【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
第43話 ようこそ、豊かな
それらはそれぞれ決められた航路を正確に進みながら、巨大な宇宙港へ吸い込まれるように集まり、暗い宇宙空間の中へ幾筋もの光の流れを描いている。
サイド1の港も十分に活気があったが、ルウムは船の数も航路の密度も一段上であり、単なる交通の集中ではなく、地球圏全体の物資と人間と資本がここを経由して動いていることを、窓の外の景色だけで理解できた。
「素晴らしいですね。あれだけの船が同時に動いていると、港湾使用料や燃料代、整備費、保険料、倉庫代、宿泊費、通信費まで、金の流れる音がこちらまで聞こえてくるようです」
僕が展望窓へ近づきながら言うと、後ろにいたハワードは端末から顔を上げ、いつものように表情を変えないまま答えた。
「それはおそらく、坊ちゃまにしか聞こえない種類の音かと存じます。一般の旅行者であれば、まず航行灯の美しさやコロニー群の壮観さを話題になさるでしょう」
「景観が美しいことは認めますが、美しさを維持するにも金が必要です。あれだけの船が行き交っている以上、その背後には必ず決済と契約と保険があります」
僕には、船体の光だけでなく、その背後を流れている数字まで見えるようだった。
どの船が何を運び、どこで金を払い、誰が危険を負い、誰が利益を得ているのかを考えるだけで、まだ港へ着いてもいないというのに、いくつもの事業案が頭の中へ浮かんでくる。
「サイド5は、地球圏でも最大級の経済規模を持つコロニー群です。人口、金融取引、貨物取扱量、企業本社数のいずれも上位であり、地球連邦政府や地球系財閥との関係も強く、造船、精密機器、金融、物流などの産業が集中しております」
ハワードは、僕の興奮を抑えるように事実だけを淡々と説明しながら、今回の滞在予定を端末へ表示した。
「ヤシマ系の企業もありますか。地球圏の重工業へ強い影響力を持つ以上、木星開発やコロニー設備の更新にも関わる余地がありそうです」
「複数ございます。ほかにも、コロニー公社系企業、月面資本、地球の旧財閥系企業、そしてルウムで成長した現地資本が複雑に入り組んでおりますので、提携先を選ぶだけでも相応の調査が必要になるでしょう」
実に魅力的である。
サイド1では、人類が宇宙へ最初に築いた社会が、設備の老朽化という未来の問題へ直面していたが、ルウムでは成長を続ける経済が、どのような繁栄と、どのような歪みを同時に生み出すのかを見ることができる。
僕は端末へ表示された滞在予定を確認し、中央金融街、宇宙港運営会社、造船所、精密機器企業、コロニー間保険市場といった予定の中に、エンデュミオンという名を見つけた。
古い神話に登場する、月の女神に愛された美しい青年の名を持つコロニーであり、月を離れた直後にその名を聞いたという単純な理由から、僕が半ば物見遊山で訪問先へ加えた場所だった。
……というのは表向きの理由で、ガンダムSEED好きだったからなんとなく気になっただけである。
「坊ちゃま、エンデュミオンの視察経路について、現地側から変更の提案が届いております。旧居住区を外し、中央商業区と上流住宅区を中心にご案内したいとのことです」
「旧居住区を外したい理由は、何と説明されていますか」
「旧居住区は観光客や投資家へお見せする場所ではなく、治安や衛生の面でも安全を保証できないため、という説明です」
なるほど。
問題がないのであれば、見せればよい。
見せたくないということは、少なくとも誰かに知られたくない事情があり、それが単なる古さや景観の悪さだけではない可能性が高い。
「では、旧居住区も見ましょう。中央区や上流住宅区だけを見ても、すでに成功している事業の説明を受けるだけになりそうです」
「そうおっしゃると思っておりましたので、すでに護衛の増員と移動経路の確認を始めております」
「なら、なぜ僕へ報告したのです」
「坊ちゃまが現地側の提案を明確に拒否されたという記録を残すためでございます。後になって、こちらが勝手に予定を変更したと主張されては困りますので」
ハワードは何事もなかったように端末へ入力を続けており、僕がまた危険な場所へ行きたがっているとでも考えているらしい。
「僕は危険な場所へ行きたいのではなく、隠されている場所を確認したいだけです。危険そのものを目的にしているように扱わないでください」
「危険だからではなく、隠そうとしているから関心を持たれたことは理解しております。その結果として危険へ近づかれる点を懸念しているだけでございます」
そのとおりなので、反論しにくい。
「護衛を増やしてください。現地警察だけに頼るのは避けた方がよいでしょう」
「すでに手配しております。現地側へ事前に知らせすぎれば、見せたくないものを移動させる可能性もございますので、こちら独自の確認も進めております」
仕事が早い。
船内放送が入港準備を告げ、窓の外ではルウムを構成するコロニー群が、人工の星のように明るい光を放っていた。
この頃のルウムは、本当に平和だった。
貧困も犯罪もあり、企業間の争いや地球連邦政府への不満も確かに存在していたが、それでも人々は、翌日も街が存在することを疑わず、人工の朝が来れば仕事へ向かい、人工の夜が来れば家族のもとへ帰っていた。
僕自身もまた、この巨大で豊かなコロニー群が、いつか戦争と結びつけて語られることになるなど想像すらしておらず、当時の僕にとってルウムとは未来を恐れる場所ではなく、未来へ投資する価値を持つ場所だった。
入港後、僕たちはルウム自治政府と商工会議所の歓迎を受け、宇宙港の貴賓区画には企業経営者、行政官、報道関係者が整然と並び、僕が船から降りた瞬間に、いくつもの撮影機器が一斉にこちらを向いた。
「ムルタ・アズラエル様、サイド5へようこそお越しくださいました。サイド1では木星開発事業の立ち上げへ関与されたと伺っておりますので、ルウムの企業にもぜひ参加の機会をいただきたいと考えております」
最初に歩み寄ってきたのは、自治政府の経済担当者であり、年齢は四十代ほど、隙のない身なりとよく訓練された笑顔から、企業と投資家を迎える仕事へ長く携わってきた人物であることが分かった。
「まだ事業の骨格ができた段階であり、参加条件も具体的な投資額も決まっていません。木星へ人と船を送り出すだけではなく、現地へ社会を作ることまで含めて考えていますので、単純な資源開発とは異なります」
「もちろん承知しております。しかし、ルウムには造船、金融、保険、物流のすべてがございます。木星航路のような大事業へ参画する地域として、これほど適した場所はありません」
相手は自信に満ちており、実際にそれだけの産業集積があることも事実なのだろう。
「お話は伺います。ただし、木星を地球圏企業の資源採掘場にするつもりはありません。現地の医療、教育、産業、自治へ再投資することを、参加条件へ含める予定です」
「それは当然の配慮でしょう。開発地域の生活環境を整えることは、長期的な事業継続のためにも必要です」
担当者は笑顔を崩さず答えたが、ほんの一瞬だけ反応が遅れた。
当然であるなら、即答できたはずであり、言葉としては賛成していても、利益配分の詳細へ入れば別の顔を見せる可能性がある。
それでよい。
最初から全員の利害が一致する事業など存在せず、問題は対立そのものではなく、対立を隠したまま、弱い側だけへ損失を押しつけることだった。
歓迎の一団と挨拶を交わしながら宇宙港の中央区画へ移動すると、内部には巨大企業の広告、地球産の高級品を扱う商店、月面ブランドの衣服、高速艇の販売案内、さらに木星開発を題材とした金融商品までが並び、仕立てのよい服を着た人々が広い通路を行き交っていた。
「景気がよいですね。投資を呼び込むだけでなく、金を使わせる仕組みまで非常によくできています」
「ルウムは、努力した者が成功できる場所です。地球系企業だけでなく、宇宙で生まれた起業家も数多く成功しており、出身に関係なく能力と意欲があれば豊かになれることが、サイド5の実績によって証明されております」
「素晴らしい理念です。出発地点が違っても、能力によって上へ進める社会であるなら、投資家としても人材を見つけやすい」
「理念だけではなく、実績がございます。実際に、ほかのサイドから移住し、短期間で成功した者も少なくありません」
その時、通路の端で小さな騒ぎが起き、一人の男が複数の警備員に取り押さえられているのが見えた。
男の服装は汚れ、荷物もほとんど持っておらず、仕事を紹介すると言われて来ただけだと必死に訴えていたが、通行人の多くは足を止めようともせず、日常の風景として通り過ぎていく。
「何があったのです?」
「無登録の求職者でしょう。ルウムは仕事が多いため、ほかのサイドから大勢の人間が集まりますが、身元保証も資格もなく、正規の手続きを通さず仕事を求める者もおりますので、治安維持のため一定の管理が必要です」
「登録には、何が必要ですか」
「身分証、居住証明、保証人、そして所定の手数料です。正式な雇用を希望するのであれば、まず居住地を確定し、職業紹介業者を通じて手続きを進める必要があります」
「住居を借りるには安定した収入が必要で、仕事を得るには居住証明が必要になるのではありませんか。職業紹介業者との契約にも、保証人か前金が必要でしょう」
担当者は、ほんの少しだけ笑顔を硬くした。
「個別の事情までは、私も把握しておりません。行政としては、正規の手続きを用意しておりますので、それを利用していただくほかありません」
努力した者が成功できるという言葉は、きっと嘘ではない。
問題は、努力を始める場所へ立てる者と、立てない者がいることだった。
身分証がない、住所がない、保証人がいない、手数料を払う金がないという条件は、それぞれが次の条件を満たすための障害となり、能力と意欲があっても競争へ参加する資格そのものを与えられない人間を生み出す。
ムルタ・アズラエルは十二歳で十億ドルを稼いだと世間では評価されているが、僕には家も教育も最初の資金もあり、前世の僕にはそのどれもなかった。
同じ人間でも、出発地点が違えば、できることはまるで変わる。
「エンデュミオンでは、旧居住区も必ず見せてください。中央区だけを案内されても、ルウム全体を理解したことにはなりません」
「治安上の問題がございます。投資家の方に、わざわざ不快な場所をご覧いただく必要はないかと考えております」
「投資先を探しに来ています。すでに成功している場所だけを見ても、僕の役割はありません。豊かな場所に貧困があることは、豊かさが偽物だという意味ではありませんが、問題を隠そうとする姿勢は僕の評価を下げます」
担当者はすぐに返答できず、後ろにいたハワードが端末へ何かを記録しているのが見えた。
「分かりました。ただし、現地警備を増員し、単独行動はなさらないでください。旧居住区では行政の目が届きにくい場所もあり、安全を保証できません」
「善処します。必要な護衛は受け入れますが、行政が見せたい場所だけを見るつもりはありません」
「坊ちゃま、守るとは言っておられませんね。危険な行動をなさる予定がないことと、予定にない危険へ近づかれることは別の問題です」
ハワードがすぐに口を挟んだので、僕は少しだけ視線を逸らした。
予定に書いていないのだから、仕方がないではないか。