【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第47話 綾波じゃない方のレイ

 ラウを搬送する準備が始まった時、部屋の外で何かが倒れるような音がし、続いて小さな足音が遠ざかっていった。

 ムウの顔色が変わり、僕たちを押しのけるように外へ出た。

 

「待て、レイ!」

 

「どうしました」

 

「レイがいない。さっきまで、この部屋の隅にいたはずだ!」

 

 部屋の隅を見ると、確かにもう一人分の薄い寝具と、小さな食器が置かれていた。

 

「弟が、もう一人いるのですか」

 

「弟じゃない。仲間だ。血はつながってないけど、俺たちと一緒に逃げて、一緒に暮らしてる」

 

「僕たちを見て、怖くなって逃げた可能性は?」

 

「レイは、勝手に動かない。命令しないと、飯も服も寝る場所も、自分では決めない。俺がここにいろって言ったら、何時間でも同じ場所にいる」

 

 その言い方が気になった。

 

「その子は、どこから来たのです」

 

 ムウは答えなかったが、外から男たちの怒鳴り声が聞こえてきた。

 

「商品が逃げたぞ!」

 

「出口を塞げ。今度こそ連れ戻せ!」

 

 商品。人間へ使う言葉ではない。

 護衛たちが一斉に動き、ムウは顔を歪めた。

 

「あいつらだ。レイを売ろうとしてた奴らが、見つけたんだ」

 

「人身売買組織ですか」

 

「職業紹介会社って名乗ってる。子供を連れていって、住む場所と飯を与えたから借金を返せって言って、働かせ続ける。逃げても、保護者の同意があるって書類を見せて連れ戻す」

 

 路地の奥から複数の大人の足音が近づき、僕の護衛が前へ出た。

 

「坊ちゃま、ここから離れてください。人身売買組織が武器を持っている可能性があります」

 

「レイを探します。僕がいなければ、警察や行政との交渉が遅れます」

 

「ハワード様が対応できます。坊ちゃまご自身が危険へ近づかれる理由にはなりません」

 

「所有権や債権を主張された場合、僕が買収を提案した方が話は早いでしょう」

 

 ハワードが、わずかに眉を動かした。

 

「子供を買うおつもりですか」

 

「違います。相手の会社を買います。帳簿を確認し、違法な契約をすべて調べ、必要なら債権も買い取ります」

 

 ムウが信じられないという顔で僕を見た。

 

「会社を買うって、そいつらへ金を払うのかよ。悪いことをした奴が得するだけじゃないか」

 

「金を渡すことと利益を与えることは同じではありません。逃げられないように株式や債権を押さえ、帳簿を開かせるために買うこともできます。違法行為が見つかれば、買収額より大きな責任を負わせます」

 

 路地の向こうに数人の男が現れ、中央にいる男は、怯えた子供の腕を強くつかんでいた。

 淡い金髪で、年齢はムウたちと同じくらいに見えるが、表情が乏しく、抵抗する様子もなく、ただ引かれるまま歩いている。

 

「レイ!」

 

 ムウが叫ぶと、子供は顔を上げた。

 

「ムウ」

 

 小さな声だった。

 

「そいつを離せ! レイはお前らのところへ戻らない!」

 

 ムウが飛び出そうとし、護衛が腕をつかんだ。

 

「放せ! レイを連れていかれる!」

 

「我々が対応します。あなたが近づけば、人質にされる可能性があります」

 

「お前らじゃ遅い! あいつらは書類を見せれば、警察だって味方につけるんだ!」

 

 男たちはこちらの護衛を見て足を止め、中央の男が不機嫌そうに声を上げた。

 

「何だ、あんたら。こいつは、うちの契約下にある労働者だ。逃げたから、正規の手続きに従って連れ戻しているだけだ」

 

「その子供を離してください。年齢はいくつですか」

 

「年齢は関係ない。保護者の同意もあるし、養育費と職業訓練費をうちが立て替えている。働いて返す契約だ」

 

「契約書を見せてください。未成年者へ債務を負わせる根拠と、保護者の本人確認も必要です」

 

「部外者に見せる義務はない。これは家族と会社の問題だ」

 

「僕はムルタ・アズラエルです。子供が貨物のように連れられている状況を見て、無関係だとは思えません」

 

 男たちの顔が変わった。

 

「アズラエル家が、何の用だ。金持ちの道楽で、貧民街の契約へ首を突っ込むな」

 

「正式な契約であるなら、見せれば済みます。合法性を確認し、問題がなければ相応の対価を支払うこともできます」

 

 男はレイの腕をさらに強く引き、レイは痛がる声すら上げなかった。

 

「ハワード、この職業紹介会社を調べてください。代表者、株主、債権者、取引先、行政との契約、過去の訴訟をすべて確認し、買収可能性も調査してください」

 

「すでに照会を開始しております。会社名と登録番号は確認できましたので、関連企業を含めて調べます」

 

 仕事が早い。

 

「何をするつもりだ。買収だと?」

 

「あなた方が合法だと主張するのであれば、会社を買って帳簿を確認します。違法でなければ企業価値に応じた対価を支払い、違法であれば、会社を買う前に関係者が逮捕されるかもしれません。その場合は、資産だけを安く取得できます」

 

「脅しているのか!」

 

「投資方針を説明しているだけです。違法行為がなければ、恐れる必要はありません」

 

 男は周囲を見回し、逃げ道を探している。

 

「子供を置いてください」

 

「こいつには借金がある。飯を食わせ、住む場所を与え、仕事を教えた。返すのが当然だろう!」

 

「それは子供本人の借金ですか。契約能力のない未成年者へ、一方的に債務を負わせた可能性がありますね」

 

「親が同意した!」

 

「では、親の情報も確認します。本人確認、署名時の状況、受け取った対価、債務の計算方法まで、すべて調べます」

 

 レイが初めて僕を見た。

 その目には期待も恐怖もなく、ただ次に誰が命令するのかを待っているようだった。

 

「レイ、こちらへ来たいですか」

 

 僕ができるだけ穏やかに呼びかけると、レイは男を見て、次にムウを見て、最後に僕を見た。

 

「命令?」

 

「違います。君が選んでください。その男と行くか、ムウのところへ戻るか、君が決めてよいのです」

 

「どっちが正しい?」

 

「正しさではなく、君がどうしたいかです。誰かに褒められる答えではなく、自分が選びたい方を考えてください」

 

 レイは困った顔をした。

 選び方そのものが分からないのだ。

 

 

「レイ、こっちへ来い!」

 

 ムウが叫ぶと、レイの身体が反射的に動き、男が腕をつかみ直した。護衛が一斉に踏み込み、短い争いの末、武器を持っていた男たちは制圧された。

 レイは保護され、ムウのもとへ連れてこられた。

 ムウはその小さな身体を強く抱きしめた。

 

「馬鹿! 勝手に出るなって言っただろ。俺が戻るまで、部屋から動くなって言ったじゃないか!」

 

「薬が必要だった。ムウが捕まったと思ったから、戻れば薬をくれると言われた」

 

「だからって、あいつらのところへ戻るな! お前を売る奴らだぞ!」

 

「売られれば、薬をくれる。ラウが治るなら、それでいいと思った」

 

 ムウは何も言えなくなった。

 レイは、自分を売る相手のところへ戻ろうとした。

 ラウの薬を得るために。

 自分が商品になることを、当然の取引だと思っている。

 

「レイ、僕はムルタ・アズラエルです。君の名前は、本当にレイでよいのですか」

 

「ムウが、そう呼んだ」

 

「君は、その名前が好きですか」

 

 レイはまた困った顔をした。

 

「分からない。決めないと怒る?」

 

「怒りません。今すぐ決める必要もありません。君が別の名前を望むなら、その時に考えましょう」

 

「何て呼ぶの」

 

「君が決めるまでは、レイと呼びます。嫌なら、嫌だと言ってください」

 

「嫌って言っていい?」

 

「もちろんです。理由が分からなくても、嫌だと言って構いません」

 

 レイはしばらく黙り、ムウと、ラウが寝ている部屋を順番に見た。

 

「レイでいい」

 

「レイがよい、ではなく?」

 

 質問すると、彼は少し考えた後、もう一度言った。

 

「レイがいい」

 

 小さな違いだったが、彼自身が初めて選んだ言葉である。

 

「分かりました。では、レイ。名前を呼んだので、友達ですね」

 

 ムウが目を丸くした。

 

「何だ、その決まり。宇宙のどこにも、そんな決まりはないぞ」

 

「宇宙の慣習です。僕も最初はそう思いましたが、友人から教わりました」

 

「誰だよ、その変な友人!」

 

「アーサー・ワイズマンです」

 

「知らねえよ!」

 

 レイは僕を見つめた。

 

「友達は、命令する人?」

 

 胸の奥が冷えた。

 彼にとって、人間関係とは命令する側とされる側しかないのだ。

 

「違います。友達は、命令を断っても名前で呼んでくれる人です。嫌だと言っても、すぐに売ったり、捨てたりしない人です」

 

「断っていい?」

 

「嫌なことは、嫌だと言ってください。理由は聞きますし、必要なら話し合いますが、断っただけで君の価値がなくなることはありません」

 

 レイは頷かなかった。

 まだ信用できないのだろう。

 当然である。

 一度会っただけの金持ちの言葉を、すぐに信じる必要はない。

 

「ムルタ」

 

 ムウが僕を呼んだ。

 

「何です」

 

「こいつら、本当に捕まるのか。警察があいつらの味方だったら、また書類を持って戻ってくるぞ」

 

「その場合は、警察との関係も調べます。役所がかばうなら、役所も調べます。人身売買が事業として成立しているなら、目の前の男たちだけを捕まえても、別の者が同じことを始めます」

 

「全部、金でやるのか」

 

「金だけではありません。証拠、法律、報道、政治との交渉も使います。必要なら会社を買い、帳簿を押さえ、取引先と債権者まで調べます」

 

「本当に、そこまでやるのか」

 

「再発を防ぐには、組織全体を壊す必要があります。子供を一人救って終わりでは、次の子供が同じ目に遭います」

 

 ムウは、初めて僕を怖がるような目で見た。

 

「お前、金持ちっていうより、悪い奴みたいだな」

 

「失礼ですね。合法的な手段しか使わない予定です」

 

「敵じゃなくてよかった」

 

「まだ友人でもありませんよ」

 

「名前を呼んだら友達なんだろ」

 

 自分から言った。

 

「では、ムウ・ラ・ラメー」

 

「何だよ」

 

「友達ですね」

 

「今のなし! 説明のために名前を呼んだだけだ!」

 

「カーディアスも同じことを言いました」

 

「だから誰だよ、それ!」

 

 ムウが頭を抱え、レイはその様子を不思議そうに見つめ、ラウは部屋の奥で小さく笑っていた。

 僕たちの背後では、拘束された男たちが護衛によって連行されていった。

 

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