【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第42話 木星へ行く少年④(裏:クラッスス・ドゥガチ)

 数日後、ムルタから最初の資金が届いた。巨額ではない。教育費、生活費、調査費。船を建造できる金額でも、木星へ街を作れる金額でもなかった。だが、約束どおりだった。

 言葉だけではない。契約があり、金が動いた。木星が、夢から事業へ変わった。

 同時に、ハワードという男が教育機関を訪れた。

 ムルタの秘書らしい。船に乗ったはずでは、と聞くと、一部の契約手続きのためにサイド1へ残った職員から引き継ぎを受けに来たという。

 本人はすぐムルタを追うらしい。

 

「聞きたいことがある」

 

 俺が言うと、ハワードは端末から目を上げた。

 

「契約内容についてでしょうか」

 

「あいつは、いつからあんな金の亡者なんだ」

 

「坊ちゃまのことでしょうか」

 

「ほかに誰がいる」

 

「私が存じ上げる限り、幼少期からでございます」

 

「十億ドルも持っているのに、まだ世界一になりたいのか。金なんて、木星へ行くために必要だから集めるものだろう。持っているだけで何が楽しい」

 

「坊ちゃまにとって、資産額は目的であると同時に、手段でもあります」

 

「どう違う」

 

「世界一の富豪になるという目標そのものが、坊ちゃまを前へ進ませています。しかし同時に、金が不足しているために誰かが選択肢を失うことを、ひどく嫌われます」

 

「金持ちの道楽じゃないのか」

 

「道楽で十億ドルを稼げるのであれば、それは才能と呼んで差し支えないかと存じます」

 

 真顔で言う。

 ムルタの周りには、変な人間しかいないのかもしれない。

 

「どうして俺へ金を出した」

 

「坊ちゃまが、あなたに価値を認められたからです」

 

「俺が木星へ行きたいと言ったからか」

 

「それだけではないでしょう。木星を資源採掘場ではなく、人間が暮らす社会として考えておられた。坊ちゃまは、そこを高く評価されたのだと思います」

 

「俺が失敗したら」

 

「坊ちゃまが損をなさいます」

 

「怒るだろうな」

 

「大変お怒りになるでしょう」

 

「金を失ったことに?」

 

「それもございます。しかし、失敗そのものより、報告を隠した場合の方が、強く叱責されるかと存じます」

 

「なぜだ」

 

「失敗は、次の判断に利用できます。隠蔽された失敗は、同じ事故を繰り返させます」

 

 父の計画が中止された時、詳しい説明はなかった。

 なぜ費用が増えたのか。どこで計算が狂ったのか。誰が中止を決めたのか。何を直せば再開できるのか。

 何も分からなかった。

 ただ、凍結するという通知だけが届いた。

 

「失敗しても、金は送り続けるのか」

 

「条件によります。契約違反、不正、改善の意思がない場合は停止されます。しかし、事業上避けられない損失や事故であれば、再建のための追加投資を検討されるでしょう」

 

「俺たちへ借金を負わせないと書いてあった」

 

「成功時に利益を得る者が、失敗時の危険も負うべきだと、坊ちゃまは考えておられます」

 

「馬鹿じゃないのか」

 

「同様の感想を抱かれる方は、少なくありません」

 

「お前はどう思う」

 

 ハワードは、少しだけ考えた。

 

「坊ちゃまは、ご自身の負える以上の責任まで引き受けようとなさる傾向があります。その点は、危ういと考えております」

 

「止めないのか」

 

「止めております」

 

「止まっていないだろう」

 

「そのため、契約書と予定表を作っております」

 

 カーディアスから聞いた話と似ている。

 

「意味があるのか」

 

「少なくとも、坊ちゃまが予定からどの程度外れたかは確認できます」

 

 俺は笑った。ハワードの口元も、わずかに緩んだ。

 

「クラックス様」

 

「様はいらない」

 

「では、クラックス。坊ちゃまは、あなたの成功を当然とは考えておられません」

 

「信用していないということか」

 

「反対です。失敗する可能性を含めて、投資されています」

 

「どう違う」

 

「必ず成功すると考えることは、相手を見ることではありません。自分の期待を押しつけているだけです。坊ちゃまは、あなたが間違える可能性も、途中で迷う可能性も承知した上で、それでも木星へ向かう人間だと判断されたのでしょう」

 

 あいつは、俺が何者になるかへ金を出した。カーディアスも、似たことを言っていた。

 まだ何者でもない俺へ。木星へ行ったこともない。船団を率いたこともない。学校すらまともに通っていない。

 それでも、俺が木星へ社会を作る人間になると判断した。

 

「変な奴だ」

 

「否定はいたしません」

          ◇

 最初の報告書を書くことになった。契約上の義務である。教育課程の進捗。試験結果。改善した計画。必要な追加調査。問題点。

 端末の画面へ、文字を入力していく。

 

『木星開拓計画第一回報告』

 

『基礎試験を受けた。航路、木星圏、機関知識は問題ない。医療、法律、会計は不足していると評価された』

 一度止まり、会計の文字を見る。

 

『会計はくだらないと思っていたが、金がなければ船が飛ばないため、必要性は認める』

 これでいい。

 

『俺の最初の計画は、放射線防護、医療、教育、予備船の費用が不足していた。修正した結果、必要資金が当初の約三倍になった』

 

 腹立たしい。計画を現実へ近づけるほど、金がかかる。

 最初は、船と食料と採掘設備があれば何とかなると思っていた。人間が住むなら、病院がいる。子供が生まれるなら、学校がいる。船が壊れるなら、予備がいる。一つ増やせば、それを維持する人間と設備が必要になる。

 

『金が余計にかかる。世界一の金持ちになると言った以上、ちゃんと稼げ』

 

 書いてから、少し考える。報告書として適切ではないかもしれない。

 だが、あいつなら気にしないだろう。

 

『教官は、俺が自分の判断を疑う必要があると言った。お前やカーディアスと同じだ。まだ完全には納得していない。ただし、反対意見を無視した船長が事故を起こした事例は理解した』

 

『将来の組織には、代表へ反対した人間が不利益を受けない制度を入れる。俺が間違っていると判断した時、止める権限も作る。ただし、誰でも好き勝手に止められる形にはしない。そこは俺が決める』

 

 最後の一文は、また文句を言われるだろう。

 その時は、また話せばよい。以前なら、自分の計画へ他人の口を挟ませるつもりはなかった大人たちは、木星へ行けない理由ばかり並べた。俺の案を直すのではなく、最初から相手にしなかった。

 ムルタは違った。ほぼ全部駄目だと言った。計算が甘い。医療がない。教育がない。船が少ない。

 それでも、だからやめろとは言わなかった。直せばよいと言った。金を出すと言った。

 あいつの文句は、計画を止めるためではない。

 木星へ届かせるための文句だった。

 

『次に会う時までに、俺は木星へ行ける人間になっている。お前も、世界一の金持ちへ近づいていろ。木星を買えるくらいにな』

 

 そこで、手が止まった。

 あいつは、木星を買うつもりはないと言っていた。植民地ではなく、投資先にする。豊かにして、自分も儲ける。細かい違いだ。

 俺には、まだ同じに思える。

 最後に署名を入れる。

 

『クラックス・ドゥガチ』

 

 それだけで十分だ。

 送信しようとして、指が止まった。名前を呼べば友達になる。

 宇宙のどこにも、そんな決まりはない。子供でも信じないような、馬鹿げた理屈だ。だが、説明会にいた大人たちは、俺を名前で呼ばなかった。少年。部外者。参加資格のない者。騒ぎを起こす子供。木星へ行きたいと言っているだけの、現実を知らない馬鹿。

 

 ムルタだけが、クラックスと呼んだ。

 話を聞けと言った。資料を見せろと言った。計画には価値があるが、そのままでは破綻すると言った。俺がまだ何者でもないうちに、俺が何者になるかへ金を出した。なら、一度くらいは、あいつの馬鹿げた決まりへ付き合ってやってもいい。

 署名の前へ文字を追加した。

 

『友人、クラックス・ドゥガチ』

 

 書いた瞬間に恥ずかしくなった。消そうと指を動かす。

 その時、端末が反応した。

 

『送信しました』

 

「待て!」

 

 誰もいない部屋で叫んだ。

 取り消し操作を探す。すでに受信先へ到達している。再送して訂正することはできる。

 だが、それも余計に恥ずかしい。

 

「くそっ」

 

 端末を机へ置いた。窓の向こうには、サイド1の人工の夜が広がっている。星に見える小さな照明。その外側には、本物の宇宙がある。

 さらに遠くに、木星がある。まだ遠い。船もない。街もない。俺には、金も、知識も、人脈も足りない。

 父が行けなかった場所だ。父の人生を壊した計画よりも、さらに大きなものを作ろうとしている。失敗するかもしれない。

 途中で金が足りなくなるかもしれない。船が壊れるかもしれない。人間同士で争うかもしれない。俺自身が間違えることも、あるのかもしれない。

 

 それでも、昨日までとは違う。金を出すと言った奴がいる。間違えたら止めると言った奴がいる。名前を呼び、友達だと言った奴がいる。

 そして俺の知らないところで、俺が間違えた時に備える契約まで作っている。嫌な奴だ。傲慢で、細かくて、人の計画へ勝手に口を出し、自分だけは十二歳でも例外だと言い張る。

 

 だが、信用できる嫌な奴だった。木星は、もう夢ではない。

 必要資金が当初の三倍に増え、教育課程と契約条件と報告義務がついた、面倒な事業になった。夢より、事業の方がずっと信用できる。

 夢は、誰かが目を覚ませば消える。事業は、契約と金と人間が続く限り、前へ進む。

 

「待っていろ、木星」

 

 誰もいない部屋で言った。

 

「俺が行く。今度は、誰にも計画を消させない。地球圏の都合で、人の人生を紙屑みたいに扱わせない。俺が、そこへ街を作る」

 

 そして、いつか。

 ムルタへ、あの時の金を百倍にして返す。

 世界一の金持ちを目指すというなら、木星の利益くらい受け取ってもらわなければ困る。もっとも、あいつなら百倍では足りないと言うかもしれない。友人価格だから、審査は厳しい。そう笑う顔が、簡単に想像できた。俺は再び端末を手に取った。

 送った報告書の末尾には、まだその言葉が残っている。

 

『友人、クラックス・ドゥガチ』

 

 訂正はしなかった。

 

 名前を呼べば友達になる。宇宙のどこにも、そんな決まりはない。ならば、俺たちが最初になればよい。何もない場所へ、最初に何かを作る。

 

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