【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
出発の日、エンデュミオンの港は人工の朝を迎えていた。
中央区から見える街は、到着した日と変わらず美しく、人工湖の水面には白い光が反射し、通勤する人々が整然と駅へ向かっていた。
旧居住区でも、露店が開き、日雇い労働者が仕事を求めて集まり、子供たちが荷物を運んでいる。
街は、僕たちが来る前と同じように動いていた。
一つの会社を買い、数人の男を逮捕させ、三人の子供を保護しただけでは、街全体が変わるわけではない。
それでも、何も変わらなかったわけではない。
旧居住区には、新しい身分登録窓口を設置する準備が始まり、病院は無登録児童を受け入れる試験制度へ参加し、買収した職業紹介会社では、違法な債務契約の破棄と未払賃金の調査が進んでいた。
小さな変化である。
だが、未来はいつも、小さな契約と支払から始まる。
「ムルタ!」
搭乗口へ向かう途中、ムウが突然走り出した。
「勝手に離れないでください」
「見ろよ、あの船!」
彼が指したのは、港の外へ停泊する高速艇だった。
「速そうだな。あれなら、どれくらいで別のコロニーへ行ける?」
「航路と加速条件によります」
「じゃあ! 俺が操縦できるようになるには、何年かかる」
「まず基礎教育からです」
「また学校かよ!」
「文字と計算ができなければ、航法も学べません」
「道なら分かる」
「宇宙には、路地の壁も市場の屋根もありません」
「船があるだろ」
「船だけ見て飛べるなら、航法士は必要ありません」
ムウは不満そうに船を見た。
「でも、俺ならできる気がする」
その言葉には、根拠のない自信だけではない何かがあった。
彼は旧居住区で、複雑な街の構造を瞬時に把握し、護衛の死角を読み、逃走経路を選んだ。
空間認識能力が高いのかもしれない。
「では、適性検査を受けてください。結果がよければ、操縦訓練も考えます」
「本当か!」
「ただし、盗んだ船で練習するのは禁止です」
「そんなことしねえよ!」
「認証札を盗んだ実績があります」
「一回だけだ!」
「犯罪者は皆、最初は一回です」
「根に持ってるだろ!」
根に持ってはいない。
記録しているだけである。
「そういえば、ムウ」
「何だよ」
「エンデュミオンの旧居住区で、君はかなり有名だったそうですね。鷹と呼ばれていたとか」
ムウの顔が少し得意げになった。
「高いところから街を見て、どこへ逃げればいいか分かるからな。誰かが言い始めたんだ」
「エンデュミオンの鷹ですか」
「変か?」
「いいえ。将来、不可能を可能にする男になれそうな響きです」
「何だ、それ」
「何となくです」
ムウ・ラ・フラガ。
エンデュミオンの鷹。
不可能を可能にする男。
偶然にしては、少し出来すぎている気もする。
しかし、ここは宇宙世紀である。
SEEDの人物が、本当に現れるはずはない。
僕が名前を付けたから、連想が強くなっているだけだろう。
「俺は、何でもできるようになる」
ムウは胸を張った。
「ラウもレイも、俺が守る。船も動かせるようになって、金も稼ぐ。お前へ借りた分だって返す。へへ、戦闘機のパイロットになるのもいいな」
「借金にはしていません」
「助けられっぱなしは嫌なんだよ」
「では、将来僕の役に立ってください」
「何をすればいい」
「まだ決めていません」
「何だよ、それ」
「長期投資ですから」
ムウは、しばらく僕を見た後で笑った。
「分かった。お前が困った時に、俺が助けてやる」
「頼もしいですね」
「絶対だぞ」
「覚えておきます」
その時の約束を、僕は軽いものだと思っていた。
八歳の子供が、十二歳の僕へ返した、精いっぱいの強がり。
だが、後に僕が本当に追い詰められた時、ムウ・ラ・フラガは、この日の言葉を忘れていなかった。
もっとも、それはずっと先の話である。
船内へ入ると、三人のために用意された部屋があった。
ムウは窓へ張りつき、ラウはベッドの柔らかさを何度も確かめ、レイは飲み物と服の中から、自分で使うものを選んでいた。
「本当に、ここを使っていいのか」
ムウが尋ねる。
「契約期間中は、君たちの部屋です」
「あとで、部屋代を請求しない?」
「しません」
「食事代は?」
「しません」
「服も?」
「しません」
「学校の金も?」
「しません」
「やっぱり、裏がある気がする」
ムウは、僕の説明を完全には信用していない。
それでよい。
何でも信じるより、疑いながら確かめる方が安全である。
「ムルタ」
ラウが呼んだ。
「何です」
「僕たちは、いつまで一緒にいられるの」
「三人が望む限り、引き離すつもりはありません。ただし、成長すれば、それぞれ行きたい場所が変わるかもしれません」
「変わっても、家族?」
「家族であることと、同じ場所へ住むことは別です」
ラウは少し考えた。
「父さんと母さんも、家族だった」
「ええ」
「でも、俺たちを売ろうとした」
「家族だから、必ず善い人間になるわけではありません」
「ムウも、いつか変わる?」
「変わるでしょう。君も、レイも、僕も変わります」
「悪くなるかもしれない?」
「あります」
「じゃあ、どうすればいい」
「悪くなった時に、止められる関係を作るのです」
クラックスへ話したことと同じだった。
「嫌だと言えること。間違っていると言えること。離れたい時に離れられること。それでも、戻りたい時に話せること。家族も友人も、縛ることではなく、選び続けることだと思います」
ラウは静かに聞いていた。
「ムウへも、嫌って言っていい?」
「もちろんです」
「聞こえてるぞ!」
窓際からムウが叫んだ。
「俺が間違ってたら言え。でも、ラウが間違ってたら、俺も言うからな!」
「うん」
ラウが小さく笑った。
レイも、二人を見ながら言った。
「僕も言っていい?」
「言え」
ムウは即答した。
「嫌って言っても、売らない?」
「売るわけないだろ!」
「本当に?」
「本当だ。何回でも言え」
レイは頷いた。
僕が教える必要はなかった。
三人は、すでに家族としての約束を作り始めている。