【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
その時、会場の後方から声が上がった。
「採算が取れないんじゃない! あんたたちが待てないだけだ!」
昨日、聞いた声だった。
会場中の視線が、後方の通路へ集まった。
一人の少年が立っている。
年齢は僕と同じくらいだろう。背丈も大きく変わらない。着ている服は古く、袖口には機械油の染みが残っていた。髪は整えられておらず、手には紙の資料を束ねたものを抱えている。周囲には随行員も護衛もいない。高価な端末すら持っていないようだった。
係員が少年を座らせようとする。
「質問は質疑応答の時間にお願いします」
「昨日も質問させなかっただろう!」
「参加資格のない方を入場させただけでも――」
「参加資格がある奴らが、何年同じ話をしている! 船が高い。遠すぎる。危険だ。だから来年考える。次の年も同じだ! あんたたちが考えている間に、木星へ行ける時間がなくなる!」
少年の声には、子供が注目を集めようとする軽さがなかった。本気で怒っている。笑われることも、追い出されることも覚悟した上で、自分の言葉を届かせようとしていた。
「警備を」
主催者の一人が言った。会場の警備員が動き出す。
「待ってください」
僕は立ち上がった。一斉に視線が集まった。
「彼の話を聞きましょう」
主催者は困ったように僕を見た。
「しかし、アズラエル様。この少年は正式な参加者ではありません。昨日から会場周辺で騒ぎを起こしており――」
「僕も少年です」
「あなたは……その、事情が違います」
「年齢ではなく、資産額が参加資格なのですか」
相手は答えに詰まった。
少年が僕を睨んでいる。
「金持ちの坊ちゃんに助けられるつもりはないぞ」
「助けるとは言っていません。話を聞くと言っただけです」
「同じだ」
「全く違います。話に価値がなければ、途中で切ります」
少年の目が細くなった。
「偉そうな奴だな」
「よく言われます」
「ムルタ。君は初対面の人間から嫌われる才能があるな」
カーディアスが余計なことを言った。
「カーディアスは黙っていてください」
少年は僕たちを見比べ、露骨に怪訝な顔をした。
「何なんだ、お前ら」
「その説明は後にしましょう。木星について話してください」
僕が促すと、少年は手にしていた資料を掲げた。
「ここにいる連中は、木星開発を資源採掘の話だと思っている。だから、燃料の値段が下がれば終わりだ。政府の補助金が切れれば終わりだ。木星へ人を送って、資源を取って、地球へ戻す。それしか考えていない」
少年は会場の前へ歩き出した。警備員は主催者の顔を見たが、僕が聞く姿勢を示しているため動けない。
ライオネルは面白そうに腕を組み、ハワードは少年の資料を撮影して内容を確認していた。
「木星へ必要なのは、採掘基地じゃない。街だ。人が住み、働き、子供を育て、年を取る場所だ。地球から送られた作業員が、仕事を終えたら帰るだけじゃ駄目だ。
住む人間がいなければ、いつまでも地球の都合で閉じられる。自分たちで食料を作り、水を再生し、船を直し、次の船を作れるようにならなければ、木星は永遠に地球の荷物置き場だ」
僕がグラナダで考えたこととよく似ていた。
宇宙へ渡った者は、労働力ではない。そこで暮らす人間である。
「市場がないと言う奴がいる。人が住めば市場になる。学校が必要になる。病院が必要になる。船が必要になる。工場が必要になる。最初は金がかかる。
だが、何もないからこそ、全部作る必要があるんだ。作るものが多いなら、それだけ仕事も利益もあるだろう!」
計算は粗い。
木星圏の過酷さを、十分理解しているとは言えない。放射線、重力、航路事故、閉鎖環境での精神的負担。都市を作れば市場になるという話も、需要が生まれるまでの損失を無視している。
しかし、方向は正しかった。
少年は、木星を資源採掘場として見ていない。
人間の社会を作る場所として見ている。
「名前は?」
僕が尋ねた。
少年は一瞬、警戒するように黙った。
「ドゥガチ。クラックス・ドゥガチだ」
一見大胆不敵に振る舞っている。けれども、目の前にいるのは、僕と同じ年頃の少年だった。
資料を握る手は震えている。大勢の大人を前に声を張り上げているが、怖くないはずがない。
それでも、木星の可能性を笑われることの方が、恐怖より我慢ならないのだろう。
「クラックス。資料を見せてください」
僕が言うと、彼は資料を胸元へ引き寄せた。
「坊ちゃんの見世物になるつもりはない」
「僕は見世物へ金を出しません」
「金の話しかできないのか」
「夢だけで船を飛ばせるなら、僕は必要ありません」
クラックスは僕を睨んだ。
「木星へ行くのに、いくら必要だと思っています」
「最初の船へ乗るだけなら――」
「あなた一人だけ行って、何をするのです。街を作るのでしょう。船団、生命維持設備、食料、医療、通信、採掘設備、整備工場。家族を連れていくなら学校と住居も必要です。
十年利益が出なくても、給料と補給を止めない資金が要る。事故が起きた時の予備船も必要になる」
クラックスの顔から、怒りが少しずつ消えていった。
代わりに、僕がどこまで考えているのか測るような目になる。
「分かっているなら、どうして誰もやらない」
「儲かるまで時間がかかるからです」
「それだけか」
「十分な理由です。投資家は慈善家ではありません。十年後に二倍になる事業より、三年後に二倍になる事業を選ぶ。企業経営者は、自分の任期中に成果が出る案件を選びます。政治家は、次の選挙までに完成する施設を作る。
木星は、今の人間にとって遠すぎるのではない。今の制度にとって、時間がかかりすぎるんです」
クラックスは資料を握り締めた。
「なら、待てる奴が金を出せばいい」
そのとおり、と僕は答えた。
「僕は十二歳です。三十年待っても、まだ四十二歳です」
前世の年齢を加えれば七十二歳だが、そこは計算へ入れない。
会場が静まり返っている。
ライオネルが口笛を吹きそうな顔をし、ハワードがわずかに眉を動かした。僕が本気で木星開発を検討し始めたと理解したのだろう。
「それで、いくら出せる」
クラックスが尋ねた。
遠慮がない。嫌いではない。
それはお前次第だよ。
「俺?」
「金は出せます。企業も集められる。長期購入契約も作れる。しかし、僕は木星へ住めません。現地で事業をまとめる人間が必要です」
「俺がやる」
「十二歳ですよ」
「お前もだろう」
「僕は大学を卒業しています」
「だから何だ。俺は木星の資料なら、そこにいる大人より読んでいる」
実際、資料には細かな書き込みがあった。航路、船体構造、食料消費、乗員数、補給周期。計算には間違いもあるが、独学で調べた量は尋常ではない。
なぜ木星なのか、と僕は尋ねた。
「金持ちになりたいからですか」
「違う」
「有名になりたい?」
「それだけでもない」
クラックスは少し考えた。
「でかい組織の頭になりたい」
正直だった。会場の大人たちがざわめく。
普通なら、権力欲の強い危険な子供と評価されるだろう。だが、僕は嫌悪を覚えなかった。
なぜそうなりたいのか問うてみる。
「命令される側は、いつも最後に知らされるからだ。仕事がなくなることも、補助金が切れることも、船が出ないことも。
上で決めた奴は困らない。困るのは、そいつらの決定を知らされるだけの人間だ。だったら、俺が決める側へ行く」
彼の家族に、何かあったのかもしれない。
地球圏の政策変更によって仕事を失った。あるいは、木星開発事業へ参加するはずだった身近な者が、予算削減で切り捨てられた。
クラックスは詳しく語らなかったが、その野心が単なる目立ちたがりから生まれたものではないことは分かった。
「木星へ大きな組織を作り、そのトップになる」
「ああ」
「木星の人間に必要とされたい?」
クラックスの目が揺れた。
「悪いか」
「いいえ。理解できます」
前世の僕も、誰かに必要とされたかった。
会社では代わりの利く労働者だった。母にとっては息子だったが、母を救う力はなかった。金も、地位も、選択肢もなかった。
だから今世では、世界一の金持ちになる。
金がなければ何もできないと言われる現実を、札束で殴り返す。
「僕は世界一の金持ちになります」
クラックスが眉を寄せた。
「急に何だ」
「自分の望みを話したので、僕も話しただけです」
「世界一になって、何をする」
「金がないからできないと言う人間の前へ、金を積みます」
はあ?、と目が点になるクラッススが可笑しかった。カーディアスなんて隣でゲラゲラ笑っている。
「金がないから研究できない。金がないから治療できない。金がないから安全設備を作れない。そんな現実を、札束で殴るんです」
クラックスはしばらく黙った。
アーサーは笑った。
ロベルは腹を立てた。
カノーラは少し困った顔をした。
メラニーは危険な思想だと見抜いた。
カーディアスは好奇心に目を光らせた。
しばらくあと、クラックスは、真剣な顔で頷いた。
「分かる」
初めてだった。本当に分かるのか?
「金がないと言う奴の口へ、金を突っ込んで黙らせるんだろう?」
「少し表現に品がありません」
「札束で殴るのに、品も何もあるか」
それもそうだった。
「素晴らしい」
僕は思わず言った。
「初めて一度で理解してくれる人に会いました」
「そんなに難しい話か?」
「なぜか周囲には不評です」
隣で聞いていたカーディアスが、深いため息をついた。
「君たちは出会わせてはいけない二人だったのではないか」
クラッススが初めて気づいたように、何だこいつ、と見つめる。
「カーディアス・ビストです。僕の友人らしいです」
「らしいとは何だ」
「本人が勝手に決めました」
「名前を呼んだから友達になった」
カーディアスが当然のように言う。
クラックスは僕たちを交互に見た。
「金持ちって、全員こんなに意味が分からないのか?」
「彼と一緒にしないでください」
「こいつと一緒にするな」
僕とカーディアスの声が重なった。
「同じじゃねえか」
失礼な少年である。