【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
その日の午後、船室へ戻ると、レイが机の上に三冊の本を並べて、真剣な顔で見比べていた。
「何してるの?」
「読む本を決めてる」
「三つで迷ってる?」
「うん。先生が、今日は一冊だけ好きなの選んでいいって言った。でも、どれが正しいか分からない」
「正しい本なんてないと思うけど」
「でも、簡単なの選んだら、勉強しないって怒られるかもしれない。難しいの選んで読めなかったら、それも怒られるかもしれない」
以前の僕なら、きっとムウを呼んでいただろう。
ムウなら、レイへ適当に一冊渡して、「今日はこれにしろ」と言えば済む。
けれど、先生との話を思い出して、僕はレイの隣へ座った。
「じゃあ、三冊とも少し見てみようよ。その中で、一番続きが読みたいと思ったものを選べばいいんじゃないかな。難しいかどうかは、読んでみないと分からないし、途中で嫌になったら変えてもいいと思う」
「変えていいの?」
「僕はいいと思う。分からなかったら、あとで先生に聞こう」
「ラウが決めてくれる?」
「僕が決めたら、レイが選んだことにならないから、一緒に見るだけ」
僕自身がそんなことを言うとは思わなかった。
三冊のうち、一冊は宇宙船の絵が多い本で、一冊は地球の動物について書かれた本、もう一冊は子供向けの歴史だった。
レイは最初に宇宙船の本を開いたが、少し読んで閉じ、次に動物の本を長く眺めていた。
「これがいい?」
「まだ分からない。でも、この白いの見たい」
「熊?」
「くま?」
「たぶん。僕も本物見たことないけど、地球にいる動物じゃないかな」
レイはしばらく写真を見た後、動物の本を胸へ抱えた。
「これにする」
「うん」
「ラウは、これでいいと思う?」
少し前なら、「いいと思う」とすぐ答えたかもしれない。
でも、それではレイがまた僕の答えを正解にしてしまう。
「僕も面白そうだと思う。でも、レイが読みたいなら、それでいいんじゃないかな」
レイは少し考えた後、頷いた。
「僕が読みたい」
それを聞くと、何となく嬉しかった。
守るということは、代わりに全部決めることではない。
そのくらいなら、僕にもできるかもしれない。
「ラウ」
「何?」
「僕も、ラウを守る?」
思いがけないことを言われた。
「何で?」
「ムウが、家族はみんな助けるって言った。ラウも僕を守るなら、僕もラウを守る方がいいと思う」
「レイは、僕を守りたい?」
レイはしばらく考え、ゆっくり頷いた。
「うん。ラウがまた病気になったら、薬持ってくる。でも、前みたいに売られるのはやめる」
「それは絶対やめて」
「分かった」
二人で話しているところへムウが戻ってきて、事情を聞くと、少し呆れた顔をした。
「お前ら、何で俺がいない間に勝手に『誰が誰を守る』って話してるんだよ。俺だけ仲間外れみたいじゃん」
「ムウは最初から僕たちを守るって言ってるから」
「そうだけどさ。別に俺一人で全部やるって意味じゃないぞ。ラウができることはラウがやればいいし、レイだって自分でできるようになったらやればいい。ただ、困った時は俺が何とかするってだけで」
「それだと、やっぱりムウが一番大変だよ」
「じゃあ、お前らも俺が困った時に助けてくれればいいだろ。それで終わりじゃん」
ムウは、本当に簡単に言う。
でも、それでよいのかもしれない。
誰か一人がずっと守る側にいなければならないわけではなく、守れる人がその時に守ればいい。
「じゃあ、僕もムウを守る」
「お前はまず病気治せよ。それとちゃんと飯食え。今日も昼飯残してただろ」
「野菜が多かったから」
「そういう問題じゃねえよ。医者に食えって言われてるんだから食え」
「それ、守ってるっていうよりお母さんみたい」
「誰がお母さんだよ!」
レイが声を上げて笑ったので、僕もつられて笑った。
◇
夕方、操縦室の近くでムウが船員たちと話しているのを見ていると、知らない大人の間でも臆することなく質問し、難しい説明を受けても分からないと言い、間違えればもう一度やらせてくれと言えることが、僕にはやっぱり凄いことに思えた。
そこへ、いつの間にかムルタが隣へ立った。
「ラウは、ずいぶんムウのことを見ていますね」
「見てない」
「昨日、ムウも全く同じことを言っていました。兄弟で似るものなのでしょうか」
「ムウと僕は、そんなに似てないと思う」
「性格はかなり違いますね。ただ、二人とも相手をよく見ているという点では似ていると思いますよ」
僕は少し迷ってから、聞いてみた。
「ムルタは、ムウがすごいと思う?」
「操縦適性については、かなり興味深いと思っています。ただし、まだ一部の能力が高いと分かっただけで、それが将来何になるかは本人次第でしょう」
「僕には、何かある?」
「ムウと同じ能力があるか、という意味ですか?」
「違う。僕にも、何か役に立てることがあるのかなって」
ムルタは、少し考えてから答えた。
「ラウは、自分が役に立つ人間でなければ、ここにいてはいけないと思っているのでしょうか」
「先生にも似たこと聞かれた。でも、何も返さないのは嫌なんだ。病院も薬も、服も食事も、全部ムルタがお金を出してるんでしょ。僕はずっと助けてもらってるから、何かできるようになりたい」
「それ自体は悪いことではありません。恩を返したい、自分も誰かを助けたいと思うことは立派だと思います。ただし、それと『役に立てなければ捨てられる』という考えは別です」
「ムルタは、本当に役に立たなくても捨てない?」
「少なくとも、子供へ投資して数週間で成果が出ないから損切りするような運用は考えていません」
「また投資の話」
「その方がラウには分かりやすいでしょう」
僕は少し笑った。
「投資って、失敗したらどうするの?」
「損失になります」
「じゃあ、僕が何もできなかったら損?」
「金銭だけで考えれば、そういう結果になる可能性はあります」
普通なら、そこは否定するところだと思う。
でも、ムルタは嘘をつかなかった。
「それでも、お金を出すの?」
「出します。結果が確実に分かっているものにしか投資しないのであれば、新しいものは何も生まれませんから。それに、ラウが将来僕へ直接利益を返す必要もありません。もし大人になった時、同じように困っている子供を一人助けることができたなら、それでも十分だと思います」
「ムルタは、その子からお金もらえないのに?」
「もらえなくても、僕が暮らす社会が少しまともになるなら、間接的には利益があります」
「難しい」
「では、もっと簡単に言います」
ムルタは、僕の顔を見た。
「今のラウにやってほしいことは、病気を治し、食べ、眠り、勉強することです。まずそれをしてください」
「それだけ?」
「十分大変でしょう。今日、野菜を残したと聞いています」
「誰から聞いたの?」
「ムウからです」
余計なことを。
「ムウ、何でも言う」
「心配しているのでしょう」
「僕も、ムウを助けたい」
「では、まず元気になってください。助ける側が倒れていては効率が悪い」
「それなら分かる」
「よかったです」
「それから、レイも守る」
「レイも?」
「レイは、自分で決めることがまだ苦手だから。今日は本を自分で選んだ。でも僕が決めてって何回も聞かれたから、一緒に見ただけにした」
ムルタは少し驚いた後、笑った。
「それは、かなり立派に役に立っていますよ」
「本を選んだだけだよ」
「レイが自分で選べるようになることを手伝ったのでしょう。それも価値です」
その言葉を聞いて、少しだけ胸が軽くなった。
僕がムウのように走れなくても、操縦できなくても、ほかの方法で誰かを守ることはできるらしい。
◇
夜になってから、ムウはベッドへ寝転びながら操縦関係の資料を読んでおり、レイはその隣で昼間選んだ動物の本を眺めていた。
「これ、地球にいるんだって」
レイが白い熊の写真を見せると、ムウが覗き込んだ。
「でかいな。こんなの本当にいるのかよ。宇宙じゃ絶対飼えないだろ」
「ムルタに頼んだら買える?」
「何でも買わせようとするなよ。あいつなら本当に調べ始めるぞ」
僕は笑いながら二人を見ていた。
少し前まで、僕たちは食べ物の残りを気にしながら倉庫で眠っていた。今は、レイが地球の動物を見て、いつか本物を見たいと言っている。
未来の話をしている。
「ムウ」
「何だよ」
「僕、ムウみたいに強くなりたい」
昼間からずっと考えていたことを、今度は本人へ言ってみた。
ムウは資料から顔を上げ、少し困ったような表情をした。
「何だよ急に。俺、そんなに強くないぞ。父さんから逃げた時だって怖かったって、さっき言っただろ」
「だから。怖いのに動けるところが強いと思う。僕は怖いと黙ってしまうし、相手に言われた方が正しい気がして、自分で決められなくなる。でもムウは、怖くても前に出るから、僕もそうなれたら、今度はムウやレイを助けられると思う」
「俺になる必要はないだろ。お前は俺より頭いいところあるし、レイのことだって、俺よりうまく話せる時あるじゃん。俺だったら『早く決めろ』って言いそうなところで、お前はちゃんと待ってやれるし」
「それも強い?」
「強さなんて一つじゃないんじゃねえの。俺は走ったり逃げたりするの得意だけど、お前は人の話をちゃんと見てるし、レイが困ってるのだって俺より早く気づく時あるだろ。だから、お前はお前で強くなればいいじゃん」
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
「でも、僕も怖くない人みたいになりたい」
「だったら最初は格好つければいいよ。俺だってそうしてるんだから。ただ、格好つけすぎて変な奴になるなよ」
「変な奴って?」
「ムルタみたいな奴」
「それは嫌かも」
「だろ?」
少し離れたところでレイがこちらを見ていた。
「僕は?」
「何が?」
「僕も強くなる?」
ムウは少し考えた後、レイへ向き直った。
「なるだろ。でも、お前はまず自分で決める練習だな。何食うとか、何読むとか、何が嫌とか、そういう小さいことからでいいんじゃねえの」
レイは僕を見た。
「ラウも、そう思う?」
「思う。でも、僕とムウが決めたからじゃなくて、レイがそうしたいならね」
レイはしばらく考えてから、動物の本を胸へ抱えた。
「僕も強くなりたい。ムウとラウが困ったら、助けたいから」
「じゃあ三人とも強くなればいいじゃん」
ムウが何でもないことのように言った。
「俺一人で守るより、その方が楽だしな」
その言い方がおかしくて、僕とレイは笑った。
たぶん、その時に僕の中で何かが変わり始めたのだと思う。
ムウと同じ人間になる必要はない。
ムウが怖い時にも前へ出られるなら、僕は僕なりのやり方で強くなればいいし、今は誰かの指示がなければ動けないレイだって、いつか僕たちを助ける側へ回るかもしれない。
それでも、僕にはまだ、ムウのようになりたいという気持ちが強く残っていた。
怖い時でも笑える人。
弱いと思っていても、それを見せずに堂々と立てる人。
自分の中にそんな人間がいないのなら、最初は演じてみればよいのかもしれない。
格好をつける。
強い人ならどう話すかを考える。
怖くない人なら、どんな顔をするのかを真似する。
それを何度も繰り返しているうちに、いつか演技ではなく、本当にそういう人間になれるかもしれない。
そう考えながら身分証を手に取ると、ラウ・ル・クルーゼという名前が、初めて見た時よりも少しだけ自分のものになったように思えた。あ
いつか、この名前を聞いた人が、病気で売られそうになった子供ではなく、自分の考えを持ち、堂々と前へ出て、ムウやレイを守れる人間を思い浮かべるようになればいい。
そのためなら、少しくらい格好をつけても構わない。
後になって、僕がムルタから贈られた仮面を身につけた途端、普段とはまるで違う大仰な話し方を始め、ムウから「お前、誰だよ」と本気で心配されることになるのだが。
専門医によれば、それは別人格が現れたわけでも、精神に異常をきたしたわけでもなく、幼い頃から抱えていた「強い人間を演じることで不安を乗り越える」という癖が、仮面という分かりやすい小道具を得たことで極端に表面化しただけなのだという。
もっとも、この時の僕は、そんな未来など知るはずもない。
僕の隣には、強くなりたいと思わせてくれたムウがいて、反対側には、いつか自分も守る側になりたいと言い始めたレイがいる。
三人とも、まだ子供だった。
誰が誰を守るのかさえ、これから何度も入れ替わっていくのだろう。
それでも僕は、その夜初めて、自分もいつか二人を守れる人間になれるかもしれないと思いながら眠ることができた。