【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
木星資源開発説明会は、サイド1中央行政区にある古い国際会議場で開かれていた。
建物そのものは立派だった。吹き抜けの入口には木星を模した巨大な球体模型が吊り下げられ、その周囲を衛星群がゆっくりと回っている。
壁面には歴代の木星船団が掲げた旗と、過去の航路図が並び、遠い外惑星へ挑んできた人々の歴史を誇らしげに伝えていた。
しかし、会場へ足を踏み入れた瞬間、僕は外見ほど景気のよい催しではないと察した。集まっているのは政府関係者、造船会社、資源企業、研究者、航路運営者、保険会社であり、顔ぶれだけを見れば大事業が始まりそうである。
それなのに、参加者の表情には期待よりも義務感が強く、配布資料にも「可能性」「将来性」「人類的使命」といった言葉ばかりが目立つ。具体的な利益予測や投資回収期間へ進むと、途端に説明が曖昧になっていた。
僕のような投資家にとって、夢を語ること自体は悪くない。投資とは、まだ存在しない未来へ先に金を渡す行為である。
しかし、夢という言葉を、計算できないことを隠す布として使う者は信用できなかった。
夢が大きいほど、その実現に必要な金額、時間、人材、損失を厳密に見積もる必要がある。夢だから計算しなくてよいのではない。
夢だからこそ、途中で資金が尽き、関係者を路頭に迷わせない仕組みが必要なのだ。
「思っていたより、活気がありませんね」
僕が小声で言うと、隣を歩くカーディアスは会場を見回した。
「木星へ行きたい者より、木星へ行く者へ金を出させたい者の方が多いからだろう」
「正確ですね」
「君と何日も話していれば、この程度は分かる」
「僕の教育の成果ですか。誇りに思いますよ」
「友達になって数日で師匠面をするな」
カーディアスは呆れたように言った。僕たちの少し後ろでは、ハワードが説明会の参加企業一覧を確認し、ライオネル・バジルール少佐が顔見知りへ大声で挨拶している。
本来、ライオネルは軍務があるため、入口まで案内すれば帰る予定だった。
しかし、木星開発へ僕が関心を示したと知るや、自分も参加すると言い出した。
軍人として外惑星航路の安全保障へ関心があるという建前を口にしていたが、実際には僕がどこへ金を出すのか見届けたいのだろう。
「アズラエル様!」
ライオネルは、会場の反対側にいた木星開発局の役人へ手を振りながら僕へ話しかけた。
「本日は、ぜひ多くの方のお話をお聞きください! 皆、技術も情熱も持っております。足りないものは、資金だけです!」
「資金だけで済むなら簡単なのですが」
「おお、厳しい!」
「航路、保険、医療、人材育成、家族支援、現地の生活基盤も足りていません。船を飛ばすだけならできても、人間を送り続ける仕組みがありません」
昨日の夜、資料を読んだ限りでは、木星開発事業の最大の問題は距離そのものではなかった。
木星へ一度到達するだけなら、政府が予算をつけ、優秀な乗員を集めれば実現できる。
だが、航路を維持し、現地へ人間を定着させ、資源を継続的に地球圏へ運ぶには、数十年単位の事業が必要になる。派遣された者は長期間家族と離れ、事故や病気が起きても地球圏の医療を受けられない。帰還しても、長い不在によって職歴や人間関係を失うかもしれない。
地球圏の企業は、必要な時だけ人員を集め、採算が悪化すれば撤退する。残されるのは、木星へ人生を預けた人間たちだった。
「そのような状況へ、民間資本が入ると思いますかな」
「普通は入りません」
僕が断言すると、ライオネルが残念そうな顔をした。
だが、言葉の含みに気づいたらしい。
「普通は、ということは?」
「僕が普通かどうかは、ご存じでしょう」
「実に頼もしい!」
声が大きい。
周囲の人間が一斉にこちらを見た。ムルタ・アズラエルが木星開発へ投資するかもしれないという噂が、その場で広がっていくのを感じる。まだ一ドルも出すとは言っていない。
しかし、期待は先に市場を動かす。説明会の参加者たちの視線が変わり、何人かが端末を操作し始めた。おそらく、僕へ見せるための資料を急いで整えているのだろう。
投資家の発言には責任がある。
本人が何気なく口にした言葉でも、周囲は将来の資金移動を予測して動き始める。実際に投資しなければ、期待だけが膨らんだ企業が損失を被ることもある。
十二歳であろうと、十億ドルを、ゆくゆくは百億、千億ドルを動かす以上、その責任から逃げることはできなかった。
「バジルール少佐」
「何でしょう!」
「まだ投資すると決めていないことを、皆さんへ伝えてください」
「承知しました! アズラエル様は、まだ木星へ巨額投資を行うと決めたわけではない!」
会場全体へ聞こえる声で言った。
確かにこいつは巨額投資と言った。伝え方というものがあるだろう。
「これで誤解はありませんな!」
「別の誤解が生まれました」
カーディアスが肩を震わせて笑っている。僕は彼を睨んだが、本人は少しも反省していなかった。
説明会は、木星開発局長の挨拶から始まった。人類のエネルギー需要、核融合技術の発展、ヘリウム3の重要性、外惑星開発の歴史的使命。話の内容は間違っていない。
木星圏に存在する資源は、将来の地球圏にとって重要になる。人口が増え、コロニーが増え、宇宙船や産業設備が拡大すれば、エネルギー需要は必ず高まる。
問題は、その「将来」がいつ来るのか、誰も正確に答えられないことだった。
続いて造船会社が、新型木星往還船の構想を説明した。長期航行へ対応した居住区、放射線防護、回転式の人工重力区画、高効率推進機関。技術的には興味深い。
しかし、建造費は高く、試験船一隻だけでも小国の年間予算に近い。量産されれば費用は下がると説明されたが、最初の数隻を誰が買うのかは曖昧だった。
資源会社は、木星圏から運ばれるヘリウム3の需要予測を提示した。右肩上がりの美しいグラフだったが、核融合炉の普及予測を最大限楽観的に置き、輸送事故と価格下落の危険を小さく見積もっている。
保険会社は長距離航路向けの商品を紹介したが、保険料が高すぎて事業の利益をほとんど消してしまう。政府は補助金制度を説明したものの、予算は数年ごとの審査であり、政権が変われば打ち切られる可能性があった。
どの提案も、それぞれの範囲では間違っていない。
しかし、全体を引き受ける者がいない。
船を作る会社は、船を売った後の生活を考えない。
資源会社は、燃料を受け取ることしか考えない。
政府は、予算が続く期間しか責任を負わない。
保険会社は、危険を価格へ変えるが、危険そのものを減らす設備へ投資しない。
木星へ行く人間は必要だと言われるのに、その人間が何十年をどう生きるのかは、誰の事業計画にも十分に含まれていなかった。
僕の頭の中で、ばらばらの要素が動き始めた。
造船。資源購入。保険。生命維持。医療。教育。家族帯同。帰還後の雇用。航路警備。現地自治。
一つ一つでは利益が出にくい。しかし、すべてを結びつければどうなる。木星から資源が届いてから買うのではなく、出発前に長期購入契約を結ぶ。
将来の売上を担保に船を建造する。船の安全設備へ投資し、事故率を下げることで保険料を抑える。乗員だけでなく家族も移住できる居住設備を作れば、長期定着が進む。
医療と教育を現地へ整備し、帰還する者には地球圏での再就職を保証する。
木星で働く者へ事業の持分を与えれば、単なる派遣労働者ではなく、開拓事業の共同所有者になる。
金の流れが見えた。
現時点では利益率が低い。回収には長い時間がかかる。途中で何度も危機が起きるだろう。
それでも、人類が地球圏だけで発展し続けるなら、いずれ木星資源は必要になる。必要になる時期まで事業を生き残らせることができれば、先行投資した者は巨大な利益を得る。
問題は時間だった。
普通の投資家は、十年先を待てない。企業の経営者は任期中の利益を求められ、政府は次の選挙までの成果を求められる。
木星開発に必要なのは、二十年、三十年先の利益を信じて損失へ耐える資本である。
十二歳の僕には、時間があった。
前世では、金も時間もなかった。
だがは違う。手持ちは十億ドルしかないが、これから増やせばよい。
「顔が変わったな」
隣のカーディアスが囁いた。
何のことかな? 相変わらずこいつは察しがよいな。
「君が投資先を見つけた時の顔だ」
どんな顔だよ。
「獲物を見つけた肉食獣だ」
失礼だな。
「否定しないのか」
否定はしない。
ただし、まだ足りなかった。仕組みは組める。しかし、中心になる人間がいない。政府の役人では政権交代に耐えられない。
地球圏の企業家では木星へ人生を預けない。
木星へ実際に渡り、現地で組織を作り、何十年も事業を続ける人間が必要だった。