【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
翌日、僕たちは同じサイド5の中を移動する短距離船へ乗り、エンデュミオンへ向かった。
窓の外に見えるコロニーは、ほかと同じ銀色の円筒に過ぎなかったが、内部へ入ると、その名にふさわしい美しい都市が広がっていた。
中央区には大きな人工湖があり、水面には月を模した巨大な照明が映り込み、その周囲には劇場、美術館、高級ホテル、金融機関の本社が整然と並んでいた。
街路樹は丁寧に剪定され、道路にはごみ一つ落ちておらず、人工の夜になると照明の色が青白く変わり、街全体が月光へ包まれたように見えるという。
「眠れる月の都と呼ばれております。エンデュミオンは金融と芸術の両方で発展してきた街であり、地球の文化を宇宙へ継承しながら、宇宙独自の生活様式も作り上げてまいりました」
現地の案内役は、人工湖とその周囲の建物を誇らしげに示しながら説明した。
「美しい街ですね。人工湖の水質管理、気候調整、植栽、照明、建物の補修、警備まで含めれば、維持費も相当な額になるでしょう」
「その感想を最初に口にされたお客様は、アズラエル様が初めてです。多くの方は、まず景観や芸術性を評価されます」
「美しさは無料ではありません。誰かが費用を負担し、管理し続けることで成立している以上、支出構造を知ることは重要です」
案内された金融街では、コロニー間決済、宇宙船向け保険、富裕層向け医療、低重力環境へ対応した高級住宅、宇宙生まれの芸術家を支援する基金など、いくつもの投資案件が紹介された。
どれも利益が見込め、実際に僕の能力もいくつかの案件へ高い価値を示していたが、説明を受けながら、僕は案内役の言葉よりも街の構造を注意深く見ていた。
駅には行き先によって異なる改札があり、中央区と上流住宅区へ向かう路線は明るく、警備員も多く配置されている一方で、工業区と旧居住区へ向かう路線は入口が狭く、照明も暗かった。
乗客の服装にも明確な違いがあり、中央区では高価な衣服を着た者が多いのに対し、旧居住区方面の改札には作業着や古い服を着た人々が並び、警備員はそちらの乗客だけを頻繁に呼び止めている。
「身分証の確認ですか」
「治安維持のためです。旧居住区から中央区への窃盗や無許可営業が問題になっておりますので、住民の安全を守るため、一定の確認は必要です」
「中央区の住民が旧居住区へ行く場合も、同じように確認するのですか」
「そのような移動は、あまりございません。中央区の住民が旧居住区へ向かう必要は、通常ほとんどありませんので」
答えになっていない。
「では、そろそろ旧居住区へ行きましょう。中央区の説明だけでは、同じコロニーの中で人々がどのように暮らしているのか分かりません」
「本日の予定では、この後に美術館と造船企業の研究施設を視察いただくことになっております。旧居住区は視察の準備が整っておらず、突然の訪問は現地住民へも混乱を与える可能性があります」
「住民は、準備が整っていない状態で毎日暮らしているのでしょう。僕だけ整えられた景色を見る必要はありません」
「少なくとも、行政と警察へ連絡する時間をいただけませんか。治安の悪い区画もあり、事前の警備なしにご案内することはできません」
「連絡すれば、見せたくないものを片づけるのではありませんか。そのような対応が行われないと言い切れますか」
案内役は黙り込み、少し離れていたハワードが近づいてきた。
「坊ちゃま、護衛配置の確認に十五分だけお時間をください。その間、現地側へすべてを任せるのではなく、こちらからも行政へ連絡し、視察範囲を限定されないよう調整いたします」
「十五分なら待ちます。連絡後に、急に道路が清掃されたり、住民が移動させられたりしないよう確認してください」
「承知しました。すでに旧居住区の複数地点へ人員を向かわせておりますので、大規模な隠蔽が行われれば記録できます」
実に頼もしい。
「では、十五分後に出発します」
案内役は、諦めたように長く息を吐いた。
中央区から旧居住区までは列車で二十分もかからなかったが、駅を降りた瞬間、同じコロニーの中とは思えないほど周囲の雰囲気が変わった。
もちろん、本当に酸素濃度が急激に違うわけではないが、湿気、機械油、十分に処理されていない生活排水、安価な合成食品、狭い区画で大勢が暮らす人間の生活臭が混ざり合い、中央区の清潔で無臭に近い空気とは明らかに異なっていた。
照明は暗く、何本かは不規則に点滅し、壁には何度も補修された跡が残り、配管や電線がむき出しになっている。
中央区では企業広告の映像が流れていた場所に、ここでは手書きの求人や借金の広告が貼られていた。
『即日雇用・保証人不要』
『住居付き・前借り可能』
『未経験歓迎・高収入』
どれも前世で見た危険な求人に似ており、条件がよすぎる仕事には、雇う側にとって都合のよい事情が必ず隠されている。
「ここも、本当に同じエンデュミオンなのですね。中央区から二十分で来られる距離とは思えません」
「建造時期の古い区画であり、設備更新が追いついていないため、低所得者や新規移住者が多く暮らしています。ただし、自治政府も改善計画を段階的に進めております」
「その改善計画は、いつから始まっているのですか。予算と完了予定も教えてください」
「段階的に進めておりますので、正確な開始年や完了時期までは、私も把握しておりません」
段階的、検討中、将来的という言葉は便利であり、何も進んでいなくても、前へ動いているように聞こえる。
通りの端には正式な許可を受けていないらしい小さな市場が広がり、住民たちは再利用品、安価な食料、修理部品を並べ、狭い通路で声を張り上げながら客を集めていた。
子供の姿も多く、荷物を運ぶ者、客へ声をかける者、大人の代わりに露店を守る者が目立ち、学校へ通う時間であるにもかかわらず、働くことが当然のように街へ組み込まれている。
「義務教育は、ここでも実施されているのですよね」
「学校はございます。ただし、家庭の事情で通えていない子供もいるのでしょう」
「行政は把握していないのですか」
「全住民を常に把握することは困難です。特に、正規の登録をせず移り住む者も多く、戸籍や住所が確認できない場合、行政サービスの対象として処理できません」
登録がないから支援できない。
支援がないから登録に必要な条件を満たせない。
制度へ入れない人間が、その制度へ入るための助けも受けられないという、見事な循環だった。
住民たちは高価な服を着て護衛を連れた僕たちを遠巻きに見ており、明らかにこの場所の人間ではないと判断しているものの、誰も助けを求めようとはしなかった。
僕が金を持っているからといって、彼らがすぐに信用するわけではなく、過去に何度も助けると言って去っていった人間を見てきたのかもしれない。
通りを歩いていると、後ろで護衛の一人が鋭く声を上げた。
「止まれ!」
小さな人影が僕の横をすり抜け、群衆の中へ飛び込んだ。
「何がありました」
「坊ちゃまの上着へ手を伸ばし、何かを抜き取りました」
僕はポケットを確認した。
財布も端末も残っているが、来訪者用の小型認証札がなくなっていた。
「追います。子供の可能性が高いので、怪我をさせないよう注意してください」
「承知しました」
護衛たちがすぐに動き出し、僕も後を追おうとすると、ハワードが腕をつかんだ。
「坊ちゃまはこちらでお待ちください。盗まれた認証札の停止手続きを行い、護衛に回収させます」
「僕の認証札ですし、何より、あの子供が財布ではなく認証札だけを取った理由が気になります。逃走経路も確認したいので、僕も行きます」
「投資案件を見るような言い方をなさらないでください。窃盗犯の追跡は、坊ちゃまご自身がなさる仕事ではございません」
しかし、実際に興味があった。
あの子供は偶然僕を狙ったのではなく、護衛の位置を見て、案内役が住民へ呼び止められた瞬間を選び、僕の上着のどこに認証札があるかまで理解していた。
しかも財布ではなく認証札だけを取ったということは、目的が金ではなく、移動や入場権限である可能性が高い。
「ハワード、あの認証札で何ができますか」
「中央区へ移動する改札を通過でき、本日中に限り複数の商業区画や医療区画へ入場できます。訪問者用ですので、一般住民より移動範囲が広く設定されております」
「では、目的は中央区への移動ですね。金ではなく、入場資格が必要だったということです」
「その可能性が高いことは認めますが、だからといって坊ちゃまが追跡へ加わる必要はございません」
「護衛を前に出し、僕は後ろから行きます。認証札を失ったまま中央区へ戻れば、手続きも面倒でしょう」
「理由として弱すぎます」
それでもハワードは、僕が止まらないと理解したらしい。
護衛を二人前へ出し、残りを僕の周囲へ配置し直すと、青い顔をしている案内役を振り返った。
「アズラエル様、警察へ任せるべきです。旧居住区の路地は複雑で、危険な集団が潜んでいる場所もあります」
「子供一人を捕まえるために、警察がどれほど早く動くのです。正式に届け出た場合、何時間後に捜索が始まりますか」
案内役は答えなかった。
僕たちは、子供が消えた路地へ入った。