【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
最初の試験結果は、悪くなかった。
航路知識、木星圏の衛星、既存の船団計画、資源需要については、教官が驚くほど点を取れた。
数学と物理も、独学にしては十分だと言われた。
一方で、医療、法律、組織管理は壊滅的だった。
会計も、収入と支出を計算する程度ならできるが、減価償却、長期債務、保険引当、資本構成といった話になると、さっぱり分からない。
「こんなもの、会計士に任せればいい」
俺が言うと、担当教官は首を横へ振った。
年齢は五十歳前後。木星航路への乗船経験もあるらしい。
顔の左側には、古い放射線治療の痕が残っていた。
「会計士へ任せることと、会計士の言葉を理解できないことは違う。金が足りないと言われた時、本当に足りないのか、誰かが盗んでいるのか、無駄な設備を作ったのか、将来必要になる投資なのか、自分で判断できなければならない」
「俺が信用できる会計士を選ぶ」
「何を基準に信用する」
担当教官は、腕だ、と短く答えた。
「腕をどう見抜くってんだ」
また同じ話かよ。
「お前たちは、何でも俺が知らないことを前提にするな」
「知らないことがあるのは当然だ。私にもある。問題は、知らないことを恥じて隠すか、知っている者へ尋ねられるかだ」
「俺は知らないなら聞く」
「自分より身分が低い者にも?」
当然だろう。それくらいの分別はある。
「自分が嫌いな者にも?」
正しいなら聞くさ。
「君が間違っていると言われても?」
俺は答えなかった。
人に楯突くことは好きだが、楯突かれることは好きではなかった。
教官は続けた。
「大きな組織の頭になりたいのであれば、最も優秀な人間になる必要はない。最も詳しい技術者にも、最も腕のよい医師にも、最も正確な会計士にもなれないからだ。指揮官に必要なのは、誰が本当に詳しいのかを見抜き、その言葉を聞き、必要なら自分の判断を撤回する能力だ」
「俺が一番正しければ、撤回する必要はない」
「自分が常に一番正しいと考える指揮官は、必ず自分へ都合のよい報告しか受け取れなくなる」
教官は、机の上へ三枚の資料を置いた。
「木星航路で起きた過去の事故報告だ。一件目は、機関部の異常を若い整備員が報告した。しかし、船長は経験の浅い者の意見だと無視した。二件目は、医師が乗員の疲労を理由に作業中止を求めたが、責任者は日程の遅れを恐れて続行させた。三件目は、食料消費量の計算違いを会計担当者が指摘したが、計画責任者は自分の数字を訂正しなかった」
結果はどうなったんだ。
「一件目は機関火災。二件目は作業事故。三件目は帰還航路の途中で厳しい配給制となり、乗員の健康に深刻な影響が出た」
単に全員、馬鹿だっただけだろうが。
「彼らも、決定した時には自分が正しいと思っていた」
ムルタの言葉を思い出す。
権力を持つ者は、自分が馬鹿になった時に備える必要がある。
俺は、あの時は馬鹿な話だと思った。自分が馬鹿になる前提で組織を作るなど、弱い人間の発想だ。
だが、事故を起こした連中も、自分は馬鹿ではないと思っていた。
「だから、俺の決定へ反対できる奴を置けと言うのか」
「それだけでは足りない。反対した者が不利益を受けない制度も必要だ。君が怒鳴り、左遷し、仕事を奪う可能性があるなら、誰も本当のことを言わなくなる」
「俺はそんなことをしない」
「今は、そう思っているだろう」
腹が立った。
ムルタも、カーディアスも、この教官も、全員同じことを言う。今の自分が善人でも、二十年後は分からない。今は裏切らないと思っていても、権力を持てば変わるかもしれない。
人間を信用していない。自分自身すら信用していない。
「お前らは、自分を疑ってばかりでよく前へ進めるな」
「疑うことと、動かないことは違う」
「間違えるかもしれないと思うなら、何も決められないだろう」
「反対だ。間違えた時に直せる仕組みがあるから、決められる」
教官は、俺の答案を指した。
「君は木星へ行く。私は、それを止めるつもりはない。むしろ、行ってほしいと思っている。しかし、君一人の確信へ何千人もの命を預けるつもりもない。その違いを理解しろ」
俺は資料を手に取った。三件の事故報告。
どれも、自分は正しいと思った人間が起こしている。
正確には、異常を指摘した者の声を聞かなかった人間が起こしていた。
「分かった」
担当教官がこちらをじっと見つめる。
「全部納得したわけじゃない。だが、事故を避ける方法としては覚える価値がある。次の授業は何だ」
「会計だ」
「一番くだらない奴か」
「船を飛ばすにも、空気を作るにも、くだらない金が必要になる」
それは知っている。
金がなければ、船は飛ばない。計画は消える。
家族の人生も、紙一枚で変えられる。
父が木星船団へ参加すると決まったのは、俺が七歳の時だった。
父は船舶機関の技術者だった。大きな会社の社員ではない。木星往還船を整備する企業から仕事を請け負う、小さな下請け会社で働いていた。仕事は安定していなかった。
木星計画へ予算がつけば忙しくなり、政府が支出を減らせば仕事が消えた。
それでも、父は木星航路へ憧れていた。
「地球圏の中だけで仕事を取り合っていても、先はない」
父は、古い航路図を俺へ見せながら話した。
「木星には資源がある。これからコロニーが増えれば、エネルギーはもっと必要になる。誰かが行かなければならない。最初は大変だろうが、街ができれば仕事も増える。お前が大人になる頃には、木星生まれの子供がいるかもしれないぞ」
「俺も行けるのか」
「家族帯同の計画が通ればな」
「木星には何があるんだ?」
「今は、ほとんど何もない」
「何もないのに行くのか」
「何もないから作るんだ」
その言葉が好きだった。何もないから、作る。誰も行かないから、自分が行く。父は、木星船団の機関要員候補へ選ばれた。
正式な乗員ではない。訓練を終えた後、最終選考を受ける予定だった。
それでも家族は喜んだ。
母は、長期間の航海に備えた健康診断を受けた。俺も閉鎖環境生活の適性検査を受けた。
家族帯同が認められた場合に備え、地球圏の家を引き払い、船団関係者向けの居住区へ移った。父は仕事を減らし、訓練へ通った。収入は落ちた。
訓練費用の一部は自費だった。
それでも、父は笑っていた。
「先に払う金は、未来を買う金だ」
ムルタが、投資について話した時と似たことを言っていた。
未来へ先に金を渡す。父も、自分の時間と金を、木星で暮らす未来へ渡していた。
計画が中止されたのは、その二年後だった。
政権が変わった。
木星開発予算は、費用対効果が不明確だと批判された。新型船の建造計画は凍結。家族帯同案も廃止。乗員候補の訓練は中止となった。
届いたのは、一枚の通知だった。事業計画の再検討に伴い、派遣計画を凍結する。
それだけだった。
父が二年間何を諦めたのか。母がどれほど不安を抱えながら準備したのか。俺が学校を変わり、友人と別れたことも。通知を書いた人間には関係がなかった。
計画は再検討する。将来的に再開する可能性がある。
関係者の努力へ感謝する。そんな言葉も書かれていた。
だが、仕事は戻らなかった
。
父が以前勤めていた下請け会社は、木星計画を当て込んで設備投資をしていた。予算が消えたことで、会社も傾いた。訓練へ参加するために仕事を減らしていた父は、真っ先に契約を切られた。
借金だけが残った。父は、別の仕事を探した。
木星航路へ行くために学んだ技術は評価されたが、年齢と空白期間を理由に正規雇用を断られた。
以前より安い賃金で、短期の整備仕事を転々とした。
「また計画は始まる」
父は、しばらくそう言っていた。
「木星が必要になることは変わらない。今の連中が分からなくても、いつか別の人間が再開する」
だが、計画が再開されても、父が候補へ戻ることはなかった。
新しい船団は、別の企業が受注した。
新しい基準が作られた。以前の訓練記録は、一部しか引き継がれなかった。
父には、年齢制限があった。決めた人間は困らない。予算を削った政治家は、次の政策を語る。契約を打ち切った企業の幹部は、別の事業へ移る。再開を決めた役人は、新しい計画を自分たちの成果として発表する。
困るのは、いつも決定を知らされるだけの人間だった。
だから俺は、決める側へ行くと決めた。
木星へ行く。街を作る。
誰かの予算で始まり、誰かの都合で消える一時的な計画にはしない。
地球圏が金を出さなくても、生きていける社会を作る。そして、その頂点に自分が立つ。
そうすれば、二度と紙一枚で人生を壊されない。