【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
ラウ・ル・クルーゼ。
新しい身分証に印刷されたその名前を眺めながら、僕はムウほど強い違和感を覚えていないことに自分でも少し驚いていた。
ラウ・ル・ルシエという名前を嫌っていたわけではなく、その名前をつけた母さんのことまで否定したいと思っているわけでもないのだが、父さんから親戚の子供として扱われ、養育施設へ移されてからは番号で呼ばれることも多かったため、僕にとって名前というものは、誰かが自分を区別するために使う音という意味合いの方が強く、自分がどういう人間なのかを示すものだと考えたことはほとんどなかった。
それでも、クルーゼという響きだけは気に入った。
理由を聞かれても困る。
ただ、強そうだった。
病気になれば寝込み、薬がなければ動けなくなり、父親には金のかかる子供として扱われ、最後には労働力として売られる値段まで決められたラウ・ル・ルシエという子供と比べると、ラウ・ル・クルーゼという名前を持つ人間なら、誰かに守られるだけではなく、自分で立って、自分で逃げ道を選び、自分の力で誰かを守ることができるような気がした。
もちろん、名前を変えただけで人間まで変わるわけではない。
それくらいは僕にも分かっている。
それでも、これから強くなるための最初の一歩として、自分へ別の名前を与えることくらいは許されてもよいのではないかと思った。
「また身分証を見てるのか。昨日は俺が何回も見てるって笑ってたくせに、お前だって同じじゃねえか」
操縦訓練から戻ってきたムウは、船室へ入るなり僕の手元を見ると、いかにも面白いものを見つけたという顔で笑いながら、抱えていた教材を自分のベッドへ放り投げた。
「僕は笑ってないよ。ムウが何回も裏返して確認してたから、そんなに気になるのかなって聞いただけ。それに僕はクルーゼって名前、結構気に入ってるから、どんなふうに見えるのか確かめてるだけだよ」
「だったらムルタにそう言ってやればいいじゃん。あいつ、絶対喜ぶぞ。『やはり僕の命名センスは優れていましたね』とか言い出して、次から何でも勝手に名前を決めそうだけどな」
「ムウは言わないの?」
「俺が言うわけないだろ。気に入ってるなんて本人へ言ったら、絶対調子に乗る。フラガは悪くないけど、あいつが得意になるのは何か腹立つんだよ」
「じゃあ、僕も言わない」
「そういうところだけ俺の真似するなよ。お前はお前で、気に入ってるなら普通に言えばいいだろ」
ムウはそう言いながらベッドへ座ったが、機嫌がよいことはすぐ分かった。
シミュレーターを触らせてもらった日は、いつも以上によく喋る。
「今日も操縦したの?」
「したぞ。昨日より難しいやつで、機体数も増えたし、途中で表示が消える設定まであったんだけど、結構うまくできた。教官はまだ正式な操縦訓練を始める年齢じゃないから、まず数学と物理をやれってうるさいけど、適性そのものは高いかもしれないって言ってた」
「やっぱりムウは、そういうの得意だったんだね。旧居住区でも、誰かが追ってきた時に急に別の道へ行ったり、僕には何も見えないのに『こっちじゃない』って止まったりしてたから、僕はずっと、ムウには僕たちに見えないものが分かるんだと思ってた」
「大げさだって。街の道は覚えてたし、追ってくる奴がどう動くか分かってただけだよ。それに、本当に何でも分かるなら、あんなに何回も捕まりかけてないだろ」
ムウは笑っていたが、僕にはやっぱり凄いことに思えた。
僕が病気で動けなくなっていた時も、食べ物がなくなった時も、父さんのところから逃げた時も、前へ出たのはいつもムウだった。
だから、僕はずっと一つ気になっていたことを尋ねた。
「ムウ、僕を連れて逃げた時、本当は怖かった?」
その質問をすると、ムウは笑うのをやめたものの、嫌そうな顔はしなかった。
「そりゃ怖かったよ。父さんに見つかったらまた殴られると思ったし、持ってた金なんてすぐなくなるし、お前は途中で熱出すし、逃げた先でどうやって暮らすかなんて何も決めてなかったんだから、むしろ怖くない方がおかしいだろ。ただ、お前の前で俺まで怖がったら、お前は絶対『やっぱり戻ろう』って言うと思ったから、大丈夫そうな顔してただけだ」
「じゃあ、本当は大丈夫じゃなかったのに、大丈夫なふりをしてたの?」
「まあ、格好つけてたって言った方が近いかな。俺は兄貴なんだから何とかする、って自分で決めると、本当に何とかできるかどうかは別として、とりあえず次に何をするか考えられるんだよ。怖いからって座り込んでても、父さんが売るのをやめてくれるわけじゃなかったしな」
僕には、その答えが思っていた以上に大切なことのように感じられた。
ムウは最初から怖くない人間だったわけではない。
怖かったけれど、怖くない人間のように振る舞っていた。
強かったから前へ出たのではなく、前へ出なければならないと思ったから、強い人間のように行動していたのだ。
「格好つけたら、本当に強くなれるのかな」
「知らねえよ。でも、動けるようにはなるんじゃねえか。俺だって、最初から何でもできたわけじゃないし、お前を連れて逃げた夜なんか、自分でも何やってるのか分からなかったぞ」
「それでも逃げた」
「お前を置いていったら、売られるって分かってたからな。それに、あの時は本当に兄弟かどうか証拠なんてなかったけど、弟らしいって聞いた以上、俺が何とかするしかないと思ったんだよ」
「もし兄弟じゃなかったら、助けなかった?」
「その質問、前にもしただろ。兄弟じゃなくても助けたと思うよ。ただ、弟だって思ったから余計に放っておけなかったのはある。だから、どっちも本当なんじゃねえの」
ムウはそれだけ言うと、操縦資料を開いて読み始めた。
本人にとっては、もう終わった話なのかもしれない。
けれど僕は、ずっとその言葉を考えていた。
怖い時に、怖くない人間のふりをする。
弱いと思った時に、強い人間ならどうするかを考える。
もし、それだけで少し前へ進めるのなら、僕にもできるかもしれないと思った。
◇
船へ乗ってから、僕にはムウとは別の予定がたくさん組まれていた。
午前中の授業だけは三人一緒だったが、その後は医師による診察があり、肺の状態や栄養状態を確認され、さらに定期的に心理担当の先生と話をする時間まで用意されていた。
最初は、それが嫌だった。
知らない大人と二人きりになり、自分の過去について尋ねられるのが怖かったし、何か余計なことを話したせいで、ムウやレイとは別の場所へ移した方がよいと判断される可能性があるのではないかと思っていたから、最初のうちは聞かれたことだけへ短く答え、それ以上はできるだけ何も話さないようにしていた。
ところが、その先生は僕が黙っていても怒らなかった。
「ラウ、今日は無理に話さなくても構いませんし、何を聞かれているのか分からない時や、答えたくないと思った時には、そのままそう言ってください。ここは正しい答えを出す場所ではなく、あなたが今どんなことを考えているのかを、一緒に整理するための場所です」
「でも、何も話さなかったら、先生の仕事にならないんじゃないの。ムルタがお金払ってるのに、僕が黙ってたら無駄になると思う」
「それは私が考えることです。ラウが私の仕事を成立させるために何かを話す必要はありませんし、そもそも一緒に座って、ここでは黙っていても怒られないという経験をすること自体が、今のラウに必要な時間かもしれません」
「でも、病院も薬も服も食べ物も、全部お金がかかってる。僕は何も返してないし、ムウみたいに何かできるわけでもないから、ずっと使ってもらうだけなのはよくないと思う」
先生は、そこで少しだけ首を傾げた。
「ムウは何を返しているのでしょう」
「ムウは役に立ってる。操縦が得意だって言われてるし、道も覚えられるし、危ない人も見分けられるし、旧居住区で僕たちが暮らしていた時だって、食べ物を探したり、仕事を見つけたり、逃げ道を決めたりしたのはほとんどムウだった。でも僕は、病気になって薬が必要になって、逃げる時も遅くて、ムウが一人だったらもっと楽だったと思う」
「それでも、ムウはラウを置いていきませんでしたね。それに、実際に兄弟だと確認できたのは最近ですが、ムウは確かな証拠がない時からあなたを助けています。ラウは、ムウがそうした理由をどう考えていますか?」
「兄弟だと思ったから。それと、ムウが優しいから」
「では、優しくされるためには、その分だけ何かを返さなければならないと思っていますか?」
「普通は返すでしょ。誰かから何かをもらったら返すし、助けてもらったら、今度は助ける。僕はずっと助けてもらってるのに、何もできてないから、そのままなのはよくないと思う」
「もし返せなかったら、どうなると思います?」
その問いだけは、考えなくても答えが分かった。
「いらないって言われる」
口にしてみると、自分が思っていた以上に小さな声になった。
先生は急いで否定することはせず、しばらく僕を見た後で尋ねた。
「ラウは、自分が役に立たなければ、ムウにもいらないと思われるかもしれないと感じていますか?」
「ムウは、そんなことしないと思う。でも、人は変わるから。父さんだって、最初から僕を売るつもりだったかどうかは分からないし、大人はみんな最初は大丈夫だとか、助けるとか言うけど、あとから事情が変わったって言う。だから、ムウだって僕より役に立つ人をたくさん知ったら、そのうち僕が邪魔になるかもしれない」
「そのことをムウへ話したことはありますか?」
「言ったら、面倒な奴だと思われそうだから言わない」
「つまり、面倒だと思われないように、不安を隠しているのですね」
その時、僕はさっきムウから聞いた話を思い出した。
「隠したら、強くなれる?」
「不安を隠すことで、その場を乗り切りやすくなることはあります。ただ、隠すことと、不安そのものがなくなることは別です。ラウは、誰かのように強く振る舞えるようになりたいのでしょうか」
その質問には、考える必要がなかった。
「ムウみたいになりたい」
先生は驚かなかった。
「ムウのどんなところが?」
「怖くても動けるところ。僕だったら怖くて黙ってしまう時でも、ムウは怒ったり、言い返したり、自分で決めたりできるから。僕もそうなったら、今度はムウを助けられるし、レイのことも守れると思う」
レイの名前を口にした時、先生が少し表情を変えた。
「レイも守りたいのですね」
「だって、レイは僕よりもっと自分で決めるのが苦手だから。僕は怖くても嫌だと思うことは分かるけど、レイは最初、嫌だって言っていいことすら知らなかった。だから、ムウだけに全部任せたら、ムウが大変になる」
「ラウは、自分がムウに守られてきたから、今度はレイを守る側へ回りたいと思っているのですね」
言われてみると、そうなのかもしれない。
「でも、僕にできるかな」
「今すぐムウと同じことをする必要はありません。レイが自分で選べるまで待つことも、レイが嫌だと言った時にそれを認めることも、立派に守ることだと思いますよ」
その言葉は、少し意外だった。
僕は、守るということは、ムウのように前へ出て戦ったり、逃げ道を探したり、大人へ言い返したりすることだと思っていた。
けれど、ほかの形もあるらしい。