【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ムウ・ラ・フラガ。
首から下げたばかりの身分証に印刷されているその文字を眺めるたび、これが今日から自分の名前なのだと頭では分かっているのに、八年間もムウ・ラ・ラメーとして生きてきたせいなのか。
どこか他人の名前を一時的に借りているような妙な感覚が残っていて、俺は気づけば何度もカードを裏返したり表へ戻したりしながら、本当に自分の顔写真とその名前が一緒に登録されていることを確かめていた。
別に、嫌いな名前ではない。
むしろラメーよりも少し強そうで、船や戦闘機を操縦する奴にでもなった時には似合いそうな響きだと思っているし、ラウが「クルーゼ」という新しい名前を気に入っているのを見れば、自分だけ元の名前へ戻してほしいとも思わないのだが。
それでも自分の父親と、その父親が残した借金や契約までまとめて古い名前の向こう側へ置いてきたのだと考えると……名前というものが単に誰かを呼び分けるための音ではないらしいことくらいは、八歳の俺にも何となく分かった。
「ムウ、さっきからずっとそれ見てるけど、そんなに気になるの?」
向かい側のベッドへ座っていたラウが、病院を退院したばかりとは思えないほど穏やかな顔でこちらを見ており、顔色こそまだ少し白いものの、旧居住区の倉庫で咳き込みながら薄い布へくるまっていた頃と比べれば見違えるほど元気になっていて、洗われた金色の髪と清潔な服まで整えば、何も知らない人間が見ても、つい数日前までまともな医療すら受けられなかった子供だとは思わないだろう。
「見てるんじゃなくて、間違ってないか確認してるだけだよ。あのムルタって奴、変なところでは細かいくせに、名前を決める時だけ完全に自分の趣味だっただろ。俺が意味を聞いた時も『響きがよいので』とか言ってたし、絶対あいつが自分で言いたかった名前を押しつけただけだぞ」
「でも、ムウ・ラ・フラガって、僕はいい名前だと思うよ。前の名前が悪かったわけじゃないけど、何となくこれから先へ進む感じがするし、僕もクルーゼっていう名前は気に入ってる」
「俺だって、別に嫌いじゃねえよ。ただ、あいつ本人へそれを言うのは何か腹立つんだよ。絶対に『では、僕の命名は成功ですね』とか得意そうに言うだろ」
ラウは少し笑ったが、俺は本気だった。
あの十二歳の金持ちは、俺たちを病院へ連れていき、職業紹介会社を調べさせ、最後には会社そのものまで買い取るとか言い出したうえ、気づけば俺たちの戸籍まで作り直していたのだから、普通に考えれば感謝しなければならない相手なのだろうが、それでも何もかも素直に受け入れてしまうのは危険だと、旧居住区で生きてきた俺の感覚が何度も警告していた。
今いる船室もそうだった。
俺たち三人へ用意された部屋は、以前暮らしていた倉庫の一角とは比べること自体が馬鹿らしくなるほど広く、空調からは油や黴の臭いがせず、床には素足で歩いても痛くない柔らかな敷物があり、一人ずつベッドと毛布と枕まで用意されているうえ、朝昼晩の食事まで当然のように出るというのだから、そんな話を何の疑いもなく信じられる方が俺には不思議だった。
父さんだって、昔は俺へ飯を食わせているとか、服を買ってやっているとか、住む場所を与えているとか言っていたのに、最後にはその全部を理由にして、俺たちまで借金の返済へ使おうとした。
職業紹介会社の連中も同じで、食わせた、寝かせた、仕事を教えたと並べ立てた後には必ず「だから返せ」という話になり、返せないなら働け、逃げたなら逃げた分の費用まで上乗せして返せというのだから、ムルタがどれだけ平然と「これは保護費用ですから、君たちへ請求する予定はありません」と言っても、そんなうまい話が本当にあるのかと疑うのは当然だった。
「ムウ」
今度はレイが、机の前に立ったままこちらを呼んだ。
「何だよ」
「これ、食べていい?」
レイが指差していたのは、船員が置いていった透明な包みの焼き菓子で、甘い匂いが部屋の中へ広がっているせいで、俺自身もさっきから腹が空いて仕方がなかった。
「いいって言われてただろ。食べたいなら食べればいいじゃん」
「全部食べてもいい?」
「全部食ったら腹壊すだろ。少しにしとけ」
「少しって、何個?」
そこで俺は、また面倒なところへ来たと思った。
レイは、まだ自分で決めることが苦手だった。
何を食べるか、どの服を着るか、どこへ座るかという程度のことでさえ、誰かから正解を与えられるのを待つ癖が残っていて、俺が「好きにしろ」と言えば自由になるのではなく、むしろ何を選べば怒られないのか分からなくなって困ることがある。
「じゃあ、三つくらいにしとけばいいんじゃねえか。でも、俺が三つって言ったから絶対三つじゃないぞ。二つでやめてもいいし、まだ食べたかったら四つにしてもいいから、自分で腹と相談しろ」
「腹と相談?」
「言い方だよ。今どれくらい食いたいか、自分で決めろってこと」
レイは真剣な顔で焼き菓子を見比べ、一つ目を取り、二つ目も取ったところで三つ目へ伸ばした手を止め、しばらく考えた後に、そのまま手を引っ込めた。
「二つにする」
「おう。それでいいんじゃねえの」
「自分で決めた」
「分かってるって」
嬉しそうにそう言うレイを見ていると、横でラウも少し笑っていて、俺はそれだけで胸の奥へ引っかかっていたものが少し軽くなった。
二人ともここにいる。
ラウは誰かに連れていかれることもなく薬を飲み、レイは何個食べるかを自分で決めている。
父さんから逃げた夜には、こんなことになるなんて考えたこともなかったし、あの時の俺に未来の話をしても、どうせ金持ちに騙されているだけだと笑っただろう。
「ムウは食べないの?」
ラウが菓子を一つ取って尋ねてきたので、俺は何でもないように首を振った。
「あとでいい。今は別に腹減ってないし」
本当は、かなり減っている。
夕食でもらったパンも、一つだけ服の中へ隠してあった。
明日の朝も食事が出るとハワードは言っていたし、今日だって昼も夜も本当に食事が出たのだから、頭で考えれば食べ物を隠す必要などないのだが、旧居住区では「明日もある」という言葉ほど信用できないものはなく、今食べられるものを全部食べてよい日と、半分残して翌日へ持ち越さなければならない日を見分けることが、生きていくうえでは何より大事だった。
身体へ染みついたそういう癖は、船へ乗って数時間で消えてくれるものではなかった。
その夜、俺はなかなか眠れなかった。
理由は簡単で、部屋が静かすぎた。
旧居住区では夜になっても、どこかで誰かが言い争っていたり、酔った大人が壁を蹴っていたり、壊れかけた空調や配管が突然大きな音を立てたりすることが珍しくなく、何か異変があればすぐ身体を起こせるよう浅く眠ることが当たり前だったのに、この船の中では空調の音すら一定で、廊下から怒鳴り声も足音も聞こえてこないため、むしろ何も起きないことそのものが気持ち悪く感じられた。
ラウは薬の影響もあるのか早く眠り、レイも毛布へくるまって規則正しい寝息を立てていたが、俺だけは何度目を閉じても眠気が深くならず、しばらく天井を眺めた後、二人を起こさないようベッドから降りて部屋の外へ出た。
船内を勝手に歩き回るなとは言われている。
ただし、正確には立入禁止区画へ入らないこと、船員の仕事を邪魔しないこと、分からない場所へ行く場合には誰かへ声をかけること、という細かい条件付きだったから、普通の通路を少し見るくらいなら問題ないだろうと勝手に解釈した。
目的は、避難経路を覚えるためだった。
火事でも事故でも、あるいは船員の中に信用できない奴がいたとしても、ラウとレイを連れて逃げる道を自分で分かっていなければ安心できないので、非常口、階段、消火設備、保守区画へ続く扉、行き止まりになる通路を一つずつ確認しながら歩いていくと、数分もしないうちに船室周辺のおおよその構造は頭へ入った。
エンデュミオンでも、そうやって生きていた。
逃げ道を一つしか知らない奴から捕まる。
路地へ入った時に、そこが袋小路なのか、上へ抜けられるのか、別の市場へつながっているのかを知っているだけで、生き残れる確率は変わる。
宇宙船は旧居住区よりずっと狭いのだから、覚えるのも難しくなかった。
廊下の角を曲がったところで、少し先の部屋から明かりが漏れているのを見つけ、近づくと扉が完全には閉まっておらず、中から聞き覚えのある声がしてきた。
「こちらの予算では足りません。診療費だけを補助しても、学校へ通わず働いている子供が病院へ行く時間そのものを確保できなければ、利用率は上がらないでしょうから、医療だけ切り離して制度を作るのは効率が悪いと思います」
ムルタだった。
こんな時間まで何をしているのかと思い、扉の隙間から中をのぞくと、会議室らしい部屋にはムルタとハワードのほかに何人か知らない大人がいて、机の上には大量の資料が広げられ、壁の画面には見覚えのあるエンデュミオン旧居住区の地図まで表示されていた。
「給食を導入すれば、学校へ通うこと自体が家庭の食費を減らすことにつながりますし、ムウが話していた、親が働いている間に弟や妹の面倒を見なければならないため学校へ通えない子供については、学校へ託児機能を併設する方がよいでしょう。教育だけを用意して『来ないのは本人の責任です』では、今までと何も変わりません」
自分の名前が出てきたので、俺は思わず耳を澄ませた。
「しかし、児童教育事業へ託児と給食まで組み込めば、当初予定していた予算を大きく超過します。医療支援事業も同時に進める以上、短期的にはかなりの赤字となる可能性があります」
「だから、最初から全地区へ広げる必要はありません。欠席率と児童労働率が最も高い地区を二か所選び、給食と託児を同時に導入して、出席率、保護者の就労時間、子供の健康状態が半年後にどう変化するか測定してください。数字が改善するなら追加投資の根拠になりますし、改善しないなら原因を調べて設計を変えればよいでしょう」
「利益化まで十年以上かかる可能性もありますが」
「子供へ投資するということは、そういうものではありませんか。教育事業だけで黒字にする必要はなく、住宅、医療、職業紹介まで含めて考えれば、教育を受けた子供が将来安定した職へ就き、その家族が再び高利貸しや違法な職業紹介へ頼らずに済むことで、長期的な社会コストは下がります」
ムルタは、難しい話をしているわりには、特別なことを言っているつもりがないような顔をしていた。
俺は、扉の前でしばらく動けなかった。
正直に言えば、俺たちを助けたところで、あいつはもうエンデュミオンのことなんて忘れると思っていた。
金持ちは忙しい。
次の街へ行けば次の仕事があり、旧居住区へ視察に来た役人や偉そうな奴らだって、「大変ですね」「改善が必要ですね」と言った後には中央区へ帰り、その次に現れる時には別の奴がまた最初から同じ話を聞いていた。
ムルタも、それより少し変わっているだけで、結局は同じだと思っていた。
ところが、今こいつが話しているのは俺たち三人の治療費や船室の費用ではなく、俺が病院の談話室で何となく話した学校のことや、給食のことや、旧居住区の住民を職員にした方がいいという話だった。
「現地職員の採用状況は?」
「旧居住区住民から二十一名の応募があり、そのうち九名が一次選考へ進んでおりますが、身元確認が困難な者も多く、通常の採用条件を適用しますと――」
「通常の採用条件を満たせない人を支援する事業なのに、通常の条件だけで採用を決めたら意味がないでしょう。犯罪歴や重大な虚偽は確認してください。ただし、住所がなかったこと、正規雇用歴がないこと、保証人を用意できないことだけで落とすのはやめてください。現地を知っている人間を、必ず意思決定へ入れます」
「住民側から反発が出た場合は?」
「そのために住民側の人間を入れるのです。僕たちが机の上で作った完璧な制度を持ち込んでも、利用する側が信用しなければ誰も使いませんし、旧居住区で誰が本当に危険で、誰なら信用できるのかは、中央区の人間より住民の方がよく知っています」
俺は、それ以上聞かずに部屋から離れた。
本当にやるらしい。
あいつは、俺が言ったことを覚えていた。