【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ラウを搬送する準備が始まった時、部屋の外で何かが倒れるような音がし、続いて小さな足音が遠ざかっていった。
ムウの顔色が変わり、僕たちを押しのけるように外へ出た。
「待て、レイ!」
「どうしました」
「レイがいない。さっきまで、この部屋の隅にいたはずだ!」
部屋の隅を見ると、確かにもう一人分の薄い寝具と、小さな食器が置かれていた。
「弟が、もう一人いるのですか」
「弟じゃない。仲間だ。血はつながってないけど、俺たちと一緒に逃げて、一緒に暮らしてる」
「僕たちを見て、怖くなって逃げた可能性は?」
「レイは、勝手に動かない。命令しないと、飯も服も寝る場所も、自分では決めない。俺がここにいろって言ったら、何時間でも同じ場所にいる」
その言い方が気になった。
「その子は、どこから来たのです」
ムウは答えなかったが、外から男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。
「商品が逃げたぞ!」
「出口を塞げ。今度こそ連れ戻せ!」
商品。人間へ使う言葉ではない。
護衛たちが一斉に動き、ムウは顔を歪めた。
「あいつらだ。レイを売ろうとしてた奴らが、見つけたんだ」
「人身売買組織ですか」
「職業紹介会社って名乗ってる。子供を連れていって、住む場所と飯を与えたから借金を返せって言って、働かせ続ける。逃げても、保護者の同意があるって書類を見せて連れ戻す」
路地の奥から複数の大人の足音が近づき、僕の護衛が前へ出た。
「坊ちゃま、ここから離れてください。人身売買組織が武器を持っている可能性があります」
「レイを探します。僕がいなければ、警察や行政との交渉が遅れます」
「ハワード様が対応できます。坊ちゃまご自身が危険へ近づかれる理由にはなりません」
「所有権や債権を主張された場合、僕が買収を提案した方が話は早いでしょう」
ハワードが、わずかに眉を動かした。
「子供を買うおつもりですか」
「違います。相手の会社を買います。帳簿を確認し、違法な契約をすべて調べ、必要なら債権も買い取ります」
ムウが信じられないという顔で僕を見た。
「会社を買うって、そいつらへ金を払うのかよ。悪いことをした奴が得するだけじゃないか」
「金を渡すことと利益を与えることは同じではありません。逃げられないように株式や債権を押さえ、帳簿を開かせるために買うこともできます。違法行為が見つかれば、買収額より大きな責任を負わせます」
路地の向こうに数人の男が現れ、中央にいる男は、怯えた子供の腕を強くつかんでいた。
淡い金髪で、年齢はムウたちと同じくらいに見えるが、表情が乏しく、抵抗する様子もなく、ただ引かれるまま歩いている。
「レイ!」
ムウが叫ぶと、子供は顔を上げた。
「ムウ」
小さな声だった。
「そいつを離せ! レイはお前らのところへ戻らない!」
ムウが飛び出そうとし、護衛が腕をつかんだ。
「放せ! レイを連れていかれる!」
「我々が対応します。あなたが近づけば、人質にされる可能性があります」
「お前らじゃ遅い! あいつらは書類を見せれば、警察だって味方につけるんだ!」
男たちはこちらの護衛を見て足を止め、中央の男が不機嫌そうに声を上げた。
「何だ、あんたら。こいつは、うちの契約下にある労働者だ。逃げたから、正規の手続きに従って連れ戻しているだけだ」
「その子供を離してください。年齢はいくつですか」
「年齢は関係ない。保護者の同意もあるし、養育費と職業訓練費をうちが立て替えている。働いて返す契約だ」
「契約書を見せてください。未成年者へ債務を負わせる根拠と、保護者の本人確認も必要です」
「部外者に見せる義務はない。これは家族と会社の問題だ」
「僕はムルタ・アズラエルです。子供が貨物のように連れられている状況を見て、無関係だとは思えません」
男たちの顔が変わった。
「アズラエル家が、何の用だ。金持ちの道楽で、貧民街の契約へ首を突っ込むな」
「正式な契約であるなら、見せれば済みます。合法性を確認し、問題がなければ相応の対価を支払うこともできます」
男はレイの腕をさらに強く引き、レイは痛がる声すら上げなかった。
「ハワード、この職業紹介会社を調べてください。代表者、株主、債権者、取引先、行政との契約、過去の訴訟をすべて確認し、買収可能性も調査してください」
「すでに照会を開始しております。会社名と登録番号は確認できましたので、関連企業を含めて調べます」
仕事が早い。
「何をするつもりだ。買収だと?」
「あなた方が合法だと主張するのであれば、会社を買って帳簿を確認します。違法でなければ企業価値に応じた対価を支払い、違法であれば、会社を買う前に関係者が逮捕されるかもしれません。その場合は、資産だけを安く取得できます」
「脅しているのか!」
「投資方針を説明しているだけです。違法行為がなければ、恐れる必要はありません」
男は周囲を見回し、逃げ道を探している。
「子供を置いてください」
「こいつには借金がある。飯を食わせ、住む場所を与え、仕事を教えた。返すのが当然だろう!」
「それは子供本人の借金ですか。契約能力のない未成年者へ、一方的に債務を負わせた可能性がありますね」
「親が同意した!」
「では、親の情報も確認します。本人確認、署名時の状況、受け取った対価、債務の計算方法まで、すべて調べます」
レイが初めて僕を見た。
その目には期待も恐怖もなく、ただ次に誰が命令するのかを待っているようだった。
「レイ、こちらへ来たいですか」
僕ができるだけ穏やかに呼びかけると、レイは男を見て、次にムウを見て、最後に僕を見た。
「命令?」
「違います。君が選んでください。その男と行くか、ムウのところへ戻るか、君が決めてよいのです」
「どっちが正しい?」
「正しさではなく、君がどうしたいかです。誰かに褒められる答えではなく、自分が選びたい方を考えてください」
レイは困った顔をした。
選び方そのものが分からないのだ。
「レイ、こっちへ来い!」
ムウが叫ぶと、レイの身体が反射的に動き、男が腕をつかみ直した。護衛が一斉に踏み込み、短い争いの末、武器を持っていた男たちは制圧された。
レイは保護され、ムウのもとへ連れてこられた。
ムウはその小さな身体を強く抱きしめた。
「馬鹿! 勝手に出るなって言っただろ。俺が戻るまで、部屋から動くなって言ったじゃないか!」
「薬が必要だった。ムウが捕まったと思ったから、戻れば薬をくれると言われた」
「だからって、あいつらのところへ戻るな! お前を売る奴らだぞ!」
「売られれば、薬をくれる。ラウが治るなら、それでいいと思った」
ムウは何も言えなくなった。
レイは、自分を売る相手のところへ戻ろうとした。
ラウの薬を得るために。
自分が商品になることを、当然の取引だと思っている。
「レイ、僕はムルタ・アズラエルです。君の名前は、本当にレイでよいのですか」
「ムウが、そう呼んだ」
「君は、その名前が好きですか」
レイはまた困った顔をした。
「分からない。決めないと怒る?」
「怒りません。今すぐ決める必要もありません。君が別の名前を望むなら、その時に考えましょう」
「何て呼ぶの」
「君が決めるまでは、レイと呼びます。嫌なら、嫌だと言ってください」
「嫌って言っていい?」
「もちろんです。理由が分からなくても、嫌だと言って構いません」
レイはしばらく黙り、ムウと、ラウが寝ている部屋を順番に見た。
「レイでいい」
「レイがよい、ではなく?」
質問すると、彼は少し考えた後、もう一度言った。
「レイがいい」
小さな違いだったが、彼自身が初めて選んだ言葉である。
「分かりました。では、レイ。名前を呼んだので、友達ですね」
ムウが目を丸くした。
「何だ、その決まり。宇宙のどこにも、そんな決まりはないぞ」
「宇宙の慣習です。僕も最初はそう思いましたが、友人から教わりました」
「誰だよ、その変な友人!」
「アーサー・ワイズマンです」
「知らねえよ!」
レイは僕を見つめた。
「友達は、命令する人?」
胸の奥が冷えた。
彼にとって、人間関係とは命令する側とされる側しかないのだ。
「違います。友達は、命令を断っても名前で呼んでくれる人です。嫌だと言っても、すぐに売ったり、捨てたりしない人です」
「断っていい?」
「嫌なことは、嫌だと言ってください。理由は聞きますし、必要なら話し合いますが、断っただけで君の価値がなくなることはありません」
レイは頷かなかった。
まだ信用できないのだろう。
当然である。
一度会っただけの金持ちの言葉を、すぐに信じる必要はない。
「ムルタ」
ムウが僕を呼んだ。
「何です」
「こいつら、本当に捕まるのか。警察があいつらの味方だったら、また書類を持って戻ってくるぞ」
「その場合は、警察との関係も調べます。役所がかばうなら、役所も調べます。人身売買が事業として成立しているなら、目の前の男たちだけを捕まえても、別の者が同じことを始めます」
「全部、金でやるのか」
「金だけではありません。証拠、法律、報道、政治との交渉も使います。必要なら会社を買い、帳簿を押さえ、取引先と債権者まで調べます」
「本当に、そこまでやるのか」
「再発を防ぐには、組織全体を壊す必要があります。子供を一人救って終わりでは、次の子供が同じ目に遭います」
ムウは、初めて僕を怖がるような目で見た。
「お前、金持ちっていうより、悪い奴みたいだな」
「失礼ですね。合法的な手段しか使わない予定です」
「敵じゃなくてよかった」
「まだ友人でもありませんよ」
「名前を呼んだら友達なんだろ」
自分から言った。
「では、ムウ・ラ・ラメー」
「何だよ」
「友達ですね」
「今のなし! 説明のために名前を呼んだだけだ!」
「カーディアスも同じことを言いました」
「だから誰だよ、それ!」
ムウが頭を抱え、レイはその様子を不思議そうに見つめ、ラウは部屋の奥で小さく笑っていた。
僕たちの背後では、拘束された男たちが護衛によって連行されていった。