【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
少し離れた場所には、クラックスの姿もあった。
彼は木星航路の訓練計画へ参加するため、サイド1へ残る。木星開発局と提携する教育機関へ入り、航法、機関、生命維持、経営、会計を学ばせる予定だった。
本人は一日でも早く木星へ行きたがっているが、巨大な組織の頭になりたいと言う以上、熱意だけで船団を率いさせるわけにはいかない。
木星で必要になるのは、勇気だけではない。
一人分の酸素消費量。食料備蓄。船体修理に必要な部品。乗員の健康状態。資金繰り。地球圏との契約。
何百、何千という判断の積み重ねが、人間の生死を分ける。
知らなかったでは済まされない。
「学校をさぼらないでくださいね」
僕が言うと、クラックスは露骨に嫌そうな顔をした。
「木星へ行くために必要ならやる」
「教官と喧嘩もしないように」
「相手が馬鹿でもか?」
「馬鹿からも学べることはあります」
例えば何か、と睨みつけるクラッススにニヤリと笑う。
「どうすれば馬鹿な意思決定を避けられるか」
クラックスは少し考え、納得したように頷いた。
「それなら意味があるな」
納得するのか、とカーディアスが呆れている。
もちろん、教官が正しい場合もある。
「俺より木星を知っているなら、話は聞く」
「知らなくても、航法や機関については、あなたより知っています」
「木星を見ていない奴から、木星を教わるつもりはない」
「木星ではなく、船の動かし方を教わるんです」
細かいな、とうんざりした顔をされるが、その細かさで船が落ちずに済むのだよ。
クラックスは、まだ不満そうだった。
それでも、逃げるとは言わなかった。
必要だと理解すれば、嫌なことでも受け入れる。頑固ではあるが、ただのわからず屋ではない。
「クラックス。物資と資金の手配は進めます。ただし、契約と報告を怠れば、送金は止めます」
「分かってる。お前の金を百倍にして返してやる」
なんとも、大きく出たね。
大丈夫か?
「世界一の金持ちになるんだろう。木星くらい買えなくてどうする」
木星を買うつもりはないってばよ。いいねえ。そーゆー大言壮語嫌いじゃないぜ。
「投資先にするんだったか」
そうです。植民地にはしないよ。コスパが悪いからね。
クラッススには同じに聞こえるようだった。
「植民地からは奪います。投資先には豊かになってもらいます」
細かいな、とクラッススは言う。
「ですが重要です」
なるほどな、と嬉しそうにクラックスは僕へ右手を差し出した。
別れの時間だ。
「じゃあな、ムルタ」
「ええ。また会いましょう、クラックス」
その手を握り返した。
名前を呼び合った。
それだけで友達になるという、宇宙のどこにも書かれていない奇妙な慣習である。
最初は、あまりにも単純だと思っていた。
名前を知っただけで、相手のことを理解できるはずがない。利害も、価値観も、歩んできた人生も違う。
それでも今は、悪くないと思っている。
少なくとも、財産や肩書を確認してから始まる関係より、名前を呼ぶことから始まる関係の方が、相手を一人の人間として見ている。
僕がサイド1へ来た時、旅の仲間はカーディアス一人だった。
去る時には、遠い木星を目指す友人が一人増えている。
僕たちはこれから、それぞれ別の場所へ向かう。
クラックスは、地球圏の外側へ。
カーディアスは、自分が逃げようとしていた財団の内側へ。
僕は、宇宙社会の光と影を追って、サイド5へ。
「ムルタ」
搭乗口へ向かおうとしたところで、カーディアスが呼び止めた。
「本当に、問題のある場所ばかり選んで進むつもりか」
「問題がある場所には需要があります」
君らしいな、とカーディアスは微笑む。
「普通の旅行者は、投資先を探すために旅をしない」
「僕は普通ではないので」
「それは知っている」
カーディアスは少し笑った。
「気をつけろ、ムルタ。豊かな場所の貧困は、単に金が足りないから生まれるとは限らない」
「ライオネル少佐も似た話をしていました」
「金があるのに貧しい者がいるなら、誰かが流れをせき止めているか、そもそも流れへ入る資格を一部の人間にしか与えていない可能性がある」
「原因を探してきます」
カーディアスは真剣な表情をして言った。
「それを金で解決できるかも?」
「できなければ、できる仕組みを作ります」
「やはり面倒な奴だ」
よく言われるよ。
「次に会う時まで、スラムごとコロニーを買っていないといいな」
買わないよ、さすがに。
「月でも同じことを言っていた」
「投資と買収は違います」
「君の場合、いつも境界が曖昧だ」
「豊かにするために必要なら、企業を買うことはあります」
じゃあコロニーは?、とカーディアスは尋ねてきた。
そんなの値段次第だよね。
「買う気があるじゃないか」
「今のは冗談です」
「君の冗談は、実現しそうで怖い」
カーディアスは笑っていたが、すぐに表情を改めた。
「サイド5の次は、サイド3へ行く予定だったな」
「ええ。当初の旅程どおりです」
サイド5の次に、僕はサイド3へ向かう。
アーサーとメアリーが新しい生活を始めた場所であり、僕の投資先も少しずつ増えている地域だった。同時に、地球連邦政府への不満と独立運動が強まりつつある場所でもある。
「あそこは、ほかのサイドとは違う」
「独立運動のことですか」
「知っているのか」
正確には報告書では知っている。
カーディアスは首を横へ振った。
「報告書で知ることと、熱に触れることは違う。サイド3では、貧困や税金の話だけではなくなっている。自分たちは地球とは違う人間だ。自分たちの国家を持つべきだ。そう考える者が増えている」
「政治制度と経済格差を改善すれば、対立を緩和できるでしょう」
「それで解決する者もいる。だが、利益ではなく誇りで動く者もいる」
「誇りにも、原因はあります」
「原因が分かれば、止められるとは限らない」
カーディアスの声は真剣だった。
「思想は金より扱いにくい。金は流れを追える。足りない場所へ足すこともできる。だが怒りは、表から消えても地下へ潜るだけかもしれない」
僕は、グラナダの作業員を思い出した。
何度も約束を破られ、改革を語る者を信じなくなっていた男。治療費を出すと言うだけでは、彼の怒りは消えなかった。
意思決定へ参加できる制度を作り、危険を報告した者が不利益を受けないようにし、時間をかけて過去との違いを証明しなければならなかった。
サイド3の怒りは、さらに大きいのだろう。
ただし、サイド3へ向かう前に、僕はサイド5を見る。
豊かな社会の中で生まれる格差。
利益が存在しているにもかかわらず、その分配から排除される人々。
サイド5で得るものは、サイド3の不満を理解する手掛かりになるかもしれない。
「心配してくれるのですか」
「投資先が死ねば、僕の利益が減る」
「僕の言い方を取らないでください」
「便利な共通語だろう?」
カーディアスは少し笑った。
「次に会う時、君が金に使われていないといいな」
「それはメラニーさんにも言われました」
「なら、二人分覚えておけ」
「カーディアスこそ、ビスト財団から逃げられているとよいですね」
逃げるとは限らない、とカーディアスは豪語した。
では、利用できるようになってるのかな。
「君ほど上手く使える自信はない」
なら教えようか。
「高そうだな」
いやいや、友人価格ですよ。
安くなるのかと彼は問うが、そんな訳ないじゃん。
「審査が厳しくなります」
「やはり友人になるものではないな」
そう言いながら、嬉しそうにカーディアスは右手を差し出した。
僕は、笑顔でその手を握り返す。
「また会いましょう、カーディアス」
「ああ、ムルタ」
名前を呼んだ。
名前を呼んだだけで友達になれるほど、人間関係は単純ではない。
今でも、完全に信じているわけではない。
名前を呼び合っただけでは、相手を理解したことにはならない。利害が対立すれば、友人でも争う。遠く離れれば、考え方も変わる。約束を忘れ、別の道を選ぶこともあるだろう。
それでも、名前から始める友情は悪くない。
少なくとも、肩書や家名や資産額から始まる関係よりは、ずっとましだった。