【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
路地は人一人が通れるほどの幅しかなく、壁から突き出した配管と、天井近くへ違法に増設された電線の間を縫うように進まなければならなかった。
子供はその狭い空間を迷いなく走り抜け、訓練された護衛たちが追っているにもかかわらず、距離はほとんど縮まらない。
相手は小柄で、成人では通れない隙間を使えるだけでなく、この街の階段、保守通路、市場の屋根、行き止まりの位置まで完全に理解しているようだった。
「左です。正面の通路は先ほど市場から見えましたし、中央区方面へ抜けるなら、左の階段から上層通路へ出る可能性が高い」
「坊ちゃまが、追跡対象と似た思考をなさることへ、私は少し不安を覚えます」
「合理的に考えているだけです。逃げる側が最も安全で短い道を選ぶなら、経路はある程度予測できます」
左へ曲がり、金属製の階段を上ると、上層の保守通路へ出た。
ちょうど子供が手すりを乗り越え、下の市場の屋根へ飛び移ろうとしているところだった。
「止まりなさい。そこから落ちれば怪我をします」
護衛が叫ぶと、子供は振り返って舌を出した。
明るい金色の髪をした、小柄な少年であり、年齢は六歳ほどに見えたが、動きは驚くほど素早く、足場の不安定さを恐れている様子もない。
「止まれって言われて止まる馬鹿がいるかよ。近づいたら、そのまま下へ飛ぶからな!」
「待ってください。認証札が必要なら、理由を話してください。正当な理由があれば、取り返すために追い回すより、貸した方が安全です」
「金持ちが、知らないガキへ自分の札を貸すわけないだろ。捕まえて警察へ渡すつもりのくせに、近づくための嘘をつくな!」
「盗まれるより契約した方が、双方にとって安全だと言っているだけです。利用目的、返却時間、損害が出た場合の扱いを決めれば、無断で持ち去る必要はありません」
「けいやく?」
子供の動きが一瞬止まり、護衛が距離を詰めようとしたので、僕はすぐに手で制した。
「止まってください。話している間は、無理に捕まえないでください」
子供は警戒しながら僕を見ている。
「その認証札で中央区へ行くつもりでしょう。財布を取らず、移動権限だけを盗んだ以上、金ではなく入場資格が必要だったと考えるのが自然です」
「だったら何だよ。金持ちの街を、一度くらい見に行ったっていいだろ」
「六歳ほどの子供が、盗んだ認証札で中央区を観光するのですか」
「俺は八歳だ!」
「それは失礼しました。栄養状態がよくないため、実際の年齢より小さく見えたようです」
「そういう言い方も失礼だろ!」
元気である。
少なくとも、極端に病弱というわけではなさそうだった。
「八歳の子供が、盗んだ認証札で観光へ行くのですね。それなら、なおさら同行者が必要でしょう」
「言い直せばいいって話じゃねえ! それに、あんたと一緒に行ったら、何を買っても後で十倍にして返せとか、働いて返せとか言うんだろ」
「十倍にはしません。返済条件を求めるのであれば、事前に金額と期限を説明します。借りたものを返すこと自体は、当然の話です」
「ほら、やっぱり返させる気じゃねえか。金持ちっていうのは、何かするたびに値段をつけるんだな」
子供はしばらく僕を睨み、それから不審そうに首を傾げた。
「お前、本当に金持ちか?」
「その質問は失礼ではありませんか。少なくとも、君よりは多くの資産を持っています」
「だって、金持ちのくせに話が細かすぎる。もっとこう、好きなだけ使えとか、困ってるならくれてやるとか、偉そうに言うもんだろ」
「そのような金の使い方を続けていれば、すぐに金持ちではなくなります。与える場合でも、何のために使い、どういう結果を求めるかは確認します」
「子供のくせに、しゃべり方がおっさんだな」
「僕は十二歳です」
「嘘つけ。戸籍見せろ」
「必要なら取り寄せましょうか」
「ますますおっさんだ!」
なぜだ。
後ろでハワードが小さく息を吐いたので、笑っているのかもしれない。
「名前を教えてください。僕だけが名乗らずに質問するのは不公平でしょう」
「先に名乗れよ。金持ちは礼儀も知らないのか」
「ムルタ・アズラエルです」
子供の表情が変わった。
「十億ドルのガキ?」
「その呼び方は好きではありません。十億ドルという数字だけで、人間全体を説明されたくはありません」
「本当にガキだったのか。ニュースじゃ、もっと偉そうに見えたぞ」
「先ほどから十二歳だと言っています。映像は撮り方で印象が変わります」
子供は、まじまじと僕を見つめ、やがてほんの少しだけ警戒を緩めた。
「ムウ」
「それが名前ですか」
「ムウ・ラ・ラメー。変な名前だって言ったら、札は返さないからな」
知らない名前だった。いや、なんか惜しいような気もするのだが。
もちろん、宇宙には何十億もの人間がいるのだから、僕が知らない名前であることは何も不思議ではない。
「ムウ・ラ・ラメー。認証札を返してください。必要な理由があるなら、話を聞いた上で対応します」
「嫌だ。言ったら助けるのか」
「内容によります。事情を知らずに、何でも助けると約束することはできません」
「ほらな。助けるって最初から決めてないじゃないか」
「事情を知らずに約束し、できないことをできると言って期待させた後で撤回する人間の方が無責任です。僕は、できることとできないことを確認してから答えます」
ムウの目から、ほんの少しだけ子供らしい軽さが消えた。
「薬がいる」
「誰の薬ですか」
「弟のだ。旧居住区の店は高いし、偽物を売る奴もいる。中央区の病院なら、本物がある」
「診察を受ければよいでしょう。薬だけを買うより、安全です」
「身分証がない。俺にはあるけど、あいつにはないから、病院へ行っても追い返される」
「あいつとは、弟のことですか。今どこにいます」
「言うわけないだろ。場所を教えたら、役人が来て連れていく」
「病院へ?」
「施設だよ。子供だけで暮らしてるって分かると、すぐに別々の施設へ入れる。病気の奴は病院、元気な奴は矯正施設、それぞれ専門の場所へ送るのが正しいんだって、役人はいつも言うんだ」
「親は、どこにいます」
「いない」
短い答えだったが、その言い方には、これ以上聞かれたくないという強さがあった。
死んだのか、逃げたのか、捨てたのかは分からない。
今は追及しない方がよい。
「薬の名前は分かりますか。以前に処方された記録や診察記録はありますか」
「薬の名前は分かる。記録なんてない。熱が出て、咳が止まらなくて、明るい場所を嫌がる。前に診た医者は、ちゃんと検査しろって言ったけど、金がないからそれっきりだ」
診断もないまま、薬だけを買おうとしている。
危険だった。
「僕の認証札を使って中央区へ入れても、正式な処方記録がなければ薬は買えません。金を払えば売る人間がいるとしても、それは正規の薬局ではないでしょう」
「本物なら何でもいい。旧居住区で売ってる偽物よりはましだ」
「本物かどうか、君に判断できますか。効能が同じでも、量を間違えれば危険です」
ムウは答えなかった。
「案内してください。弟を診察させます。君たちを勝手に引き離さないことも約束します」
「約束なんて信用できるか。大人はみんな、最初は大丈夫だって言って、あとから決まりだから仕方ないって言うんだ」
「では、契約書を作ります。口約束を信用しないのであれば、書面へ条件を書き、僕が帰った後も有効にします」
「弟を病院へ連れていくだけで契約書を作るのかよ!」
「口約束より書面の方がよいのでしょう。君が疑う条件を、最初からすべて書けばよい」
ムウは頭を抱えた。
「やっぱりお前、絶対おっさんだろ」
「十二歳です」
「中身がだよ!」
核心を突かれた気がする。
もちろん、前世の記憶があることを話すつもりはない。
「ムウ、ここで時間を使っている間にも、弟の症状は悪化するかもしれません。僕を信用できないという判断は後でもできますが、治療が遅れた時間は取り戻せません」
僕が真面目に言うと、ムウは唇をかみ、足場の向こうへ視線を逸らした。
強がっているが、不安なのだろう。
「護衛は二人だけにしろ。大勢連れていったら、みんな逃げる」
「三人です。僕の安全も考えてください」
「ここは俺の街だ。危ない場所は俺の方が分かってるし、三人も連れていったら目立ちすぎる」
「それでも三人です。ハワードも同行します」
「そいつ、強いのか」
「秘書です。武力より、交渉と記録を担当します」
「役に立たねえじゃん」
「ムウ・ラ・ラメー」
後ろからハワードの冷たい声がした。
「私は少なくとも、子供に認証札を盗まれたまま、何もできずに立っているだけの人間ではございません」
「こいつ、怒ってるのか。顔が全然変わってないぞ」
「少しだけ怒っています。いつものことです」
ムウはしばらく迷った後、足場から戻ってきたが、認証札はまだ返さず、僕たちが約束を破った場合の人質として持っておくつもりらしい。
「妙なことしたら逃げるからな。弟へ勝手なことをしたら、今度は財布も盗る」
「逃走経路を塞ぐよう、護衛へ指示しておきます。財布を狙うのであれば、さらに警戒も増やします」
「そういうことは黙ってやれよ!」
ムウは怒鳴りながら、路地の奥へ歩き始めた。