【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る   作:d_chan

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第62話 スベロア・ジンネマン(舎弟)

「それで、何があったんだ。強くないのに兄貴になったなら、そっちのほうが気になるぞ」

 

 ジンネマンは工具鞄を床へ置き、少し考えてから話し始めた。ワイズマン親子がサイド3へ到着してまだ一週間もたたない頃、仮設居住区の配給所で、年上の少年たちが新しく移住してきた子どもから食事券や水の追加配給券を取り上げ、場所を使わせてやる代金だと言い張っていたらしい。

 ジンネマンも工具鞄を奪われ、返してほしければ配給券を渡せと言われたが、そこへ通りかかったアーサーが割って入ったのだという。

 

「兄貴は、ここで空気を吸うのに金がかかるのは分かるけど、お前たちに払う空気代はないって言った」

 

「なかなか気の利いたことを言うじゃないか。それで、三人とも殴り倒したのか?」

 

「三人いたんだから無理に決まってるだろ。最初の一人を押し返したところで、横から殴られて倒れた」

 

「負けてるじゃないか」

 

「負けてない。工具鞄と配給券は取り返したんだから、目的は達成してる」

 

「倒れてる間に、どうやって取り返したんだよ」

 

「俺が管理人を呼んだ」

 

「やっぱりお前が取り返してるじゃないか」

 

「管理人が来るまで、兄貴は工具鞄を抱えて離さなかった。腹を蹴られても手を離さなかったから、俺の鞄は壊れなかったし、中の工具も一つもなくならなかった」

 

 ジンネマンがそう言うと、アーサーは気まずそうに鼻をこすった。

 

「俺は工具鞄が大事だって知らなかったんだ。ただ、返せって言ってるのに、三人で一人の物を取るのはおかしいと思っただけだ」

 

「どうして、知らない子のために殴られたんだ?」

 

 レイが尋ねると、アーサーはますます困った顔になった。

 

「三人がかりで一人を困らせてるのを見たら、止めるだろ。知らない奴だから放っておくっていうのは、何か違うじゃないか」

 

「それで、ジンネマンは兄貴と呼ぶようになったのですか」

 

「俺の工具鞄を最後まで離さなかったから、兄貴にすると決めた」

 

「俺は決められた覚えがないぞ」

 

「兄貴が決めることじゃない」

 

「舎弟のほうが兄貴を指名するのかよ。変な仕組みだな」

 

「名前を呼んだら友達になる人間が、他人の仕組みを変だと言えますか」

 

「ムルタ、お前はどっちの味方なんだ」

 

「面白いほうの味方です」

 

 アーサーが抗議する横で、ジンネマンは工具鞄から小さな水筒を二本取り出すと、「長旅だったんだろ。こっちは甘くないから君に、こっちは少し甘くしてあるから君に渡す。

 飲みきれなくても、無理に返しに来なくていい」と言って、ラウとレイへ一本ずつ差し出した。

 

「どうして、どっちが甘いほうを飲むか分かったの?」

 

「君は少し疲れているように見えたから甘いほうがいいと思ったし、こっちの子は、勝手に甘いものを渡したら警戒しそうな顔をしていたから」

 

 ラウは図星を指されたようにジンネマンを見たが、やがて甘くないほうを受け取り、「観察力は悪くない。ありがとう」と答えた。

 

「休みたくなったら、向こうの柱の裏がいい。貨物を積み替える風が来ないし、作業員の通路からも外れているから、誰にもぶつからない」

 

 軍人のように全員を指揮したがるわけではないのだが、誰かが置いていかれそうになっていれば、その者の歩幅や休める場所を気にせずにはいられない性分なのだろう。

 

「ジンネマン、俺の分はないのか。兄貴と呼ぶなら、兄貴にも一本くらい用意しておくだろ」

 

「兄貴は港中に聞こえる声で騒げるくらい元気だから要らない。それに、弱っている人を先にするのが兄貴のやり方だろ」

 

「ほら見ろ、俺を優先してないんだから、やっぱり舎弟じゃないぞ」

 

「兄貴らしく扱われなかったことを、そんなに得意そうに言う人は初めて見た」

 

 工場へ向かう貨物列車は、港の中央を休みなく走っており、客車は端に二両だけで、残りは鉱材や機械部品を積んだ無骨な貨車だった。僕たちは仕事帰りの作業員と同じ硬い座席へ腰掛け、窓の外を流れていく配管と集合住宅を眺めたが。

 

 このコロニーには地球の街を模した青空の天井がなく、工業区画では鏡から導く自然光よりも、作業時間と明るさを一定に保てる人工照明のほうが優先されているため、白い光の帯、灰色の壁、黄色と黒の警告線という単調な景色がどこまでも続き、その間に洗濯物の色とりどりの布や窓辺の植木鉢が点々と現れる様子は、人間がどれほど無機質な場所にも意地になって生活を生やしていく証のように見えた。

 

「以前より住宅が増えましたね。工場の拡張に合わせて建設計画も進めたはずですが、それでも仮設ユニットが残っているのは、人口増加の予測を誤ったからですか」

 

「工場が増えたから働く人間が来て、その家族まで来たんだけど、住宅の増え方が追いついてないんだ。あそこなんか、一部屋を昼勤と夜勤が二交代で使ってる。昼勤が工場へ行ったら夜勤が帰って寝て、夜勤が出たら昼勤が戻るんだぞ」

 

「到着から1か月もたっていないのに、ずいぶん詳しいですね」

 

「住んでる奴に聞いたんだよ。俺と母さんの部屋だって、予定より狭かったからな」

 

「土地ではなく、建設許可と資材が足りません。コロニーの構造材は安全保障物資に指定されていますから、居住区画の増築には連邦側の認可が必要で、申請から承認まで平均八か月、その八か月の間にも人口は増え続けます」

 

 サザーランド少尉の説明を聞いたラウが、「つまり、認可が下りた頃には申請時の計画では不足し、また新しい申請を出すことになる」と言うと、少尉は「その繰り返しです」と答えた。僕は構造材を先行購入して月面倉庫へ置く方法、認可後すぐに運べる輸送枠、行政手続き専門の人員増強、住宅会社の買収まで頭の中で並べたが、アーサーに鼻先を指されてしまった。

 

「また金で殴る顔をしてるぞ。お前、さっきから窓の外を見てるようで、金を入れたら何が変わるかしか見てないだろ」

 

「失礼なことを言わないでください。これは社会的課題を合理的な設備投資によって解消する方法を検討している顔です」

 

「長く言っただけで同じだろ」

 

「同じではありません。僕は殴るときでも、費用対効果を考えます」

 

「やっぱり殴るんじゃないか」

 

 工場は居住区画のさらに奥にあり、二重の気密扉を抜けた瞬間、機械の低い唸りと規則正しい打撃音が腹に響いた。メアリーはまだこの工場の人間ではなく、明日に予定されている採用試験の準備と、宇宙環境へ身体を慣らすため先に住居へ戻っているので、工場長自身が僕たちの案内役を務め、空調用の送風機、水再生装置のろ過筒、気密扉へ組み込む環状部品を順番に見せてくれた。

 

 どれも豪華さとは無縁の灰色をしていたが、そのうち一つでも止まれば生活そのものが止まり、最悪の場合には街の一角から人間が住める環境そのものが失われる。

 

「黄色い線からは絶対に出ないでください。見学者が機械に近づくと、生産を止めて安全確認を行わなければなりませんから、工場を見に来た人間が工場を止めるという笑えない事態になります」

 

 工場長が全員に保護眼鏡を配ると、アーサーが「とくにムウ、お前は気になるものがあっても勝手に触るなよ」と言い、ムウもすぐに「お前にだけは言われたくない。俺は黄色い線が見えるけど、お前は目の前に線があっても踏み越えそうだ」と言い返した。

 

「俺は必要なら越えるけど、意味もなく越えたりしないぞ」

 

「それを勝手に越えるっていうんだろ」

 

「二人とも、線を越えたら見学を中止しますよ」

 

 僕が言うと、二人はそろって一歩後ろへ下がった。

 

 検査区画では、完成した気密部品が強い照明の下を流れており、工場長はその一つを取り上げ、表面に残る細い線を指で示した。

 

「この線が見えますか。これは加工の際についた傷ではなく、規格内の加工痕ですが、深さがあと少し大きければ不良品として出荷を止めます」

 

「これくらいで止めるのか? 近づいて見ないと分からないし、水が少しくらい漏れても、すぐに直せばいいんじゃないのか」

 

「地球なら、それで済む場所もあるでしょう。しかし、ここでは空気が逃げ、水が失われ、小さな傷が人の命に直結します。地球用の機械を十年検査してきた人でも、この感覚を身につけなければ宇宙用部品の検査には合格できません」

 

 その言葉を聞き、僕は明日試験を受けるメアリーのことを思い出した。地球で十年以上の経験があり、前職からも勤務態度と技能に問題はないという回答を得ているが、それは基礎があるというだけで、地球と宇宙の検査基準が同じだという意味ではない。

 本人も資料へ目を通しているはずだが、慣れない重力と空気で体調を崩した直後に、どこまで力を発揮できるのかは分からなかった。

 

「怖い?」

 

 ジンネマンが、部品から一歩離れたレイへ尋ねた。

 

「うん。こんな小さな傷で、空気がなくなるんでしょう?」

 

「俺も最初は怖かったし、いまでも怖くないわけじゃない。でも、怖いと分かっている人が作って、怖いと分かっている人が調べて、見つけたら止めるから使えるんだ。誰も怖がらなくなった工場のほうが、たぶん危ない」

 

「それなら、怖くてもいいの?」

 

「いいと思う。怖いまま、ちゃんと見ることができれば」

 

 十歳の少年の説明にしては妙に現場を知っていたが、工具鞄を大切にしている理由を考えれば、機械を扱う大人の仕事を日頃からよく見ているのだろう。

 

 工場長から渡された資料を見る限り、僕の投資は確かに役立っており、訓練設備が増え、検査工程が整備され、不良率は下がり、従業員の平均賃金も三年前より上がっていた。その一方で利益率は計画を下回り、資材輸送費は十四パーセント、連邦認証の更新費用は七パーセント上昇し、外部向けの売上にかかる税率まで、現地企業の意見とは関係なく変更されている。

 

「成長そのものは順調ですが、資材輸送費と認証費用の上昇が利益を食っていますね。設備更新を一年早め、歩留まりを二パーセント改善できれば、輸送費の増加分は吸収できますし、賃金を平均五パーセント上げても――」

 

「だから、そうじゃないんだよ、ムルタ」

 

 アーサーが僕のペン先を手で止めた。

 

「お前の金で工場を大きくして、給料を上げて、家を増やせるのは分かってるし、母さんだって、お前が試験を受けられるようにしてくれたからここまで来られた。でも、空気の値段も、工場を増やす時期も、家を建てる順番も、最後には地球に決められる。金で空気は作れるけど、自分たちの息の仕方まで地球に決められるのが嫌なんだよ」

 

 機械の音は変わらず続き、部品が流れ、検査灯が点き、作業員が記録を取っていたが、僕の頭の中だけが一拍遅れた。生活を良くすること、賃金を上げること、安全な設備を増やすことによって不満の大半は解消できると考えていたし、実際、金で解決できる問題は多く、貧しさを精神論で美しく飾るより、必要な場所へ金を使うほうがずっと誠実であることは間違いない。

 

 しかし、アーサーが欲しいと言ったものは所得でも設備でもなく、自分たちのことを自分たちで決める権利であり、その権利にいくらの値札をつければよいのか、僕には計算できなかった。

 

「経営権を現地へ移せば、工場に関する判断の多くは、ここで完結できるようになります」

 

「工場だけなら、それでもいい。でも、工場の外はどうする。住宅も学校も税金も、経営権を移しただけじゃ変わらないだろ」

 

「議会への代表を増やし、現地の意見が反映される仕組みを強くする方法もあります」

 

「代表を増やしても、最後に地球が駄目だと言ったら終わりだ」

 

「完全な自治となれば、防衛、外交、通貨、航路、食料供給まで、自分たちで引き受けなければならなくなります。ここへ来て一か月にもならないあなたが、簡単に語ってよい問題ではありませんよ」

 

「一か月しかいないから、ここで何も見てないってことにはならない。移民船の中でも、この街でも、ずっとここで暮らしてきた人たちの話を聞いたし、母さんと俺は、これからここで生きると決めて来たんだ。簡単じゃないことくらい分かってる。ただ、難しいから考えるなと言われるのが嫌なんだよ」

 

 アーサーは怒鳴らなかったし、僕を責めてもいなかった。だからこそ、僕はいつものように反論を数字へ逃がすことができなかった。

 

 工場を出る頃には人工照明が夕方の色へ切り替わり、仕事を終えた作業員が通路へあふれ、簡易食堂から香辛料と焼いた油の匂いが流れてきた。新しい大型店の隣に家族経営の修理屋があり、注文端末の脇には自治集会のビラが貼られ、その上から今日限りの値引き札が重ねられている。

 

 勤勉さと生活の改善、それを自分たちの手で成し遂げたという誇り、そして、努力しても最後の決定だけは遠い地球へ持っていかれるという閉塞感が、狭い街路の中へ矛盾したまま同居していた。

 

 広場へ近づくと重なり合う声が聞こえ、中央の簡素な演台を百人ほどの住民が囲んでいた。そろいの制服も、後年の国家を思わせる旗もなく、掲げられているのは「納税先を公開せよ」「サイド3の議席を増やせ」「生活インフラは住民が決める」といった手書きの札で、その中に一枚だけ、ひときわ大きな字で「完全独立」と書かれたものが混じっていた。

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