【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
説明会は、事実上そこで中断された。
木星開発局の役人と参加企業の代表者たちは、僕がクラックスの資料を読むための小会議室を用意した。正式な予定にはなかったが、十億ドルの投資家が木星開発へ本格的な関心を示した以上、誰も止めようとはしなかった。
会議室の中央には大きな卓があり、僕、クラックス、カーディアス、ハワード、ライオネル、それに木星開発局と造船会社の担当者が座った。
クラックスの資料は、想像以上に具体的だった。
最初の船団へ必要な人数。居住設備。食料生産区画。水再生。採掘設備。輸送船。木星圏の衛星を利用する候補地。
少年一人が作ったものとしては驚異的である。もっとも、数字には楽観的な部分が多く、放射線防護費用は不足し、医療と教育の項目はほとんどない。家族を連れていくと言いながら、出産や子供の成長に必要な環境を十分考えていなかった。
「このままでは、最初の数年で破綻します」
僕が言うと、クラックスは顔を強張らせた。
「どこがだ」
「ほぼ全部です」
「喧嘩を売っているのか」
「買う価値がない喧嘩はしません」
僕は資料へ修正を加えていった。
「船団規模が小さすぎます。一隻が故障すれば、全員が帰還不能になる。最低でも複数船による相互救援体制が必要です。食料生産設備も不足しています。地球圏からの補給が半年遅れただけで、配給制になるでしょう。
医療設備へ出産対応がない。家族を定着させるなら、妊娠、出産、小児医療まで必要です。学校もありません」
「最初から全部は作れない」
「だから段階的に作ります。ただし、後から追加する予定では足りません。最初の設計段階で拡張できるようにしておかなければ、作り直しになります」
ハワードが僕の指示を整理し、必要な企業候補を一覧へ加えていく。
閉鎖型農業はフォン・ブラウンで調査した企業が使える。水再生設備は、すでに投資先候補がある。放射線医療は月面の研究機関と連携できる。
ロベルの掘削技術は、木星圏の衛星開発へ転用可能だ。航路保険は既存の保険会社だけでは高くなるため、船体の稼働情報を直接取得し、事故率を下げる仕組みと一体化する必要がある。
フォン・ブラウン、グラナダ、サイド1で拾い上げた技術と企業が、木星という巨大な目的へ向けて結びついていく。
僕の頭の中で、事業全体の形が組み上がった。
「資源会社には、木星から燃料が届く前に購入契約を結ばせます」
木星開発局の担当者が驚いた。
「まだ採掘量も決まっていません」
「最低購入量と価格帯を事前に決める。資源価格が下落した場合の損失は、地球圏側と木星側で分けます。反対に価格が高騰した場合も、一方的に地球圏へ売らせない。長期契約によって将来の売上を確保し、それを担保に船を建造するんです」
クラックスが身を乗り出した。
「まだ採れていない燃料を買うのか」
「採れると信じて先に金を渡すのが投資です」
「失敗したら?」
そら僕たちが損をするだけさ。投資家だからな。
「木星へ行った人間の借金にしないのか」
「しません。事業上の失敗を労働者個人へ負わせるなら、資本家は何のためにいるのです」
ロベルとの契約で口にしたのと同じ言葉だった。
失敗の危険を引き受けるのが資本家の役目である。
成功した時に利益を得る以上、失敗した時だけ現場へ責任を押しつけることは許されない。
「ただし、詐欺や契約違反は別です」
「俺を疑っているのか」
「全員を疑っています。僕自身も含めて」
クラックスは訝しげな顔をした。
自分を疑うとはどういうことか聞いてくる。こいつは自分を疑うとかしそうにないしな。
「今の僕が善人でも、二十年後も同じとは限りません。あなたもです」
「俺は木星を裏切らない」
「今はそうでしょう。しかし、巨大な組織のトップになれば、あなたの判断一つで何万人もの生活が変わる。自分が常に正しいと考える人間へ、すべての権力を与えることはできません」
クラックスの表情が険しくなった。
「俺が作るのに、俺が自由に決められないのか」
「僕が金を出しても、僕一人では決められません」
「馬鹿じゃないのか」
「権力を持つ者は、自分が馬鹿になった時に備える必要があります」
グラナダで学んだことだった。
利益を求めること自体が悪いのではない。権力を持つこと自体も悪ではない。問題は、意思決定から危険を負う者の声が消え、決める側が痛みを感じなくなることにある。
「木星側の事業組織には、現地で働く者の代表を入れます。水、空気、医療、居住区の料金は、経営者が自由に値上げできないよう上限を設ける。生命維持設備を止める権限は、誰にも単独では与えません。
木星圏で生まれた子供にも教育を保障する。事業を撤退する場合、地球圏企業には十分な移行期間と補償を義務づけます」
「それでは、利益が減ります!」
資源会社の担当者が驚いて言った。
「減ります」
僕は認めた。
「しかし、木星側が地球圏を信用できなければ、長期契約は成立しません。人を送り、街を作らせ、利益が出たところで条件を変えれば、いずれ木星は地球を敵だと考える。
木星資源を何十年も安定して受け取りたいなら、最初から対等な利益を与えるべきです」
クラックスが僕を見ていた。
先ほどまでの警戒とは違う目だった。
「お前は、木星を自分のものにしたいんじゃないのか」
「植民地が欲しいわけではありません」
投資先なら欲しいのか、という問いに、当然ですとだけ答えた。
だが、彼には同じに聞こえるらしい。違うんだなこれが。
「全く違います。植民地からは奪います。投資先には豊かになってもらわなければ困ります」
カーディアスが口元を歪めた。
「ムルタの場合、投資先の方が植民地より逃げにくいかもしれないな」
こいつも余計なことを言わないでくれよ。
何が違うのかと少年は困惑しているじゃないか。
「利益が出ている関係から、わざわざ逃げる必要はないでしょう」
「そういうところだ」
どういうところだ、カーディアス。
僕には分からなかったが、クラックスは声を立てて笑った。
「いいな。木星を豊かにすれば、お前も儲かる。お前が儲け続けたいなら、木星を見捨てられない」
そのとおりだよ。やっと分かってくれたかな?
「慈善家より信用できる」
分かっているじゃないか。それが投資家よ。
「当然だ。金がないからできないと言う奴は、金を積めば黙るんだろう?」
「僕たちは相性がよいかもしれません」
「それは認める」
クラッススはなかなか話の分かる奴だった。
カーディアスだけが、少し複雑そうな顔をしていた。
交渉は、その日の夕方まで続いた。
もちろん、正式な契約が一日で成立するわけではない。木星開発局、政府、造船会社、資源会社、保険会社、医療機関。関係者は多く、法的な整理も必要になる。
僕一人の十億ドルですべてを賄えるはずもなく、複数の投資家を集め、政府保証と長期購入契約を組み合わせなければならない。
それでも、事業の骨格はできた。
単なる木星資源採掘計画ではない。
木星圏に恒久的な生活と産業を作る、長期開拓計画である。
最初の十年は、利益より基盤整備を優先する。地球圏から送る物資は援助ではなく出資として扱い、現地で働く者へも事業持分を与える。木星側が生み出した利益の一部は、地球圏へ配当する前に現地の医療、教育、船舶建造へ再投資する。地球圏企業は資源を得る。
木星側は産業と自治を得る。そして僕は、将来の巨大市場へ最初から関与する権利を得る。
利益が出るまで時間はかかる。
だが、利益は出る。
僕の能力は、そう告げていた。
人類が宇宙で繁栄する限り、エネルギーと外惑星資源の需要は増える。木星開発を一時的な国家事業ではなく、利益によって続く産業へ変えることができれば、その価値は十億ドルどころではない。
唯一の問題は、中心人物だった。
「クラックス」
「何だ」
「あなたへ投資します」
少年は、すぐには喜ばなかった。
俺個人へか、と鋭い返しをしてくる。
「正確には、あなたが中心となって作る木星開拓組織へ。ただし、最初から代表にはできません」
なぜだと言われてもな。
「クラッススが十二歳だからです」
「お前が言うな」
僕は例外だよ。悪いね。
「自分で言うのか」
「結果を出していますので」
クラックスは机を叩きそうな顔をした。
「最初は研修を受けてもらいます。航法、機関、生命維持、経営、会計、法律。木星へ行くだけなら熱意で足りますが、組織のトップになるなら、知らないでは済みません」
「今さら学校へ行けというのか」
「木星へ行くためです」
彼は明らかに嫌そうだった。
勉強は嫌いなのかな。木星関連のリサーチは大したものだったが。期待外れかな。
「いや、必要ならやる。ただ、地球で何年も無駄にしたくない」
「無駄にはしません。木星航路の船へ実習生として乗せます。学びながら往復し、現地の状況を確認する。その間に、あなたの提案を実行可能な計画へ作り変えてください」
何年かかるのか、とクラッススはげんなりしていた。
「最初の基盤を作るまで十年」
「長い。長すぎないか?」
「木星へ社会を作るのでしょう。十年で始められるなら早い方です」
クラックスは黙った。
十二歳にとって十年は、人生の大半に近い。僕には前世の記憶があるため、十年を待つ感覚を知っている。
しかし彼は違う。今すぐ木星へ行きたい。今すぐ自分の力を証明したい。その焦りは理解できた。
「ただし、最初の船へ乗る機会は、もっと早く作ります」
クラックスの顔が上がった。本当なのかと目が輝く。
「船会社と交渉します。乗員候補として必要な訓練を終えれば、実地調査へ参加できるようにする」
約束できるのか、とせっつく。気の早い奴。
「契約書へ書ける範囲なら」
なら書け、と即座に促してきた。
「まだ僕の条件をすべて聞いていませんよ」
「何だ」
「地球と仲良くすることです」
会議室が静かになった。
クラックスの表情から、喜びが消える。
「木星は地球の言いなりになれというのか」
「反対です。対等になってください」
思案顔だ。
「木星の利益を守ることと、地球を憎むことを混同しないでください」
地球圏から遠く離れ、援助も理解も得られない年月が、人間の心を歪める可能性は想像できた。
人は、見捨てられたと思えば、見捨てた相手を憎む。
だから見捨てない。
物資を送る。手紙を送る。利益を分ける。
木星が地球圏に必要とされ、地球圏も木星から利益を得る関係を作る。
友情だけでは足りない。
契約だけでも足りない。
両方が必要だった。
「僕は木星へ物資を送り続けます」
儲かる限りだな、とクラッススは断言するが違う。
「儲からない時期もです。ただし、永久に無条件ではありません。木星側も事業を続ける努力をしてください」
「当然だ」
「木星の人間を、あなたの所有物だと思わない」
クラックスの眉が動いた。
「思うわけないだろう」
「なら、契約書に書いても問題ありませんね」
「性格が悪いな、お前」
よく言われます、と返すとクラックスは長く息を吐いた。
「分かった。地球と木星の両方を豊かにする。それでいいんだろう」
「ええ」
「ただし、木星を地球の下には置かない」
「望むところです。投資先がいつまでも弱いままでは、利益が増えません」
クラックスは右手を差し出した。
小さな手だった。僕と同じ、十二歳の手である。
しかし、その手はいつか木星圏を築き上げるのだろう。そんな気がした。
僕は握り返した。
「クラックス・ドゥガチ」
「何だ」
「名前を呼んだので、友達ですね」
はあ、とクラックスは困惑して手を握ったまま固まった。
カーディアスが隣から頷く。
「そういう決まりらしい」
「誰が決めたんだそれ」
宇宙の慣習です、と僕は胸を張って応じた。
「聞いたことねえぞ」
まあ、僕も最初はそう思ったけど。
カーディアスが笑いっぱなしである。
「お前ら、俺をからかっているのか?」
「いいえ。友達になったので、投資審査を少し厳しくします」
「普通は甘くするんじゃないのか」
「友人の失敗は、僕の評判にも関わります」
やっぱり意味が分からねえ、とクラックスは呆れた顔をした。
それでも、握った手をすぐには離さなかった。
僕たち三人が本当の意味で仲間になるのは、もう少し先のことである。
この時はまだ、名前を呼び合っただけの、奇妙な友人関係にすぎなかった。
世界一の金持ちを目指す少年。
巨大財団から逃れようとする青年。
木星で巨大な組織の頂点を目指す少年。
望みも、家も、歩む道も違っていた。
それでも、僕たちは同じ方向を見始めていた。
人類が地球だけへ閉じこもらず、宇宙へ広がり、誰もが自分の未来を選べる時代。
まだ言葉にはしていなかったが、後に僕たちが「人類の黄金時代」と呼ぶことになる未来を。
やがてカーディアスは、望んでもいなかった巨大財団の当主となる。
クラックスは、誰も街を作れるとは思わなかった木星圏に、巨大な社会を築く。
僕は、世界一の金持ちを目指し、地球と宇宙の間へ無数の企業と制度を張り巡らせていく。
三人は別々の場所に立ちながら、手紙と通信と資本によって互いを支え続けることになる。
カーディアスが突然背負わされた財団の重みに潰れそうになった時、僕とクラックスが支えた。
クラックスが木星で補給不足と事故に苦しんだ時、僕たちは物資と人材を送り続けた。
僕が誰にも説明できない未来を恐れ、狂ったように金と軍備を集め始めた時、最後まで話を聞いてくれたのも二人だった。
しかし、その誓いも、三人で目指すことになる大きすぎる夢も、この時はまだ形を持っていない。
僕たちはただ、名前を呼び合っただけだった。
船がサイド1の出来事を振り返る。
人類が最初に宇宙へ築いた社会。
地球を模して空と大地を作り、その中で新しい世代を育てている場所。
僕はサイド1で、二つの未来を見た。
一つは、古い家と社会を受け継ぎ、その意味を探そうとするカーディアスの未来。
もう一つは、誰も住めないと言われた木星へ、自分の社会を作ろうとするクラックスの未来。
僕は二人へ選択肢を与えたつもりだった。
しかし、選択肢を与えることと、その先に生まれるすべての結果へ責任を持つことは同じではない。
そのことを、当時の僕はまだ十分に理解していなかった。
それでも一つだけ、確信していた。
金と技術と人間を正しく結びつければ、地球と木星の両方が豊かになれる。
利益と友情は、両立できる。
少なくとも僕は、そう信じた。
時間はある。金も、これから増やせる。友人もできた。きっと、何とかできる。
その確信が希望だったのか、チートの全能感に酔った傲慢だったのか。
答えを知るのは、もう少し先のことである。