【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムウが案内した場所は旧居住区のさらに下層にあり、もともとは倉庫として使われていた広い区画を、薄い板や再利用した金属で細かく仕切り、無許可の住居として使っているようだった。
正式な水道設備はなく、違法に引かれた細い配管から水を得ており、電気も不安定で、天井の照明は何度も暗くなっては戻ることを繰り返していた。
「ここで、子供だけで暮らしているのですか。ほかに大人はいないのです?」
「ほかにも住んでる奴はいるけど、俺たちは俺たちで暮らしてる。大人に頼ったら、金を取られるか、どこかへ売られるか、役人に通報されるだけだ」
「家賃は、誰へ払っているのですか」
「ここの管理人。月末までに払えなかったら追い出すって言うけど、正式な契約なんてないから、急に値上げされても文句は言えない」
契約がないから、いつ追い出されても異議を申し立てられない。
だが、契約がないから行政の住宅支援も受けられない。
住民として確かにここへ存在しているのに、制度の上では存在しないことにされている。
僕たちは奥の小さな部屋へ入り、薄い布の上に一人の子供が横になっているのを見つけた。
年齢はムウと同じくらいに見え、淡い金色の髪をしていたが、顔色は悪く、照明を嫌うように目元へ布をかけている。
「ラウ、戻ったぞ。薬はまだだけど、変な金持ちを連れてきた」
ムウが近づくと、子供はゆっくり目を開き、身体を起こそうとして激しく咳き込み、すぐに布の上へ横になった。
「遅かったね。警察に捕まったのかと思った」
「違う。こいつに捕まった。自分も子供だって言い張ってるけど、話し方は完全におっさんだ」
「誰?」
「ムルタ・アズラエルです。無理に起きなくて構いません」
「十億ドルの?」
またそれか。
「どうして、皆その呼び方を知っているのでしょう。僕には名前があります」
「ニュースで見た。十二歳で十億ドルを稼いだって、旧居住区でも話題になってた」
ラウの声は小さく、ムウより落ち着いていたが、こちらを見る視線には強い警戒があり、病気で弱っていても相手の意図を見極めようとしているのが分かった。
「ムウ、認証札を盗んだの?」
「借りただけだ。使い終わったら返すつもりだった」
「無断で借りることを、一般には盗むと言います。返す予定があっても、所有者の同意がなければ窃盗です」
「返すつもりだったって言ってるだろ!」
「いつ返す予定でした?」
「使い終わったら!」
「やはり窃盗です」
「細かいな!」
ラウがほんの少し笑ったが、すぐに咳が出て顔をしかめた。
同行していた医療担当者が近づくと、ラウは身体をこわばらせ、反射的にムウの方へ視線を向けた。
「診察します。触れる前に、何をするか説明しますので、嫌なことがあれば言ってください」
「嫌だ。診察したら、病院へ連れていかれる」
「治療が必要な可能性がありますが、勝手に連れていくことはしません。僕が約束します」
僕が答えると、ラウはこちらへ視線を戻した。
「大人は、いつもそう言う。最初は勝手にしないって言って、あとから決まりだから仕方ないって言う」
「僕は大人ではありません。十二歳です」
「大人みたいに話す」
兄弟で同じことを言う。
「診察の結果、病院での治療が必要になっても、ムウと連絡を取れる状態を維持し、勝手に引き離さないことを契約へ書きます。僕が帰った後も、行政が条件を変えられないようにします」
「その代わり、何をさせるの。働かせる? それとも、あとで治療費を返せって言う?」
「現時点では、治療の対価を求めません。まず事情を調べるためです」
ラウの表情が硬くなった。
「俺たちは、見世物?」
「違います。君たちのような子供が、なぜ地球圏でも特に豊かなコロニーで医療を受けられずに暮らしているのかを知りたい。その原因を直せば、将来の損失を減らせます」
「損失って、俺たちが死ぬと、お金が減るってこと?」
「病気を放置すれば、あとで必要になる治療費は高くなります。教育を受けられなければ、将来得られるはずだった所得や税収も失われ、犯罪へ追い込まれれば治安維持費も増える。子供を放置する社会は、人間だけでなく、金も機会も無駄にしています」
ラウはしばらく僕を見ていた。
「かわいそうだから、じゃないの」
「かわいそうだと思うことと、制度を作ることは別です。哀れみだけなら、僕が帰った後に元へ戻ります。利益や費用の面でも放置する方が損だと示せば、僕がいなくても続ける理由になります」
「役に立つから助ける?」
「将来、君たちが生み出す価値へ投資します。金を稼ぐことだけではなく、誰かを支えること、知識を得ること、自分の生活を守ることも価値に含まれます」
「役に立たなかったら?」
その問いはひどく静かであり、親や大人から何度も役に立たない子供だと言われてきたのではないかと感じさせた。
「子供の段階で投資の成否を判断するほど、僕は短気ではありません。大人になっても何もできなかったとしても、突然売ったり、路上へ捨てたりはしません」
ラウの目がわずかに揺れた。
売るという言葉へ、明らかに反応している。
ムウが僕を睨んだ。
「余計なことを聞くな。ラウは病気なんだ」
「まだ何も聞いていません。今は治療が先です」
「顔が聞いてる」
器用な表現だが、否定はできない。
「名前を教えてください。診療記録へ、本人の名を書く必要があります」
僕が尋ねると、ラウは少し迷い、ムウの顔を見た後で答えた。
「ラウ・ル・ルシエ」
「ラウ・ル・ルシエ。診察だけ受けてください。その後、医師の説明を聞き、何をするか一緒に決めます」
「本当に選べるの?」
「命に関わる場合は、完全に自由とは言えません。人間はすべてを自由に選べるわけではありませんが、何も説明されずに決められることと、必要な情報を得た上で選ぶことは違います」
ラウは目を閉じ、少し間を置いてから頷いた。
「分かった。ムウが近くにいるなら、診てもいい」
医療担当者が診察を始める間、ムウはラウのすぐ隣へ座り、手を握るわけでも、優しい言葉をかけるわけでもないまま、決してその場を離れなかった。
それが二人の関係なのだろう。
「肺炎の疑いがあります。栄養状態もよくありませんので、詳しい検査と治療が必要です。少なくとも、ここへ置いたままでは十分な処置ができません」
診察を終えた医療担当者が言うと、ムウはすぐに立ち上がった。
「病院へ連れていくのか。俺も一緒に行く」
「もちろんです。ただし、児童保護の手続きは必要になる可能性があります」
「だったら行かない。施設へ入れられたら、もうラウと会えなくなる」
「ラウの症状は放置できません。僕が引き離さないと約束しました」
「お前が帰った後はどうする。金持ちは仕事が終わったら別の場所へ行くし、残った役人は決まりだからって俺たちを分けるだろ」
鋭い。
ムウは目の前の治療だけを見ているのではなく、僕がいなくなった後に行政がどう動くかを恐れている。
グラナダで、改革を約束する人間はこれまでにもいたが、彼らはすぐに帰り、残された現場は元へ戻ったと聞かされたことを思い出した。
「では、僕が帰った後も有効な契約を作ります。治療費と保護費用を僕が負担し、行政が君たちを分離しようとするなら、その根拠を法廷で争います。施設が適切でないなら、別の場所を用意します」
「金で?」
「金と法律で。金だけでは人を動かせませんが、弁護士、医師、施設、住居を用意するには金が必要です」
「金持ちは、何でも買えると思ってるんだな」
「何でもとは思いません。ただし、金がないために選択肢を奪われる状況は減らせます。少なくとも、治療を受けるか、兄弟と別れないかのどちらかしか選べない状況にはしません」
ムウは僕を睨んでいたが、その目には、信じたい気持ちと、信じて裏切られることへの恐怖が同時に浮かんでいた。
「ラウが先です。君が僕を信じるかどうかは後で決めてください。まず病院へ行きます」
ムウは長い間黙った後、ラウの顔を見て頷いた。
「俺も一緒だ。ずっと近くにいる。治療室へ入れないなら、見えるところへ置け。勝手に連れていくな」
「医療上入れない場所はありますが、その場合も君へ説明し、見える場所か、すぐ連絡できる場所へいてもらいます」
「約束しろ」
「契約書に書きます」
「そこは普通に約束しろよ!」
元気な怒鳴り声だった。