【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第38話 可能性(ムルタ)への投資(裏:カーディアス・ビスト)

 ムルタは、時々ひどく老成している。

 利益を語る時は楽しそうなのに、人間の善意や貧困や労働について語る時だけ、長い年月を生きた者のような目をする。だが同時に、未来は作れると本気で信じている。

 今のあの少年は、何かを恐れているわけではない。むしろ、恐れを知らないほど前向きだった。金と技術と人間を正しく結びつければ、社会は豊かになる。制度を作れば、善意が消えても最低限は守られる。投資先へ利益を与えれば、地球と木星は対立せずに済む。

 世界はまだ十分に作り替えられる。ムルタは、それを疑っていない。

 

「おじい様」

 

「何だ」

 

「あの少年は、いつか巨大な組織を作ると思います」

 

「本人は企業を作るつもりなのではないか」

 

「それだけではありません。本人が望むかどうかに関係なく、人が集まる。アーサーという少年へ未来を与え、月の技術者へ研究の機会を与え、クラックスへ木星を与えた。彼に金を出してもらった人間は、金だけではなく、自分の夢を認めてもらったと思うでしょう」

 

「それが忠誠へ変わると?」

 

「可能性はあります。ムルタは、人を支配したいとは思っていない。だからこそ、周囲は安心して力を預ける。権力を欲しがる者より、権力を欲しがらない者へ権力が集まることもある」

 

 祖父は満足そうに目を細めた。

 

「少しは人を見るようになったな」

 

「以前から見ています」

 

「以前のお前は、自分を縛ろうとする人間しか見ていなかった」

 

 また、否定できない。

 

「ではおじい様は、ムルタを警戒しますか」

 

「警戒はする。だが、敵にする理由はない。あれほど若く、あれほど資本を動かし、それでいて宇宙に住む者を単なる労働力と見ていない。財団にとっても、地球圏にとっても、無視できない人間になるだろう」

 

「僕へ近づけと言いますか」

 

「すでに友人なのだろう?」

 

「本人の妙な理屈では」

 

「なら、財団の命令は必要ない」

 

 祖父は、そこで少し表情を柔らかくした。

 

「カーディアス。友人は大切にしろ。ただし、相手を信じることと、相手が間違えないと思うことを混同するな」

 

「ムルタも、同じようなことを言っていました。自分自身も二十年後には変わるかもしれない。だから自分の権力も制限すると」

 

「どういう意味だ」

 

「彼は、自分が金によって人を動かしていると思っている。しかし、実際には金だけではない。自分が相手の未来を信じることで、人を動かしている。その影響力を、本人は利益という言葉へ置き換えて見ないようにしている」

 

「なぜだと思う」

 

「感情より利益の方が、契約書へ書けるからでしょう」

 

 祖父は声を立てて笑った。

 

「なるほど。実に扱いにくい少年だ」

 

「僕も、そう言いました」

 

「だが、お前は楽しそうだ」

 

「通信の映像が乱れているのではありませんか」

 

「そういうことにしておこう」

 

 ムルタと同じ言い方だった。

 腹立たしい。

 

 

 

 

 通信を終えた後、僕は机の上に置かれた翌日の予定表を見た。以前なら、開くことすらしなかっただろう。

 財団関係者との会議。サイド1の投資先視察。コロニー公社との意見交換。アナハイム・エレクトロニクス関係者との会食。

 どれも、家が決めた予定である。

 だが、予定を受け入れることと、予定へ従うことは同じではない。誰と会うかを家が決めても、その場で何を聞き、何を考え、何を選ぶかは自分で決められる使えるものを捨てるのは、資源の無駄。

 あの嫌な少年なら、きっとそう言う。僕は端末を開き、予定ごとに質問を書き込んでいった。誰が利益を得るのか。誰が危険を負うのか。誰の声が消えているのか。財団がいなくなっても続くのか。

 

 財団は相手へ選択肢を与えているのか、それとも依存させているのか。

 すべて、ムルタと話したことで生まれた問いだった。扉の近くに立っていた随行員が、不思議そうにこちらを見ている。なんだ?

 

「いえ。カーディアス様が予定表へ書き込みをされるところを、初めて拝見しました」

 

「今までは必要がなかっただけです」

 

「明日の面会は、予定どおりご出席いただけるのでしょうか」

 

 出るよ、と答えると随行員は目を見開いた。

 

「ただし、僕を後継候補として座らせ、決まった説明を聞かせるだけなら帰ります。財団が何を持ち、何を守り、誰へ利益を与え、誰を踏みつけているのか、全て説明してもらいます」

 

「承知しました」

 

「それから、ムルタの旅程を調べてください」

 

「サイド5へ向かわれたはずですが」

 

「それは知っています。エンデュミオンで何をする予定なのか、公開されている範囲で確認を。彼がどの企業へ接触し、何へ投資するかも」

 

「財団として調査を?」

 

 僕は少し迷った。

 

「投資先としてです」

 

「アズラエル様の言い方に似てこられましたね」

 

「今の発言は忘れてください」

 

「承知しました」

 

 随行員の口元が、わずかに緩んでいた。

 まったく、どいつもこいつも。

 僕はビスト財団ではない。それは今でも変わらない。財団の名が、自分の意思より先に歩いていくことも嫌いだ。家の都合で人生を決められるつもりもない。

 だが、ビスト財団を使わない理由にもならない。僕は財団の一部として生まれた。それを選ぶことはできなかった。

 しかし、その力を何に使うかは、これから選べる。自由になるために、僕は家から逃げようとしていた。

 今は、家の中へ入り、その構造を知り、どこまで自分の意思を通せるか試してみようと思う。

 ムルタは、家に縛られていることを認め、その縄をどこまで伸ばせるか試していると言った。

 

 なら僕は、財団という鎖が、本当に鎖でしかないのか確かめてみよう。道具として使えるなら使う。

 使えないなら、その時に捨てればよい。まずは価値を見極める。

 それが投資審査というものだろう。

 

「ムルタ・アズラエル」

 

 誰もいない部屋で、あえて名前を呼んでみた。

 名前を呼べば友達になる。

 あまりにも単純で、根拠のない理屈だ。

 

 それでも、名前から始まる友情は悪くない。彼は、僕をビスト財団の後継候補ではなく、カーディアスとして見た。なら僕も、ムルタをアズラエル家の資産ではなく、一人の少年として見るべきなのだろう。

 もっとも、本人へそう言えば、友情ではなく利益だと主張するに違いない。

 なら、それでよい。

 利益は、僕たちにとって便利な共通語なのだから。

 

 この時の僕は、まだ知らなかった。

 ムルタが、いつか本当に未来を恐れるようになることを。

 自分の知るわずかな言葉と、現実の歴史がつながり、空からコロニーが落ちるかもしれないと怯える日が来ることを。誰にも説明できない不安を抱え、金と技術と人間を、狂ったように集め始めることを。

 そして、その時。

 今度は僕とクラックスが、彼へ選択肢を渡す側になる。

 

 だが、それはまだ遠い未来の話である。

 今のムルタは、未来を恐れてはいなかった。未来は金と制度によって作り替えられると、少しも疑わずに信じていた。その無謀なほどの確信に、僕もクラックスも巻き込まれた。

 彼が僕たちの未来へ投資したように。

 僕たちもまた、ムルタ・アズラエルという少年の可能性へ、すでに投資し始めていたのである。

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