ライオネルの妻の声が飛んできた。少佐は素早く姿勢を正した。
「冗談です!」
見事な軍人の反応速度だった。