【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
八歳になった頃には、僕はアズラエル家の生活にもすっかり馴染んでいた。
朝になれば使用人が起こしに来る。食卓には栄養と味の両方を考え抜かれた料理が並び、その日の体調や予定に合わせて献立まで変えられる。午前は家庭教師から語学や歴史を学び、午後は数学、科学、芸術、礼法と続いた。
何を学びたいと言っても、必要な教師と教材が用意された。欲しい本があると言えば、翌週には書斎へ届いた。知りたいことがあると言えば、その分野の専門家が屋敷へ呼ばれた。
前世の僕が喉から手が出るほど欲しかったものが、この家には最初から揃っていた。
金も、教育も、時間も、健康も、失敗してもやり直せる余裕も。
これで人生負ける方が難しい。
金とは、物を買うためだけにあるのではない。
時間を買う。教育を買う。健康を買う。
失敗する権利を買う。
そして、人生の選択肢を買う。
それを、僕は嫌というほど思い知らされていた。
私生活に不満はなかった。むしろ、出来すぎているほどだった。ただ一つ、気に入らないことがあった。
——金儲けの才能。
死の間際、確かに願ったはずのチート能力が、どこにも見当たらなかった。目を閉じても数字は浮かばない。企業名を眺めても、将来の株価が見えるわけではない。商品に触れても、売れるかどうかを告げる声など聞こえない。
能力一覧もなければ、鑑定画面もない。
女神からの神託も音沙汰なしだった。
これでは、単に金持ちの家へ生まれただけではないか。
いや、それだけでも十分すぎるほどありがたいのだが、せっかく女神らしき存在から願いを聞かれたのだ。期待くらいはしても罰は当たらないだろう。
能力があるのか。ないのか。あるとして、どう使うのか。僕は長いこと考えた。
そして八歳の冬、ようやく一つの方法を思いついた。
投資である。
親の金で贅沢をするだけでは、ただの金持ちの息子である。自分で一ドルを二ドルにし、二ドルを十ドルにできてこそ、金儲けの才能を願った意味がある。
金儲けの才能が本当にあるのなら、金を動かしてみればいい。単純な話だった。クリスマスプレゼントは何かと聞かれて思わず口をついて出たのである。
なるべく子供らしく振舞おうとしていたストレスがたまっていたのかもしれない。本当にするっと声に出してしまった。
「百万ドルを貸してください」
夕食後、プレゼントを尋ねる父に対してそう申し出ると、父は食卓でコーヒーを一服しながら読みかけていた資料からゆっくりと顔を上げた。
「百万ドルかね」
はい、と真剣な顔で頷く。
「何に使うんだい?」
「投資です」
間髪入れずに放った言葉に父は黙った。
怒るでもなく、笑うでもなく、ただ僕の顔を見ていた。子供が玩具をねだっているのではないか。大人の真似をして、聞きかじった言葉を使っているだけではないか。
おそらく、その程度には疑っていたのだろう。
それでも頭ごなしに否定しないのは子供のよき理解者であろうとする父の姿勢の表れだった。
「投資と言っても、いろいろあるが何か考えがあるのかな?」
「上場株式だけではありません。未公開企業への出資も、債券も、商品取引も考えています。ただし最初の一年は、僕自身が理解できる分野に限定します」
父親としてこの子には何度も驚かされてきた。自分が思った以上に、想定をはるかに超えてこの子は賢いのかもしれない。だが気になるのは「理解できる分野」とは何かである。麒麟児とは言え8歳になったばかりの子供に何が分かるというのだろうか。わが子の成長を喜びつつも、威厳をもって尋ねる。だから、僕は答えた。
「宇宙生活に必要なものです」
父の目が、わずかに細くなった。
「続けなさい」
言葉に真剣味が増したことを感じる。
「人口が宇宙へ移るなら、人が暮らすために必要なものも宇宙へ移ります。水、空気、食料、医療、輸送、通信、廃棄物処理。コロニーそのものを作る会社だけが儲かるのではありません。人が暮らし続けるために必要なものを供給する企業も成長します」
「口で言うのは容易い。そして、それは誰もがが思っていることだ。だからこそ多くの資金が集まっているがすべてが成功者になりえるわけではない。それを、八歳の君が見極められると?」
その通りだった。
宇宙を選択したのは、理性というより感情の判断だった。前世にない宇宙への憧れが根底にある。両親に何度も宇宙旅行をねだったが、息子に甘い彼らにしては珍しく反対されたのだった。曰く、危ないから学校を卒業して独り立ちするまでダメだそうだ。
以来、早く学校を卒業したいと願い飛び級を視野に入れていた。
だからせめて宇宙との関わりが欲しかったのかも知れない。
スペースコロニーを一度でいいから見てみたかったのだ。憧れのガンダムの世界を、その宇宙の舞台をリアルで体感してみたかった。転生してもアニメの世界に入ることはできなかったけれど。だからせめて雰囲気だけでも浸りたい。僕のオタク魂が叫んでいるんだ。
それに地球圏から最も遠い位置にあるコロニー群サイド3が開拓に苦戦しているそうなのだ。フロンティアスピリットを応援したい一心で、積極的に投資をしたいと思う。
根拠はないが、チートによってきっとサイド3も発展するだろう。僕も儲かってウィン・ウィンな関係になりたいものだ。
後年、このときの僕の決断というか趣味的な行動が、良くも悪くも人生を左右するのであった。
さて、宇宙投資は絶対うまくいく。なんて甘い見通しはさすがに持っていない。
持っているのは信じる心。そうチート能力である。
信じる者と書いて、儲けが生まれる
さあ、チートに身を委ねるのだ。
「見極められるかどうかを試すために、貸してほしいのです」
「もし失敗して失ったら?」
「僕のお小遣いから差し引いてください」
父はそこで初めて笑った。大声ではなかった。だが、心底おかしそうだった。
「かわいいムルタ。自分がどれほどお小遣いをもらうのか知っているのかね」
「いえ、まったく知りません」
「百万ドルを失っても、誤差にもならない。そうだな、半年分くらいだろうか。それくらいは我慢しなさい」
今度は驚くのは僕の方だった。金持ちのスケールを甘く見ていたようだ。お小遣い10年分くらいかなと思っていたのだけれど——これでもだいぶ甘く見積もっていたつもりだった。
目を白黒させる僕をみて、父は苦笑しながらしばらく僕を見つめていた。やがて机の引き出しを開き、薄いカードを取り出した。
「一年だ」
父は言った。
「追加の資金提供はしない。アズラエル家の名を使って取引先へ圧力をかけることも認めない。専任の会計士を一人つけるが、助言はさせない」
それで十分だ、と僕はうなづいた。
「一年後、元本を割っていれば、投資の話は当分禁止する」
父の言葉に、少し考えて僕は尋ねてみた。
「分かりました。けれども利益が出たならどうしましょうか」
「もちろん、ムルタのものだよ。何に使うかは自分で決めなさい」
「いえ、もう決めています——再投資します」
父は今度こそ大声で笑った。いいだろう、と。
こうして、僕は百万ドルを借りた。