【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
教育機関へ入って三日目、俺は正式な契約書を渡された。
厚い。
数え切れないほど条項がある。
「もっと簡単に書けなかったのか」
俺が言うと、契約担当者は真面目な顔で答えた。
「長期間の事業ほど、想定される問題が多くなります。特に今回は、地球圏と木星圏の関係、未成年者への教育投資、将来設立される組織の権利まで含まれています」
「まだ組織もないのに、こんなものを決めるのか」
「組織ができてからでは、力を持った者に有利な条件へ変えられる可能性があります」
また、俺のことを疑っている。契約書には、俺の義務が細かく書かれていた。教育課程を受ける。定期報告を提出する。資金の使用目的を記録する。重大な事故、契約違反、不正を隠さない。
木星開拓組織を、自分の私有財産として扱わない。生命維持設備の停止を、単独で決定しない。
現地住民の代表を、意思決定機関へ参加させる。労働者の移動、退職、地球圏への帰還を不当に制限しない。
「俺を犯罪者か独裁者だと思っているのか」
「将来、誰が代表になっても適用される規則です」
「俺が代表になる」
「その予定であっても、組織はあなた個人ではありません」
気に入らない。俺が作る。
俺が木星へ行く。
俺が人を集める。それなのに、最初から自分の好きにできないようにされている。
契約書を読み進める。
そこで、妙なことに気づいた。
制限されているのは、俺だけではない。ムルタ側にも、同じくらい細かな義務がある。地球圏側の投資家は、木星側の同意なく生活必需品の価格を急激に引き上げられない。資源価格が下落した場合も、最低購入量を一方的に減らせない。
赤字を理由に即時撤退できない。撤退する場合は、十分な移行期間と補償を設ける。木星側の設備を、投資回収のために勝手に売却できない。教育、医療、生命維持に関する予算を、配当より優先する期間を定める。
「どうして、金を出す側まで縛られている」
「アズラエル様の指示です」
「普通、契約は金を出す奴が得するように作るものじゃないのか」
「アズラエル様も利益を得られます。将来的な資源購入権、事業持分、配当、関連企業の参入権などが認められています」
「だったら、もっと有利にできただろう」
「長期的に見れば、これが有利だとお考えなのでしょう」
「意味が分からない」
担当者は、別の資料を開いた。
「アズラエル様から、契約設計に関する方針が届いております」
「何と書いてある」
「現在の自分が木星を対等な投資先として扱う意思を持っていても、二十年後も同じとは限らない。自分が死んだ後、後継者が木星を収奪対象と考える可能性もある。したがって、個人の善意ではなく、木星側が権利を主張できる契約と組織を作る必要がある、と」
「自分の会社なのに、自分が信用できないのか」
「ご自身を含め、全員を疑うとおっしゃっていました」
自信満々に世界一の金持ちになると言うくせに。自分の判断が間違うことを前提にする。
俺には、やはり理解できない。
「そんなに自分を疑っていて、どうして大金を動かせる」
「疑っているからこそ、失敗した場合に修正できる形で動かすのではありませんか」
ムルタは、契約書の中に自分の敵を作っている。将来の自分が木星を裏切ろうとした時、止めるための敵だ。
俺にも同じものを押しつけている。将来の俺が木星の人間を自分の所有物と思った時、止めるための制度。
腹立たしい。だが、契約書に書かれた地球側の義務を見ていると、不思議と嫌ではなかった。父を木星へ送るはずだった計画には、こんな契約はなかった。
予算が消えれば終わり。企業が撤退すれば終わり。訓練を受けた人間がどうなるのか、誰も責任を負わない。
ムルタの契約は違う。失敗しても、借金を俺や木星へ押しつけない。計画をやめるなら、事前に知らせる。
地球圏側にも損失を負わせる。少なくとも、紙一枚で全てを消せないようにしようとしている。
「アズラエル様を信用されますか」
担当者が尋ねた。
「信用していない」
「では、契約を拒否しますか」
「違う。あいつを信用していなくても続くように、この契約があるんだろう」
担当者は少し驚き、それから頷いた。
「そのとおりです」
契約書へ署名した。
クラックス・ドゥガチ。
まだ何者でもない、十二歳の名前だった。
「お前が一番分からない」
俺が言うと、カーディアス・ビストは露骨に嫌そうな顔をした。
契約の確認に来たらしい。正確には、ムルタから頼まれたわけでもないのに、勝手に様子を見に来た。本人は友人としての観察だと言っている。監視と同じだと思う。
「突然、何の話だ」
「ムルタは分かる。金持ちになって、金がなくて困っている奴の前へ金を積む。やり方は気に入らないが、何をしたいかは分かる。俺も分かる。木星へ行き、街を作り、決める側になる。だがお前は、何がしたいのか分からない」
「僕自身も、まだ明確には決めてないさ」
「巨大な財団がある。船も、金も、人脈もある。それを全部捨てたいと言っている。俺が欲しくても手に入らないものを、お前は邪魔な荷物みたいに扱っている」
カーディアスは、すぐには答えなかった。
窓の外に広がる人工の街を見た。
「持っているものを、自分の意思で使えないなら、それは財産ではないのではないか?」
「使えばいいだろう」
「僕が使う前に、僕の使い道を家が決めるんだよ。誰と会い、何を学び、どこへ行き、誰と結婚するか。僕自身の名前を呼ばれる前に、ビスト家の人間として値踏みされる」
「贅沢な悩みだ」
「だろうね」
カーディアスは否定しなかった。
「何も持たない者から見れば、理解できないと思う。だが、力があれば自由になるとは限らない。自分で扱えないほど巨大な力は、人間を持ち上げるのではなく、その下へ押し潰すこともある」
「だったら、扱えるようになれ」
「ははは、簡単に言うね」
「ムルタはやっている。家の金も名前も使って、それでも自分のやりたいことをしている。お前も同じようにすればいい」
「本人も、家に縛られていると言っているけどな」
「縛られながら動いているだろう。お前は縛られるのが嫌だから、何もしないで逃げようとしている」
カーディアスの目が細くなった。
怒ったかもしれない。だが、知ったことではない。
「俺の父親は、木星へ行くために仕事も家も変えた。計画が消えた時、何も残らなかった。決める力がなかったからだ。お前は決める側へ行ける場所にいる。それを捨てると言う。俺には理解できない」
「君は、組織の頂点に立てば自由になれると思っているのか?」
「少なくとも、紙一枚で人生を変えられる側にはならない」
「反対に、紙一枚で他人の人生を変える側にななるんだぞ?」
「俺は、勝手に計画を消したりしない」
「今はそう思っている」
「お前も同じことを言うのか」
「ムルタが言っていたからではないさ。僕は財団で、組織のためと言いながら、自分の立場を守る人間を見てきた。最初は誰かを救うために作られた制度でも、管理する者の権力を守る道具へ変わることがある」
「俺は違う!」
「それを証明するために、契約と制度が必要なんだよ」
俺は机の上に置いた契約書を指した。
「これか」
「ああ。お前が間違えた時、止める者を残す。君へ反対した人間が、生きていけるようにする。君がいなくても、木星の社会が続くようにする」
「俺がいなくても続くなら、俺は必要ないじゃないか」
口にしてから、胸の奥を見透かされたような気がした。カーディアスは、すぐに答えなかった。少し考え、静かに言う。
「お前は……必要とされたいんだな」
「悪いか」
「悪くはない。悪くはないさ。僕も、自分を一人の人間として必要としてほしいと思っているのだから。ビスト家の人間としてではなく、カーディアスとして」
「なら、分かるだろう」
「分かるからこそ、危険だと言っているんだ。自分が必要とされ続けるために、相手が自立することを邪魔する可能性がある」
「そんなことはしない」
「今は、だろう?」
全員、そればかりだ。俺は椅子へ深く座り、カーディアスを睨んだ。
「だったら、お前が見ていろ」
「ほう、何をだい?」
「俺が木星で何をするか。ムルタは数字を見ると言った。お前は、人間の扱いを見るんだろう。俺が木星の連中を自分の所有物みたいに扱ったら、止めに来い」
「木星は遠いなあ」
「手紙くらい送れる。お前は金持ちなんだから、船も出せるだろう」
「僕を勝手に財団当主へしないでくれ」
「なるかもしれないんだろう」
「ならない」
「ムルタは、お前が向いていると言っていた」
「あの少年の人物評価が常に正しいとは限らんさ」
「本人に言ってやれ」
カーディアスは、小さく笑った。
「では、報告書を送ってくれ。ムルタへ出す数字だけのものとは別に。木星で誰が意見を言えているか。誰が不利益を負っているか。君が誰の話を聞かなかったか。そこまで書いてくるんだ」
「自分の意見を聞かなかった話を、わざわざ書けと言うのか」
「書けないなら、君は自分の間違いを認められないということだな」
「性格が悪いな」
「君たちほどではないよ」
「ムルタと一緒にするな」
「あははははは、僕も同じことを言ったな」
少しだけ、こいつのことが分かった気がした。
何もしたくないのではない。自分の名前で何かをしたい。だが、ビストという名前が大きすぎて、自分の意思が見えなくなっていた。
「使えるようになれ」
俺は言った。
「……何だ?」
「財団をだ。ムルタみたいに。家がお前を使う前に、お前が家を使え。捨てるのは、それからでも遅くない」
「簡単に言ってくれるな」
「木星へ街を作るより簡単だろう」
「そりゃあ、比較対象がおかしい」
カーディアスは呆れたように言った。
それでも、完全には否定しなかった。