【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
サイド1を離れる日、ライオネルは家族とともに港まで見送りに来た。
「アズラエル様! サイド1への投資、期待しておりますぞ!」
到着した時と変わらない大声が、出発客で混み合う港湾区画へ響いた。周囲の人々が、何事かとこちらを振り返る。
「まだ十八件を検討しているだけです」
「十八件も!」
「すべて実行するとは限りません」
「一件でも十分です! 検討していただけるだけで、我々にとっては大きな前進です!」
相変わらず前向きだった。
実際、サイド1には魅力的な投資先が多い。
コロニー外壁の補修、空気循環設備、水再生施設、低重力農業、航路保険、旧式居住区の再開発。人類最初のコロニー群であるがゆえに、産業と文化は成熟している。その一方で、設備の老朽化はほかのサイドより早く進んでいた。
壊れた設備を修理するだけでは、大きな利益にならない。
しかし、故障する前に更新することで事故と停止時間を減らし、その効果を保険料や稼働率の改善として数字へ示すことができれば、維持管理そのものを事業へ変えられる。
サイド1で仕組みを作れば、いずれ老朽化を迎えるほかのコロニーにも展開できる。
古いということは、失敗しているという意味ではない。
ほかの地域より先に、未来の問題へ直面しているという意味でもある。
「それから、我が家の将来の娘についても――」
「その話は忘れてください」
「残念!」
「そもそも男児かもしれませんよ」
「その時は、よき友人として!」
どうしても僕と縁を結びたいらしい。
ライオネルの妻は、少し離れた場所で申し訳なさそうに頭を下げた。夫の暴走を止めることは、すでに諦めているようだった。
彼女の腹部は、サイド1へ到着した時と変わらず、衣服の上からわずかに膨らんで見えた。
この時、彼女の腹の中にいた子供が、後にナタル・バジルールと名づけられる。
父親から僕の話を繰り返し聞かされ、幼い頃からムルタ・アズラエルという人間を知ることになる少女である。
ライオネルは、きっと娘が言葉を理解する前から、十二歳で十億ドルを稼いだ少年の話を聞かせるのだろう。
月面で技術へ投資したこと。
グラナダで事故現場へ飛び込み、作業員を救うために金と企業を動かしたこと。
サイド1で十八件もの投資案件を見つけたこと。
そして、まだ生まれてもいない娘を嫁候補として勧めたところ、即座に断られたことまで。
最後の話だけは、伝えないでもらいたい。
だが、それはまだ先の話である。
この時の僕にとって、ナタル・バジルールは、ライオネルの悪趣味な縁談攻勢へ勝手に巻き込まれた、まだ顔も名前もない赤ん坊にすぎなかった。
「次はどちらへ向かわれるのですかな?」
ライオネルが尋ねた。
「サイド5です」
「ルウムですか」
彼の笑顔が、ほんのわずかに曇った。
「何か問題が?」
「問題というほどではありません。あそこは豊かな地域です。物流も金融も発達している。成功した企業も多く、地球圏でも有数の繁栄したコロニー群と言ってよいでしょう」
「それなら、なぜそのような顔を?」
「富が集まる場所には、富からこぼれ落ちる者も集まるからです」
繁栄しているのに、貧しい人間が多い。
前世では、珍しいことではなかった。
高層ビルの足元で、日雇い労働者が明日の仕事を待っていた。高級車が走る道路の脇で、子供の食費を心配する親がいた。街全体には金があっても、その流れへ入れない人間には、一円も届かない。
金がない場所だけが貧しいのではない。
金が大量に流れているのに、その流れから排除された人間が暮らす場所ほど、格差は鮮明に見える。
豊かな社会では、貧しさが本人の責任だと思われやすい。
周囲には金がある。
仕事もある。
成功している者もいる。
それなのに貧しいのなら、努力が足りないのだと決めつけられる。
前世の僕も、何度も同じ目で見られた。
学校へ通えなかったのは努力不足。
金がないのは能力不足。
疲れて働けなくなるのは根性不足。
本人がどのような家庭に生まれ、何を失い、どの道を閉ざされたのかは見てもらえない。ただ、今持っている金額だけで人間の価値まで測られた。
富が存在する社会で貧しいことは、金がないだけでなく、尊厳まで奪われることだった。
「だから行くのです」
「観光地を巡る旅ではなかったのですかな」
「観光もしますよ。ただ、豊かな場所だけを見ても意味がありません」
スペース・グランドツアーを始めた時から、成功した都市と問題を抱えた地域の両方を見るつもりだった。
フォン・ブラウンでは、資本と技術が生み出す繁栄を見た。
グラナダでは、その繁栄を支える者が背負う危険と痛みを知った。
サイド1では、宇宙へ築かれた社会が、時間とともに一つの故郷へ変わっていく姿を見た。月やコロニーに生まれた者は、地球から離れた移民ではない。そこが最初から家なのだ。
次に見るべきなのは、繁栄と貧困が同じ場所に存在する社会だった。
「エンデュミオンというコロニーがあるそうですね」
僕が言うと、カーディアスが首を傾げた。
「よく知っているな」
「名前が面白かったので」
それだけだった。
古い神話に登場する名前だったように思う。
月の女神に愛され、永遠の眠りへついた美しい青年。確か、そのような話だったはずだ。前世でも詳しく知っていたわけではない。ただ、ガンダムSEEDでは聞いたことがあった。月を離れた直後にそのエンデュミオンという名を聞き、少し興味を持った。
「物見遊山ですか」
ハワードが確認する。
「半分は」
「残り半分は?」
「投資先の調査です」
「いつものことですね」
エンデュミオンは、サイド5の中でも豊かなコロニーだという。
金融、工業、交易が盛んで、上流階級の居住区には豪華な邸宅や商業施設が並ぶ。一方で、古い労働者区画にはスラムが広がり、同じコロニーの内部とは思えないほど生活環境に差があるらしい。
光が強ければ、影も濃くなる。
そこで、どのような事業が利益を生み、誰がその利益を受け取り、誰が取り残されているのか。
自分の目で確かめたかった。
「サイド5は、サイド1より商売人が多い」
ライオネルが言った。
「アズラエル様を歓迎する者も多いでしょう。しかし、親切な者が全員、味方とは限りません。あちらは利益の匂いへ敏感です」
「僕もです」
「それなら安心ですな!」
ライオネルは笑った。
僕が食い物にされるのではなく、相手を食い物にするとでも思っているのだろうか。
失礼な。
相手にも正当な利益を与えるつもりである。
カーディアスは、サイド1へ残ることになっていた。
バジルール家との予定だけでなく、ビスト財団関係者との面会や、自分の進路を考えるための滞在があるらしい。
本人は、財団の予定へ従うわけではないと繰り返していた。
「同じ場所へ行くだけだ」
「それを従うと言うのでは?」
「自分で行くと決めた」
ライオネルと同じ理屈だった。
最初の道を誰が用意したとしても、そこを歩き続けると決めたのが自分なら、それは自分の選択になる。
家が用意した道だから拒む。
誰かに期待されたから逃げる。
それもまた、家や他人の期待によって自分の行動を決められていることになるのかもしれない。
本当に自由になるためには、反対方向へ逃げるだけでは足りない。
与えられたものを見た上で、使うか、捨てるか、自分で判断する必要がある。
カーディアスは、家から逃げることだけが自由ではないと、少しずつ理解し始めているようだった。
「逃げるのをやめたのですか」
僕が尋ねると、彼はすぐには答えなかった。
港の窓から、コロニーの外へ停泊する旅客船を眺める。ビスト財団が用意した船も、別の区画に待機しているのだろう。
「まだ決めていない」
やがて、カーディアスは言った。
「ただ、逃げる前に、何から逃げようとしているのか知っておこうと思っただけだ。財団が嫌いだと言いながら、僕は財団の一部しか知らない。
父や祖父が何を考え、何を守ろうとしているのかも知らないまま、全てを捨てるのは違う気がしてきた」
よい判断だな、と言えば。上から目線だな、と返される。
本当に友人としての助言なんだよ。
「友人になった途端、説教が増えた気がする」
ハハハ。投資審査が厳しくなると言っただろう。
「僕は君の投資先ではない」
僕にも投資してみろと言ったのは、カーディアスだろう。忘れたとは言わせないよ。
「覚えていたのか」
金に関わる話は忘れないのだ。
「やはり友人になるものではないな」
そう言いながら、カーディアスは笑っていた。
船内の晩餐会で出会った時より、表情が柔らかくなった気がする。
あの時の彼は、ビストという名前に触れられるだけで不機嫌になり、自分と財団を切り離そうとしていた。
今はまだ財団を好いてはいない。
それでも、嫌う前に知ろうとしている。
それだけでも、大きな変化だった。