【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第55話 不可能を可能にする男?

 出発の日、エンデュミオンの港は人工の朝を迎えていた。

 中央区から見える街は、到着した日と変わらず美しく、人工湖の水面には白い光が反射し、通勤する人々が整然と駅へ向かっていた。

 旧居住区でも、露店が開き、日雇い労働者が仕事を求めて集まり、子供たちが荷物を運んでいる。

 街は、僕たちが来る前と同じように動いていた。

 一つの会社を買い、数人の男を逮捕させ、三人の子供を保護しただけでは、街全体が変わるわけではない。

 

 それでも、何も変わらなかったわけではない。

 旧居住区には、新しい身分登録窓口を設置する準備が始まり、病院は無登録児童を受け入れる試験制度へ参加し、買収した職業紹介会社では、違法な債務契約の破棄と未払賃金の調査が進んでいた。

 小さな変化である。

 だが、未来はいつも、小さな契約と支払から始まる。

 

「ムルタ!」

 

 搭乗口へ向かう途中、ムウが突然走り出した。

 

「勝手に離れないでください」

 

「見ろよ、あの船!」

 

 彼が指したのは、港の外へ停泊する高速艇だった。

 

「速そうだな。あれなら、どれくらいで別のコロニーへ行ける?」

 

「航路と加速条件によります」

 

「じゃあ! 俺が操縦できるようになるには、何年かかる」

 

「まず基礎教育からです」

 

「また学校かよ!」

 

「文字と計算ができなければ、航法も学べません」

 

「道なら分かる」

 

「宇宙には、路地の壁も市場の屋根もありません」

 

「船があるだろ」

 

「船だけ見て飛べるなら、航法士は必要ありません」

 

 ムウは不満そうに船を見た。

 

「でも、俺ならできる気がする」

 

 その言葉には、根拠のない自信だけではない何かがあった。

 彼は旧居住区で、複雑な街の構造を瞬時に把握し、護衛の死角を読み、逃走経路を選んだ。

 空間認識能力が高いのかもしれない。

 

「では、適性検査を受けてください。結果がよければ、操縦訓練も考えます」

 

「本当か!」

 

「ただし、盗んだ船で練習するのは禁止です」

 

「そんなことしねえよ!」

 

「認証札を盗んだ実績があります」

 

「一回だけだ!」

 

「犯罪者は皆、最初は一回です」

 

「根に持ってるだろ!」

 

 根に持ってはいない。

 記録しているだけである。

 

「そういえば、ムウ」

 

「何だよ」

 

「エンデュミオンの旧居住区で、君はかなり有名だったそうですね。鷹と呼ばれていたとか」

 

 ムウの顔が少し得意げになった。

 

「高いところから街を見て、どこへ逃げればいいか分かるからな。誰かが言い始めたんだ」

 

「エンデュミオンの鷹ですか」

 

「変か?」

 

「いいえ。将来、不可能を可能にする男になれそうな響きです」

 

「何だ、それ」

 

「何となくです」

 

 ムウ・ラ・フラガ。

 エンデュミオンの鷹。

 不可能を可能にする男。

 

 偶然にしては、少し出来すぎている気もする。

 しかし、ここは宇宙世紀である。

 SEEDの人物が、本当に現れるはずはない。

 僕が名前を付けたから、連想が強くなっているだけだろう。

 

「俺は、何でもできるようになる」

 

 ムウは胸を張った。

 

「ラウもレイも、俺が守る。船も動かせるようになって、金も稼ぐ。お前へ借りた分だって返す。へへ、戦闘機のパイロットになるのもいいな」

 

「借金にはしていません」

 

「助けられっぱなしは嫌なんだよ」

 

「では、将来僕の役に立ってください」

 

「何をすればいい」

 

「まだ決めていません」

 

「何だよ、それ」

 

「長期投資ですから」

 

 ムウは、しばらく僕を見た後で笑った。

 

「分かった。お前が困った時に、俺が助けてやる」

 

「頼もしいですね」

 

「絶対だぞ」

 

「覚えておきます」

 

 その時の約束を、僕は軽いものだと思っていた。

 八歳の子供が、十二歳の僕へ返した、精いっぱいの強がり。

 だが、後に僕が本当に追い詰められた時、ムウ・ラ・フラガは、この日の言葉を忘れていなかった。

 もっとも、それはずっと先の話である。

 

 

 船内へ入ると、三人のために用意された部屋があった。

 ムウは窓へ張りつき、ラウはベッドの柔らかさを何度も確かめ、レイは飲み物と服の中から、自分で使うものを選んでいた。

 

「本当に、ここを使っていいのか」

 

 ムウが尋ねる。

 

「契約期間中は、君たちの部屋です」

 

「あとで、部屋代を請求しない?」

 

「しません」

 

「食事代は?」

 

「しません」

 

「服も?」

 

「しません」

 

「学校の金も?」

 

「しません」

 

「やっぱり、裏がある気がする」

 

 ムウは、僕の説明を完全には信用していない。

 それでよい。

 何でも信じるより、疑いながら確かめる方が安全である。

 

「ムルタ」

 

 ラウが呼んだ。

 

「何です」

 

「僕たちは、いつまで一緒にいられるの」

 

「三人が望む限り、引き離すつもりはありません。ただし、成長すれば、それぞれ行きたい場所が変わるかもしれません」

 

「変わっても、家族?」

 

「家族であることと、同じ場所へ住むことは別です」

 

 ラウは少し考えた。

 

「父さんと母さんも、家族だった」

 

「ええ」

 

「でも、俺たちを売ろうとした」

 

「家族だから、必ず善い人間になるわけではありません」

 

「ムウも、いつか変わる?」

 

「変わるでしょう。君も、レイも、僕も変わります」

 

「悪くなるかもしれない?」

 

「あります」

 

「じゃあ、どうすればいい」

 

「悪くなった時に、止められる関係を作るのです」

 

 クラックスへ話したことと同じだった。

 

「嫌だと言えること。間違っていると言えること。離れたい時に離れられること。それでも、戻りたい時に話せること。家族も友人も、縛ることではなく、選び続けることだと思います」

 

 ラウは静かに聞いていた。

 

「ムウへも、嫌って言っていい?」

 

「もちろんです」

 

「聞こえてるぞ!」

 

 窓際からムウが叫んだ。

 

「俺が間違ってたら言え。でも、ラウが間違ってたら、俺も言うからな!」

 

「うん」

 

 ラウが小さく笑った。

 レイも、二人を見ながら言った。

 

「僕も言っていい?」

 

「言え」

 

 ムウは即答した。

 

「嫌って言っても、売らない?」

 

「売るわけないだろ!」

 

「本当に?」

 

「本当だ。何回でも言え」

 

 レイは頷いた。

 僕が教える必要はなかった。

 三人は、すでに家族としての約束を作り始めている。

 

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