【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムルタ・アズラエルを乗せた旅客船が、サイド1の港を離れていった。
展望窓の向こうで、白い船体がゆっくりと方向を変える。船尾の噴射光が点り、徐々に速度を上げていく。最初は外壁を覆うほど大きく見えていた船も、やがて港湾施設の照明に紛れるほど小さくなった。
次の目的地は、
豊かなコロニーの中にある貧困を調べる。
投資先を見つける。
問題があれば、そこには需要がある。
あいつは最後まで、そんなことを言っていた。
「変な奴だったな」
俺が呟くと、隣に立っていた教育機関の担当者が顔を向けた。
「ムルタ・アズラエル様のことでしょうか」
「ほかに誰がいる。世界一の金持ちになるだの、札束で現実を殴るだの、大真面目な顔で言いやがる。十億ドルも持っているくせに、十億ドルしかないとも言っていた。金持ちっていうのは、ああいう意味の分からない奴ばかりなのか」
「私もアズラエル様と直接お話ししたのは、今回が初めてです。しかし、木星開発へ民間資本を呼び込んだ功績については、率直に感謝しております」
「まだ一ドルも届いていないだろう」
「契約交渉が始まっただけでも大きな変化です。これまでも木星開発へ関心を持つ投資家はいました。しかし、船舶、資源、保険、居住、教育、医療を一つの事業として結びつけようとした方はいませんでした」
担当者は、言葉を選ぶように続けた。
「それに、あなたを計画の中心候補として扱った方も、これまではいなかったのでしょう」
「候補だ。代表じゃない」
「当然です。あなたは十二歳ですから」
こいつも同じことを言う。
「ムルタも十二歳だ」
「アズラエル様は、すでに大学を卒業し、複数の事業で実績を出されています」
「それが何だ。俺は木星のことなら、あいつより知っている」
「だからこそ、あなたには木星以外を学んでいただきます」
担当者は、俺へ一枚の端末を差し出した。
そこには、これから受ける教育課程が表示されていた。
基礎数学。応用物理。航法。船舶機関。生命維持設備。放射線医学。閉鎖環境心理学。
会計。経営。法律。組織管理。
俺は途中まで読み、顔を上げた。
「何年かかる」
「全課程を通常どおり受講すれば、基礎だけで三年。その後、船団実習と専門教育があります。ただし、アズラエル様からは、あなたの知識と能力を試験し、修得済みの分野については短縮するよう要請されています」
「三年?」
「短縮される可能性はあります」
「ふざけるな。俺は木星へ行くために来たんだ。サイド1の教室へ座り、地球圏の連中が作った教科書を三年読むためじゃない。あいつも結局、ほかの大人と同じじゃないか。今は早い。準備が必要だ。将来考える。その言葉で何年も待たせ、最後には計画そのものを消す」
担当者は、俺の怒鳴り声を黙って聞いていた。
周囲にいた職員がこちらを見ている。
どうせ、また面倒な子供が騒いでいると思っているのだろう。
それでも構わない。黙っていれば、何もなかったことにされる。
大人は、黙っている人間を納得した人間として扱う。俺は、それをよく知っている。
「クラックス・ドゥガチ君」
「何だ」
「木星へ行くだけなら、教育は必要ありません」
意外な答えだった。
「なら、すぐ船へ乗せろ」
「貨物船へ密航する方法を探せばよい。あるいは、低賃金の作業員として乗員募集へ応募する。健康状態に問題がなく、最低限の訓練を受ければ、数年以内に木星航路へ乗れる可能性はあります」
「だったら――」
「しかし、あなたが望んでいるのは、ただ木星へ行くことではないのでしょう」
担当者の声が強くなった。
「あなたは会場で、木星へ街を作ると言った。人間が住み、働き、子供を育て、年を取り、自分たちで船を修理し、次の船まで作れる社会を築くと言った。そして、その大きな組織の頂点に自分が立つとも言った」
「言った。それがどうした」
「船の機関が故障した時、あなたが怒鳴れば直るのですか。食料計画を誤り、備蓄が不足した時、野心を食べれば乗員の腹が膨れるのですか。放射線障害が発生した時、自信があれば患者を治療できるのですか」
「専門家を使えばいい」
「誰が本当の専門家か、あなたは何を基準に判断します。二人の技術者が正反対の意見を述べた時、どちらを採用します。医師が居住区の拡張を止めろと言い、経営担当者が止めれば資金が尽きると言った時、あなたは何を優先します」
「それを決めるのが俺だ」
「だから学ぶ必要があります」
担当者は、俺の目をまっすぐ見た。
「指導者が、すべての専門家より詳しくなる必要はありません。それは不可能です。しかし、何も知らなければ、声の大きい者、地位の高い者、あなたへ都合のよい答えを出す者に従うしかなくなる。知らなかったでは済みません。木星では、あなたの判断が人間の生死へ直接つながるのです」
ムルタも、似たようなことを言っていた。
一人分の酸素消費量。食料備蓄。船体修理に必要な部品。乗員の健康状態。資金繰り。地球圏との契約。細かい判断の積み重ねが、人を生かしも殺しもする。
俺は木星を知っている。
地球圏の役人よりも調べた。
会場にいた企業家よりも、本気で行くつもりだった。
だが、船を動かしたことはない。医療も知らない。
会計は、資料を作るために最低限覚えただけだ。
「三年も待てない」
「アズラエル様も、それは理解されています」
「何が分かる。あいつは十二歳で十億ドルを稼いだ。待たなくても、欲しいものを買える人間だ」
「ですから、アズラエル様は条件を付けています。基礎試験に合格し、安全教育を修了した段階で、木星往還船の実習航海へ参加させるよう交渉する、と」
俺は端末を奪うように受け取った。教育計画の下に、小さな文字で特別条項が書かれている。
必要な資格を取得した場合、木星航路船へ実習生として推薦する。
実習中も教育を継続する。現地調査の結果を、木星開拓計画へ反映する。
「本当に乗せるつもりなのか」
「契約が成立すれば」
「いつだ」
「あなた次第です」
腹立たしい答えだった。
しかし、嫌いではない。何年後に考える、ではない。必要な条件を満たせば乗せる。条件は書かれている。誰かの気分や、次の政権の判断だけでは消せない。
少なくとも、俺が努力する限り、前へ進める形にはなっていた。
「試験はいつだ」
「明日の朝からです」
「今日やれ」
「到着したばかりです。まず居室へ荷物を――」
「荷物なんてない。資料だけだ。今日できるなら今日やる。俺が何を知っていて、何を知らないのか、さっさと調べろ。三年かかると言ったが、一年で終わらせれば文句はないだろう」
担当者は、しばらく俺を見つめた。
やがて、わずかに笑う。
「アズラエル様から、あなたはそう言うだろうと聞いております」
「あいつ、何様のつもりだ」
「投資家ではないでしょうか」
やはり、嫌な奴だ。