【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムルタは、時々ひどく老成している。
利益を語る時は楽しそうなのに、人間の善意や貧困や労働について語る時だけ、長い年月を生きた者のような目をする。だが同時に、未来は作れると本気で信じている。
今のあの少年は、何かを恐れているわけではない。むしろ、恐れを知らないほど前向きだった。金と技術と人間を正しく結びつければ、社会は豊かになる。制度を作れば、善意が消えても最低限は守られる。投資先へ利益を与えれば、地球と木星は対立せずに済む。
世界はまだ十分に作り替えられる。ムルタは、それを疑っていない。
「おじい様」
「何だ」
「あの少年は、いつか巨大な組織を作ると思います」
「本人は企業を作るつもりなのではないか」
「それだけではありません。本人が望むかどうかに関係なく、人が集まる。アーサーという少年へ未来を与え、月の技術者へ研究の機会を与え、クラックスへ木星を与えた。彼に金を出してもらった人間は、金だけではなく、自分の夢を認めてもらったと思うでしょう」
「それが忠誠へ変わると?」
「可能性はあります。ムルタは、人を支配したいとは思っていない。だからこそ、周囲は安心して力を預ける。権力を欲しがる者より、権力を欲しがらない者へ権力が集まることもある」
祖父は満足そうに目を細めた。
「少しは人を見るようになったな」
「以前から見ています」
「以前のお前は、自分を縛ろうとする人間しか見ていなかった」
また、否定できない。
「ではおじい様は、ムルタを警戒しますか」
「警戒はする。だが、敵にする理由はない。あれほど若く、あれほど資本を動かし、それでいて宇宙に住む者を単なる労働力と見ていない。財団にとっても、地球圏にとっても、無視できない人間になるだろう」
「僕へ近づけと言いますか」
「すでに友人なのだろう?」
「本人の妙な理屈では」
「なら、財団の命令は必要ない」
祖父は、そこで少し表情を柔らかくした。
「カーディアス。友人は大切にしろ。ただし、相手を信じることと、相手が間違えないと思うことを混同するな」
「ムルタも、同じようなことを言っていました。自分自身も二十年後には変わるかもしれない。だから自分の権力も制限すると」
「どういう意味だ」
「彼は、自分が金によって人を動かしていると思っている。しかし、実際には金だけではない。自分が相手の未来を信じることで、人を動かしている。その影響力を、本人は利益という言葉へ置き換えて見ないようにしている」
「なぜだと思う」
「感情より利益の方が、契約書へ書けるからでしょう」
祖父は声を立てて笑った。
「なるほど。実に扱いにくい少年だ」
「僕も、そう言いました」
「だが、お前は楽しそうだ」
「通信の映像が乱れているのではありませんか」
「そういうことにしておこう」
ムルタと同じ言い方だった。
腹立たしい。
通信を終えた後、僕は机の上に置かれた翌日の予定表を見た。以前なら、開くことすらしなかっただろう。
財団関係者との会議。サイド1の投資先視察。コロニー公社との意見交換。アナハイム・エレクトロニクス関係者との会食。
どれも、家が決めた予定である。
だが、予定を受け入れることと、予定へ従うことは同じではない。誰と会うかを家が決めても、その場で何を聞き、何を考え、何を選ぶかは自分で決められる使えるものを捨てるのは、資源の無駄。
あの嫌な少年なら、きっとそう言う。僕は端末を開き、予定ごとに質問を書き込んでいった。誰が利益を得るのか。誰が危険を負うのか。誰の声が消えているのか。財団がいなくなっても続くのか。
財団は相手へ選択肢を与えているのか、それとも依存させているのか。
すべて、ムルタと話したことで生まれた問いだった。扉の近くに立っていた随行員が、不思議そうにこちらを見ている。なんだ?
「いえ。カーディアス様が予定表へ書き込みをされるところを、初めて拝見しました」
「今までは必要がなかっただけです」
「明日の面会は、予定どおりご出席いただけるのでしょうか」
出るよ、と答えると随行員は目を見開いた。
「ただし、僕を後継候補として座らせ、決まった説明を聞かせるだけなら帰ります。財団が何を持ち、何を守り、誰へ利益を与え、誰を踏みつけているのか、全て説明してもらいます」
「承知しました」
「それから、ムルタの旅程を調べてください」
「サイド5へ向かわれたはずですが」
「それは知っています。エンデュミオンで何をする予定なのか、公開されている範囲で確認を。彼がどの企業へ接触し、何へ投資するかも」
「財団として調査を?」
僕は少し迷った。
「投資先としてです」
「アズラエル様の言い方に似てこられましたね」
「今の発言は忘れてください」
「承知しました」
随行員の口元が、わずかに緩んでいた。
まったく、どいつもこいつも。
僕はビスト財団ではない。それは今でも変わらない。財団の名が、自分の意思より先に歩いていくことも嫌いだ。家の都合で人生を決められるつもりもない。
だが、ビスト財団を使わない理由にもならない。僕は財団の一部として生まれた。それを選ぶことはできなかった。
しかし、その力を何に使うかは、これから選べる。自由になるために、僕は家から逃げようとしていた。
今は、家の中へ入り、その構造を知り、どこまで自分の意思を通せるか試してみようと思う。
ムルタは、家に縛られていることを認め、その縄をどこまで伸ばせるか試していると言った。
なら僕は、財団という鎖が、本当に鎖でしかないのか確かめてみよう。道具として使えるなら使う。
使えないなら、その時に捨てればよい。まずは価値を見極める。
それが投資審査というものだろう。
「ムルタ・アズラエル」
誰もいない部屋で、あえて名前を呼んでみた。
名前を呼べば友達になる。
あまりにも単純で、根拠のない理屈だ。
それでも、名前から始まる友情は悪くない。彼は、僕をビスト財団の後継候補ではなく、カーディアスとして見た。なら僕も、ムルタをアズラエル家の資産ではなく、一人の少年として見るべきなのだろう。
もっとも、本人へそう言えば、友情ではなく利益だと主張するに違いない。
なら、それでよい。
利益は、僕たちにとって便利な共通語なのだから。
この時の僕は、まだ知らなかった。
ムルタが、いつか本当に未来を恐れるようになることを。
自分の知るわずかな言葉と、現実の歴史がつながり、空からコロニーが落ちるかもしれないと怯える日が来ることを。誰にも説明できない不安を抱え、金と技術と人間を、狂ったように集め始めることを。
そして、その時。
今度は僕とクラックスが、彼へ選択肢を渡す側になる。
だが、それはまだ遠い未来の話である。
今のムルタは、未来を恐れてはいなかった。未来は金と制度によって作り替えられると、少しも疑わずに信じていた。その無謀なほどの確信に、僕もクラックスも巻き込まれた。
彼が僕たちの未来へ投資したように。
僕たちもまた、ムルタ・アズラエルという少年の可能性へ、すでに投資し始めていたのである。