【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
クラックスとの交渉を終え、会議室を出た時には、サイド1の人工の夕方が始まっていた。
採光窓から差し込む光は昼間よりも弱められ、赤みを帯びてコロニー内部の街並みを照らしている。地球の夕焼けを再現したものだろう。空の向こう側にある逆さまの街も、こちらと同じ色に染まり、遠くを走る車両の照明が小さな星のように瞬いていた。
本物の太陽が沈んでいるわけではない。
決められた時刻に反射鏡の角度を変え、光量を調整し、人間の生活に合わせて朝と昼と夕方を作っている。それでも、道を歩く人々は仕事を終え、商店は夜の客を迎える準備を始め、子供たちは家へ帰っていく。
人工の夕暮れであっても、そこに暮らす者にとっては本物の一日の終わりだった。
「本当に、あの少年へ金を出すのか」
隣を歩いていたカーディアスが尋ねた。
「出します」
僕は即答した。
木星開発計画については、これから政府や企業、研究機関との調整が必要になる。今日の話し合いだけで具体的な金額まで決めたわけではない。造船費、航路整備、生命維持設備、保険、医療、教育。必要な資本は大きく、僕一人の資産で全てを負担することはできなかった。
それでも、クラックス・ドゥガチという少年へ投資することだけは決めていた。
「能力はあると思う」
「でしょう?」
「だが、危うい」
カーディアスの断言に、僕は足を止めた。
彼もも数歩先で立ち止まり、振り返る。夕方の光が彼の横顔を赤く染めていた。
どこがなん?
「彼は木星を豊かにしたい。それは本心だろう。地球圏の都合で開発が止まり、現地へ向かう人間が振り回される状況を変えたいと思っている。それ自体は悪くない」
では、何が問題なの?
「それだけではないからだ」
カーディアスは窓の外へ視線を戻した。
「彼は、自分を必要とする世界が欲しいんだ」
「必要とされたいと思うことは、悪いことではありません」
「悪くない。誰だって、誰かに必要とされたいと思う。しかし、人間は必要とされ続けるためなら、相手を弱いままにしておくことがある」
すぐには意味が分からなかった。
「自分がいなければ生きられない組織は、自分を裏切らない。そう考えるようになれば、組織を強くするより、自分への依存を強くする方を選ぶかもしれない。部下へ知識を与えず、自分だけが判断できるようにする。
後継者を育てず、自分がいなければ全てが止まる仕組みを作る。本人は組織を守っているつもりでも、実際には自分の地位を守っているだけだ」
「随分と厳しく見ますね」
「ビスト家で、似た人間を見てきた」
カーディアスは淡々と言った。
財団には、莫大な資産と政治的な影響力がある。それだけ大きな組織なら、財団全体の利益より、自分の権限や立場を守ることを優先する者もいるのだろう。
誰かを救うために始めた制度が、制度を管理する者の権力を守る道具に変わる。
企業でも、政府でも、慈善団体でも起こり得ることだった。
「だから、制度で縛ります」
「制度だけで止められるか?」
「止められないかもしれません」
僕は認めた。
契約書に書けば、全てが守られるわけではない。法律があっても犯罪は起こる。監査制度があっても不正は隠される。権力を分散したつもりでも、実際には一人の人間へ影響力が集まることもある。
しかし、制度が無意味だからといって、何も作らなくてよいわけではない。
「何もしないよりはましです。クラックス一人に水や空気を止める権限は与えない。現地の労働者や住民が経営へ参加できる仕組みも作る。
僕も、地球圏の企業も、木星側へ一方的に条件を押しつけられないようにします」
「それでも、彼自身が変わる可能性は残る」
「人間は変わります。クラックスだけではありません。カーディアスも、僕もです」
「君も?」
「今の僕が正しい判断をしているからといって、二十年後も同じとは限りません。だから、自分の権力も制限します」
グラナダで事故が起きるまで、僕は自分の投資先で安全情報が握り潰されていることを知らなかった。
僕が事故を望んでいなくても、僕が利益を求めて作った評価制度が、現場へ無理をさせる可能性はある。善意があれば安全になるのではない。経営者が善人でも、数字の作り方を誤れば、人間を危険へ追い込むことがある。
だから、自分を信用しすぎてはならない。
「それに、クラックスを木星で孤立させません」
「どうするつもりだ」
「物資を送ります。人材も送る。木星から得られる資源には、地球圏で正当な価格をつける。木星側の利益を、地球側が一方的に奪えないようにする。
地球圏との契約が続き、互いに利益を得られるなら、クラックスが一人で全てを背負う必要もありません」
「友情で支えるのか」
いえ、利益で支えるのだよ。これぞ札束ビンタなのだから。
カーディアスが僕を見た。
「両方だろう」
「利益です」
「君は何でも利益へ逃げるな」
また言われた。
僕は利益へ逃げているつもりはない。利益は事業を続ける理由であり、善意が消えた後も人を動かす力になる。
木星への支援を友情だけに頼れば、僕とクラックスが仲違いした時に終わる。僕が死んだ後、次の経営者が木星へ興味を失えば終わる。
地球と木星が互いに利益を得ていれば、僕たち個人の感情が変わっても関係は続く。
「それなら、そういうことにしておきます」
カーディアスは、どこかで聞いたような言い方をした。
カノーラも、カリダも、僕が利益を理由に何かをした時、同じように微笑んでいた。僕の説明を否定はしない。しかし、それだけではないと勝手に決めてしまう。
まったく、人の話を聞かない者ばかりである。
「ただし、覚えておけ」
カーディアスは再び歩き始めた。
「君はクラックスへ、木星行きの船を与えたのではない」
「では、何を与えたのです?」
「自分の世界を作れるという確信だ」
僕は、その言葉を考えた。
誰も投資しない。
誰も待とうとしない。
採算が悪い。距離が遠い。危険が大きい。
大人たちができない理由を並べる中で、クラックスだけが、自分なら木星へ社会を作れると主張した。
僕は、その少年へ資金と企業と訓練の機会を与える。
彼の夢が、ただの空想ではないと証明する。
それこそ投資の役割だった。
「投資家冥利に尽きますね」
僕が答えると、カーディアスは何も言わなかった。
彼は、僕とは違うものを見ているのかもしれない。
僕は企業や金の流れを見る。何と何を結びつければ価値が生まれ、どこへ資本を置けば利益が増えるかを考える。
カーディアスは、人間が権力を持った時に何をするかを見ている。
どちらが正しいという話ではないのだろう。
クラックスには野心がある。大きな組織の頂点に立ちたいと、本人がはっきり口にした。その野心が木星を豊かにする力になる可能性もあれば、自分の地位を守るための力へ変わる可能性もある。
しかし、その危険を理由に少年の可能性を潰すことはできない。
将来、悪人になるかもしれない。
権力を誤って使うかもしれない。
そんな理由で今の夢を奪い始めれば、誰にも投資できなくなる。
僕は未来を知っているわけではない。
だから、目の前の彼を見て判断するしかない。
怒りっぽく、口が悪く、自信過剰で、大きな組織の頂点に立ちたがる少年。
同時に、地球圏の誰よりも木星を調べ、そこで働く者を使い捨ての労働力ではなく、一つの社会の住民として考えていた少年。
僕はクラックスを監視するのではなく、支えることを選んだ。
支えながら、間違えた時には止める。
僕が間違えた時には、彼にも止めてもらう。
友人とは、きっとそういうものなのだろう。