【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

42 / 43
第39話 木星へ行く少年①(裏:クラッスス・ドゥガチ)

 ムルタ・アズラエルを乗せた旅客船が、サイド1の港を離れていった。

 展望窓の向こうで、白い船体がゆっくりと方向を変える。船尾の噴射光が点り、徐々に速度を上げていく。最初は外壁を覆うほど大きく見えていた船も、やがて港湾施設の照明に紛れるほど小さくなった。

 

 次の目的地は、サイド5(ルウム)だという。

 豊かなコロニーの中にある貧困を調べる。

 投資先を見つける。

 問題があれば、そこには需要がある。

 あいつは最後まで、そんなことを言っていた。

 

「変な奴だったな」

 

 俺が呟くと、隣に立っていた教育機関の担当者が顔を向けた。

 

「ムルタ・アズラエル様のことでしょうか」

 

「ほかに誰がいる。世界一の金持ちになるだの、札束で現実を殴るだの、大真面目な顔で言いやがる。十億ドルも持っているくせに、十億ドルしかないとも言っていた。金持ちっていうのは、ああいう意味の分からない奴ばかりなのか」

 

「私もアズラエル様と直接お話ししたのは、今回が初めてです。しかし、木星開発へ民間資本を呼び込んだ功績については、率直に感謝しております」

 

「まだ一ドルも届いていないだろう」

 

「契約交渉が始まっただけでも大きな変化です。これまでも木星開発へ関心を持つ投資家はいました。しかし、船舶、資源、保険、居住、教育、医療を一つの事業として結びつけようとした方はいませんでした」

 

 担当者は、言葉を選ぶように続けた。

 

「それに、あなたを計画の中心候補として扱った方も、これまではいなかったのでしょう」

 

「候補だ。代表じゃない」

 

「当然です。あなたは十二歳ですから」

 

 こいつも同じことを言う。

 

「ムルタも十二歳だ」

 

「アズラエル様は、すでに大学を卒業し、複数の事業で実績を出されています」

 

「それが何だ。俺は木星のことなら、あいつより知っている」

 

「だからこそ、あなたには木星以外を学んでいただきます」

 

 担当者は、俺へ一枚の端末を差し出した。

 そこには、これから受ける教育課程が表示されていた。

 基礎数学。応用物理。航法。船舶機関。生命維持設備。放射線医学。閉鎖環境心理学。

 会計。経営。法律。組織管理。

 俺は途中まで読み、顔を上げた。

 

「何年かかる」

 

「全課程を通常どおり受講すれば、基礎だけで三年。その後、船団実習と専門教育があります。ただし、アズラエル様からは、あなたの知識と能力を試験し、修得済みの分野については短縮するよう要請されています」

 

「三年?」

 

「短縮される可能性はあります」

 

「ふざけるな。俺は木星へ行くために来たんだ。サイド1の教室へ座り、地球圏の連中が作った教科書を三年読むためじゃない。あいつも結局、ほかの大人と同じじゃないか。今は早い。準備が必要だ。将来考える。その言葉で何年も待たせ、最後には計画そのものを消す」

 

 担当者は、俺の怒鳴り声を黙って聞いていた。

 周囲にいた職員がこちらを見ている。

 どうせ、また面倒な子供が騒いでいると思っているのだろう。

 それでも構わない。黙っていれば、何もなかったことにされる。

 大人は、黙っている人間を納得した人間として扱う。俺は、それをよく知っている。

 

「クラックス・ドゥガチ君」

 

「何だ」

 

「木星へ行くだけなら、教育は必要ありません」

 

 意外な答えだった。

 

「なら、すぐ船へ乗せろ」

 

「貨物船へ密航する方法を探せばよい。あるいは、低賃金の作業員として乗員募集へ応募する。健康状態に問題がなく、最低限の訓練を受ければ、数年以内に木星航路へ乗れる可能性はあります」

 

「だったら――」

 

「しかし、あなたが望んでいるのは、ただ木星へ行くことではないのでしょう」

 

 担当者の声が強くなった。

 

「あなたは会場で、木星へ街を作ると言った。人間が住み、働き、子供を育て、年を取り、自分たちで船を修理し、次の船まで作れる社会を築くと言った。そして、その大きな組織の頂点に自分が立つとも言った」

 

「言った。それがどうした」

 

「船の機関が故障した時、あなたが怒鳴れば直るのですか。食料計画を誤り、備蓄が不足した時、野心を食べれば乗員の腹が膨れるのですか。放射線障害が発生した時、自信があれば患者を治療できるのですか」

 

「専門家を使えばいい」

 

「誰が本当の専門家か、あなたは何を基準に判断します。二人の技術者が正反対の意見を述べた時、どちらを採用します。医師が居住区の拡張を止めろと言い、経営担当者が止めれば資金が尽きると言った時、あなたは何を優先します」

 

「それを決めるのが俺だ」

 

「だから学ぶ必要があります」

 

 担当者は、俺の目をまっすぐ見た。

 

「指導者が、すべての専門家より詳しくなる必要はありません。それは不可能です。しかし、何も知らなければ、声の大きい者、地位の高い者、あなたへ都合のよい答えを出す者に従うしかなくなる。知らなかったでは済みません。木星では、あなたの判断が人間の生死へ直接つながるのです」

 

 ムルタも、似たようなことを言っていた。

 一人分の酸素消費量。食料備蓄。船体修理に必要な部品。乗員の健康状態。資金繰り。地球圏との契約。細かい判断の積み重ねが、人を生かしも殺しもする。

 

 俺は木星を知っている。

 地球圏の役人よりも調べた。

 会場にいた企業家よりも、本気で行くつもりだった。

 

 だが、船を動かしたことはない。医療も知らない。

 会計は、資料を作るために最低限覚えただけだ。

 

「三年も待てない」

 

「アズラエル様も、それは理解されています」

 

「何が分かる。あいつは十二歳で十億ドルを稼いだ。待たなくても、欲しいものを買える人間だ」

 

「ですから、アズラエル様は条件を付けています。基礎試験に合格し、安全教育を修了した段階で、木星往還船の実習航海へ参加させるよう交渉する、と」

 

 俺は端末を奪うように受け取った。教育計画の下に、小さな文字で特別条項が書かれている。

 必要な資格を取得した場合、木星航路船へ実習生として推薦する。

 実習中も教育を継続する。現地調査の結果を、木星開拓計画へ反映する。

 

「本当に乗せるつもりなのか」

 

「契約が成立すれば」

 

「いつだ」

 

「あなた次第です」

 

 腹立たしい答えだった。

 しかし、嫌いではない。何年後に考える、ではない。必要な条件を満たせば乗せる。条件は書かれている。誰かの気分や、次の政権の判断だけでは消せない。

 少なくとも、俺が努力する限り、前へ進める形にはなっていた。

 

「試験はいつだ」

 

「明日の朝からです」

 

「今日やれ」

 

「到着したばかりです。まず居室へ荷物を――」

 

「荷物なんてない。資料だけだ。今日できるなら今日やる。俺が何を知っていて、何を知らないのか、さっさと調べろ。三年かかると言ったが、一年で終わらせれば文句はないだろう」

 

 担当者は、しばらく俺を見つめた。

 やがて、わずかに笑う。

 

「アズラエル様から、あなたはそう言うだろうと聞いております」

 

「あいつ、何様のつもりだ」

 

「投資家ではないでしょうか」

 

 やはり、嫌な奴だ。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。