【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
晩餐が終わる頃には、僕の端末へ十七件の資料が送られていた。
コロニー外壁補修。空気循環設備。水再生。低重力農業。航路保険。軍用食料の民間転用宇宙船乗員向け医療。旧式居住区の再開発。
どれも検討する価値がある。
「現在、十八件です」
屋敷を出たところで、ハワードが言った。
「十七件では?」
「バジルール家の果樹を含めています。品種データが届きました」
仕事が早い。
カーディアスが端末を覗き込んだ。
「君は本当にサイド1を買うつもりなのか」
それはちょっとスケールが大きすぎるかな。
「月では街を買おうとしていると、メラニーに言われたのだろう?」
条件が異なるのだから、同じことはしないよ。
「では、違う方法で買う?」
「投資と支配を混同しないでください」
「君の場合、違いが分かりにくい」
失礼な。
僕はサイド1の夜空を見上げた。人工の夜が始まり、採光窓から入る光は弱められている。空には星を模した小さな照明が点っていた。
本物の宇宙は、外壁の向こうにある。
しかし、ここで生まれた人間にとっては、この人工の夜空が故郷の空なのだ。
「メラニー・ヒュー・カーバインは、どんな男だった」
カーディアスが不意に尋ねた。
突然、どしたん。
「晩餐中に名前が出た。アナハイムがサイド1の精密機器企業へ出資しようとしているらしい」
「有能な人ですよ。僕と同じくらいには」
「本人の前でも言ったのか」
「言っていません」
僕は、グラナダでの出会いを簡単に説明した。
精錬会社の買収。人員整理を前提とする再建案。事故現場での連携。共同出資。
そして、金に使われる怖さを教える万年筆。
カーディアスは黙って聞いていた。
「アナハイムの二代目は、現当主の
だろうね。妥当だからな。
「だが、その次を継ぐのはメラニーかもしれない」
僕はカーディアスを見た。なぜ、そう思うのか。
「あの男は、会社を所有する前に、会社が必要とする人間を押さえている」
「会ったことがあるのですか」
「一度だけ。祖父の会合で見た。誰より若いのに、会議が終わる頃には全員が彼へ相談していた」
カーディアスは、人を見る目がある。僕の能力は、企業や資本や人材が、どのように結びつけば利益を生むかを教えてくれる。
しかし、カーディアスはそれとは違う見方をしているらしい。
誰が権力を継ぐのか。
誰が他人から必要とされるのか。
誰が組織の中心へ立つのか。
財団という巨大な組織で育ったため、本人が望むかどうかとは関係なく、権力の流れを見ることへ慣れているのだろう。
「カーディアスも、財団当主に向いているのでは?」
「冗談でもやめろ」
僕は、人を見る目があるんだよ。
「それだけで当主になれるなら、苦労はしない」
「少なくとも、候補として期待されている理由は分かります」
カーディアスは嫌そうな顔をした。
「僕は不詳の次男だ。気楽なものだよ。候補といっても、それほど期待されていない。初代の祖父とは、一番仲がよいかもしれないがね」
「サイアム・ビスト氏と?」
「ああ。父や兄は、祖父を恐れている。僕は、老人の昔話を聞くのが嫌いではない」
どのような話を? 興味があるな。単純な好奇心だけど。
けど、カーディアスは、いずれ話すの一点張りだった。
「今は話せないの?」
「友人にも秘密はある」
カーディアスは笑った。
この時の僕は、彼をビスト財団の放蕩息子だと思っていた。
家の束縛を嫌い、随行員を困らせ、晩餐会から逃げ出し、財団当主になるつもりはないと言い張る若者。
繰り返しになるが、まさか、その男が二代目当主となり、巨大な財団の全権を握ることになるなど、預言者でもなければ分かるはずがない。
世の中は、本当に何が起こるか分からない。
そして彼が聞いたという祖父の『夢』の話。
もし、このとき『夢』について聞いていればもっと違った行動がとれたかも知れない。人間誰しもターニングポイントはある。これはその一つだったんだ。
「明日の木星開発説明会、楽しみですね」
僕が言うと、カーディアスは少し意外そうな顔をした。
「短期的には魅力がないと言っていたではないか」
魅力がないから、見に行くんだ。どういう意味だと、彼は尋ねる。
「誰も投資したがらない場所には、安く買える未来があります」
「結局、買うつもりなのだな」
さすがに、まだ決めてないよ。
「君がそう言う時は、もう半分決めている」
ハハハ。付き合って数日なのに、よく分かっている。僕たちはバジルール家が用意した宿泊施設へ向かった。
その夜、僕は木星開発に関する資料を読み続けた。
ヘリウム3。長距離輸送。閉鎖環境での生命維持。宇宙放射線。乗員の精神的負担。巨額の初期投資。長すぎる回収期間。
採算性は、悪い。
普通の投資家なら、資料を閉じる。
僕のチートも、短期的には別の案件へ投資した方がよいと告げていた。それでも、不思議と気になった。
木星は遠い。
人類が築いた経済圏の、さらに外側にある。地球圏の誰もが、いつか必要になると知っている。だが、自分が損をしてまで最初に行こうとはしない。
未来は欲しい。
しかし、未来の代金は誰かに払わせたい。それが、木星開発が進まない理由だった。
「面白いですね」
僕は誰もいない部屋で呟いた。
金がない。遠すぎる。時間がかかる。採算が合わない。
できない理由が、これほど並んでいる。
札束ビンタの相手として、これほど殴りがいのある現実も珍しい。
翌日、木星資源開発説明会の会場で、僕は一人の少年と出会うことになる。僕と同じ年齢でありながら、地球圏ではなく、遥か木星を見ていた少年。
誰も待つつもりのない未来を、自分一人でも取りに行こうとしていた、野心に満ちた少年。
ーーその名を、クラックス・ドゥガチという。
だが、この時の僕はまだ知らなかった。説明会の会場から聞こえてきた、
「採算が取れないんじゃない! あんたたちが、待てないだけだ!」
という怒鳴り声に、少しだけ期待を膨らませただけだった。