【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムルタ・アズラエルを乗せた旅客船が、サイド1の港を離れていく。
港湾区画の展望窓から見える船体は、はじめこそ巨大だったが、距離が開くにつれて急速に小さくなっていった。姿勢制御用の噴射光が何度か瞬き、やがて無数の航行灯に紛れて見分けがつかなくなる。
次の目的地は、
繁栄するコロニーの足元に広がる貧困を見に行くのだと、ムルタは言っていた。普通の旅行者なら、景色のよい場所や評判のレストランを探す。あの少年は、問題のある場所を探す。
問題がある場所には需要がある。需要があるなら事業になる。事業になれば利益が生まれる。
そして利益が続くなら、善意が消えても人間は動き続ける。何度聞いても、実に嫌な理屈だった。
しかも、完全には否定できない。
「行ってしまいましたな!」
背後から、港中へ響くような大声がした。
振り返らなくても、誰だか分かる。
「見れば分かる、ライオネル少佐。船が港を離れるところを見送っていたのだから」
「いやはや、まったく惜しい! あと一日滞在していただければ、さらに二十件ほど投資案件をご紹介できたのですが!」
「十八件も検討させておいて、まだ足りないのか」
「投資の機会とは、逃せば二度と戻らないものです! それに、アズラエル様は紹介した案件だけでなく、庭の木や道端の設備まで投資先へ変えてしまわれる。あの方に一日歩いていただけば、サイド1の経済成長率が上がるかもしれません!」
「さすがに誇張だろう」
「半分は本気です!」
半分は冗談なのか。あるいは、半分しか冗談ではないのか。
ライオネル・バジルールという男は、どこまで本気なのか分かりにくい。大げさに褒め、打算を隠さず、相手が嫌がるような話題にも笑いながら踏み込んでくる。
だが、ただ軽薄なだけではない。
ムルタが誰へ関心を示し、何を問題だと考え、どこへ金を置こうとしているのかを、ライオネルは注意深く見ていた。
人間を観察し、人間同士を結びつける。軍人というより、優秀な政治家である。
「それで、カーディアス様」
いきなりライオネルが尋ねてきた。
「やはり、将来の娘の件ですが――」
「まだ諦めていなかったのか」
「候補は多い方がよいかと思いまして!」
「先ほどまでムルタへ勧めていただろう」
「アズラエル様は世界一の富豪を目指されるお方です。もちろん最有力候補であります。しかし、ビスト財団との縁も捨てがたい!」
僕は財団ではないと何度言ったらわかるんだろうか。この男にしては随分としつこい。
「今は、でしょう?」
ライオネルは笑った。いつもなら、その言葉を聞いた瞬間に不機嫌になっていた。
僕は財団ではない。財団の後継者でもない。
勝手に人の将来を決めるな。そう言い返して、話を終わらせていただろう。しかし今は、少しだけ違う。
「少佐は、僕が財団へ戻ると思っているのか」
「戻るという表現は適切ではありませんな。カーディアス様は、まだ財団から離れておられません。離れようとして、少し遠くまで歩いただけです」
「分かったようなことを言うな」
「人脈は第二の命です。人を見る目がなければ、相手と相手をつなぐことはできません」
「自分で言うのですか」
「長所は正確に把握すべきです!」
実にムルタと相性がよい。自信過剰な人間同士である。
僕が呆れていると、ライオネルは展望窓の向こうへ視線を向けた。
「アズラエル様を羨ましく思われましたか」
「なぜ、そう思うんだ」
「ご自分より六歳も年下なのに、すでに進む方向を決めておられる。家の力を利用しながら、それでもご自身の名で成果を積み重ねている。カーディアス様が、最も欲しいものを持っているように見えましたので」
思った以上に、正面から切り込んできた。
「僕が何を欲しがっているか、少佐に分かると?」
「自由でしょう」
「それくらいなら、誰にでも分かります」
「では、自由になって何をしたいのです?」
答えが出なかった。ビスト家から離れたい。
財団の予定に従いたくない。誰と会い、何を学び、どこへ行き、誰と結婚するかまで、家に決められたくない。
それは確かだった。
だが、家を離れた後に何をしたいのか。
具体的な答えを、僕は持っていなかった。
「ムルタは、世界一の金持ちになるそうだ」
「ええ。そして、金がないからできないと言う人間を、札束で殴るそうです!」
「よく分からない夢だな」
「ですが、何をしたいかは明確です」
ライオネルは、いつもの大声ではなく、少し落ち着いた口調で続けた。
「カーディアス様は、家から離れることを自由と呼んでおられる。しかし、離れた後に進む先がなければ、家から遠ざかることそのものが目的になってしまう。そうなれば、結局はビスト家を基準に人生を決め続けることになるのではありませんか」
「ずいぶん厳しいことを言うね」
「未来の大人物へは、早めに恩を売るべきですから!」
「台無しだ」
僕が顔をしかめると、ライオネルは楽しそうに笑った。
だが、彼の言葉は残った。
家が右へ行けと言うから、左へ行く。家が止まれと言うから、走り出す。それは反抗ではあっても、自由ではないのかもしれない。
最初の道を誰が選んだかではなく、その道を歩き続けることを誰が決めるか。
ライオネル自身が、そう言っていた。
そしてムルタは、家に縛られていることを認めながら、その縄をどこまで伸ばせるか試している。僕よりもはるかに多くの契約と責任に縛られながら、あの少年は自由に見えた。
「カーディアス様」
ライオネルが、少しだけ真剣な顔をした。
「私は、バジルール家が用意した道を歩いております。最初は自分で選んだ道ではありませんでした。しかし、今はこの道を悪くないと思っている。家の期待と、自分の意思が重なることもあるのです」
「重ならなかった場合は?」
「その時は、別の道を選べばよい。ただし、道を見ずに拒むのは、自分の選択ではありません。嫌っている相手に、人生を決めさせているだけです」
その言葉を残し、ライオネルは妻の方へ歩いていった。
「さて! 私は家族を送り届けた後、軍務へ戻ります! カーディアス様も、財団の面会をあまり待たせぬよう!」
「なぜ知っている」
「人脈は第二の命です!」
最後まで、それだった。
クラックスは、港の反対側にある教育機関の車両へ乗せられるところだった。
本人は何度も後ろを振り返り、まだ見送りの場に残ろうとしていたが、担当者は時間だと急かしている。
ムルタがいなくなった途端、彼は少し年相応に見えた。
会議室で大人たちを相手に怒鳴り、木星へ街を作ると断言した少年。世界一の金持ちを目指すムルタと、ほとんど対等に言い合っていた少年。だが今は、知らない学校へ一人で連れていかれる十二歳でしかない。
「クラックス」
僕が呼ぶと、彼は足を止めた。
「何だ。お前も説教するのか」
「ムルタほど細かくはないさ」
「それならいい」
「ただし、彼より優しくするつもりもないがな」
「結局、説教じゃねえか」
クラックスは露骨に嫌そうな顔をした。
「君は、本当に木星へ行くつもりなんだね」
「そのために全部やったんだ。大人に笑われても、会場を追い出されても、資料を作って持ち込んだ。ここまで来て、学校が嫌だからやめるとでも思っているのか」
「思っていない。ただの確認さ」
「何を確認した」
「君が、必要とされたいから木星へ行くのか。それとも、木星へ行きたいから必要とされる人間になろうとしているのか」
クラックスの顔が険しくなった。
「何が違う」
「大きく違う。木星へ行くことが目的なら、君がいなくても木星が発展すれば成功だ。しかし、自分が必要とされることが目的なら、君がいなくても動く組織は失敗に見えるかもしれない」
「俺がいなくても動く組織を作れって言いたいのか」
「最終的には」
「馬鹿らしい。俺が作るんだぞ。俺が誰より木星を考えて、俺が最初に動いて、俺が人を集める。それなのに、俺がいなくてもいい組織を作れっていうのか」
予想していた反応だった。僕はビスト財団で、同じ考えの人間を何人も見てきた。
自分が始めた。
自分が育てた。
自分が守ってきた。
だから、組織は自分のものだ。
そこから、いつの間にか人間まで自分の所有物だと考えるようになる。
「君が必要とされることを否定しているのではないさ。最初は、君が必要だろう。君にしか見えていない未来があり、君にしか持てない熱意がある。だが、何十年後も君一人に全てを頼る組織なら、それは強い組織ではない」
「それはムルタにも言ったのか」
「言いました」
「あいつは何て答えた」
「制度で縛ると言いました。自分も、君も」
クラックスは鼻を鳴らした。
「あいつは自分を疑いすぎだ。十億ドルも稼いで、あれだけ人を動かしておいて、自分が間違える前提で話す」
お前は自分が間違えないと思っているのか。やはり不安だな。
「思っている」
正直なやつめ。ただそれだけでもないようだった。
「間違っていたら直せばいい」
なるほど。じゃあ誰が間違いを指摘するんだ。
「俺より正しい奴が」
「君が、その人物を正しいと認めなかったら?」
クラックスは黙った。
しばらくして、面倒そうに髪をかき上げる。
「だから制度がいるって話か」
「制度だけでも足りない。君へ反論できる人間も必要だ。君が嫌いでも、君のために間違いを指摘する友人が」
「お前たちみたいな?」
「僕は木星まで行くつもりはないさ」
「手紙くらい送れるだろう」
「送ってほしいのか」
「違う。ムルタが送ると言っていたから、お前も勝手に送ってくると思っただけだ」
素直ではない。だが、悪くない。
「では、報告書を送ってくれ。ムルタへ提出するものとは別に。彼は数字を見る。僕は、君が人をどう扱っているか見ようか」
クラッススは緊張した様子で「監視するつもりか」と問う。
いいや、友人として観察するだよ。
「同じだろう」
「違う。監視には契約が必要だが、友人は勝手に心配できる」
「金持ちの友情は面倒だな」
「ムルタへ言ってくれ。僕も巻き込まれただけなんだよ」
クラックスは少し笑った。
担当者が再び時間だと告げる。
「じゃあな、カーディアス」
「ああ、クラックス。また会おう」
「名前を呼んだから友達なんだろう」
「そういう決まりらしいな」
「やっぱり意味が分からねえ」
そう言いながら、彼は今度こそ車両へ乗り込んだ。扉が閉まり、車両が港湾区画を離れていく。ムルタは、クラックスへ船を与えたのではない。自分の世界を作れるという確信を与えた。
それは、僕が言った言葉だった。
だが、考えてみれば、ムルタは僕にも同じことをしたのかもしれない。
家から逃げなくても、自分の人生を選べるかもしれない。
ビストの名を捨てなくても、ビスト家に使われず、その力を自分で使えるかもしれない。その可能性を、あの少年は示した。本人は、ただ言い争っただけだと思っているのだろうが。