【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
サイド3の朝は、照明制御盤の数字どおりに始まった。午前六時になると集合住宅の廊下を照らしていた夜間灯が一斉に消え、窓の外に並ぶ街灯が順番に明るさを落とし、その代わりに天井近くへ設けられた採光板が薄い橙色から白へ変わっていった。
が、地球の朝日のように雲の切れ間から差し込む光でも、月で見た太陽のように容赦なく照りつける光でもなく、人間が決めた時刻に、人間が決めた量だけ供給される朝というものは、どれほど巧妙に色温度を調整しても、空気や水と同じく管理された資源なのだと思わせるところがあった。
昨夜は食事と政治の話で遅くなったにもかかわらず、メアリーは僕たちが起きたときにはもう食卓へ検査基準書を広げており、僕たちが地球へ戻ったあとに予定されている採用試験へ備え、材質ごとの許容傷の深さを何度も紙へ書き写していた。
アーサーはその向かいでパンをかじりながら眠そうに目をこすり、ジンネマンはいつの間に来たのか、人数分の飲み物を用意し、ムウは自分の皿だけパンが一枚少ないと言い張り、ラウは最初から全員二枚ずつだったと指摘し、レイは自分の一枚を半分に切ってムウへ渡そうとしていたので、朝食の席は昨夜より狭く、昨日と変わらず騒がしかった。
「レイ、渡さなくていいぞ、俺は別に腹が減ってるわけじゃなくて、どうして俺だけ少ないのかを確かめたいだけだからな。それに、いま受け取ったら、俺が小さい子の朝飯を取り上げたみたいになるだろ」
「空腹でないのなら、そもそも一枚少ないことへ文句を言う必要がありませんし、全員の皿へ二枚ずつ載っていたことはラウが確認していますから、あなたは食べたことを忘れているだけでしょう。食事の管理ができない人間へ、会社の経営や政治を語る資格はありませんよ」
「パン一枚でそこまで言うのかよ。それなら、お前だって昨夜から同じ手紙を何度も読んでるだろ。一度読んだことを忘れたんじゃないのか?」
「文章の意味を検討するために読み直すことと、パンを胃袋へ入れた事実を忘れることを同列に扱わないでください。それとも、あなたはパンを読むのですか」
「読まないけど、お前と話してると、パンにも難しいことが書いてあるような気がしてくるんだよ」
ムウが不満そうに残った一枚へかじりつくと、アーサーは声を立てて笑い、ジンネマンは「だから最初から二枚だったと言っただろ」と念を押し、レイは切りかけたパンを元に戻そうとして断面を見つめ、しばらく考えた末に両方を自分の皿へ置いた。ムウの食欲に関する裁判が終わったところで、メアリーが僕の前に置かれた封筒へ目を向けた。
「本当に、今日会いに行くのですか。昨夜届いて、返事は朝まででよいと言われたのでしょう。ムルタさんが断りにくいよう、考える時間を与えなかったのではありませんか」
「その可能性はありますが、考える時間が一晩あっても一週間あっても、差出人の名前は変わりませんし、会わずに帰れば、会談を拒否したという政治的な意味を勝手につけられるでしょう。会っても利用され、会わなくても利用されるのなら、少なくとも相手の顔を見てから利用されたほうが、投資判断に必要な情報を得られるだけ得です」
「お前、昨日は政治家に利用されるのを嫌がってたのに、もう得する方法を考えてるのか。立ち直るのが早すぎないか?」
「僕は落ち込んでいたわけではなく、計算方法が分からず困っていただけです。利益の出ない取引でも、損失を小さくする方法はありますし、困ったまま何もしないことを、慎重さとは呼びませんよ」
「難しい言い方してるけど、結局は会いたいんだろ。だったら、そう言えばいいじゃないか」
「政治家との面会を楽しみにしていると思われるのは不本意です」
「差出人の名前を見てから、ずっと気にしてるくせに」
アーサーの指摘は正しかったが、正しい指摘へ素直にうなずくと彼を喜ばせるだけなので、僕は封筒を上着の内側へ収め、「時間です」とだけ告げて立ち上がった。メアリーは僕たちを玄関まで見送り、アーサーには騒ぎを起こさないこと、ジンネマンにはアーサーが騒ぎを起こさないよう見張ることを頼み、ムウにはアーサーをけしかけないこと、ラウには無理をしないこと、レイには知らない人についていかないことを言い聞かせたが、最後に僕へ向き直ると、しばらく迷ってから、「ムルタさんも、無理をなさらないでくださいね」と付け加えた。
「僕だけ注意の内容が曖昧ではありませんか」
「何をすると危ないのか、私には分からないからです。でも、昨日の広場を見たあとで政治家に会うのなら、きっと転んだり道に迷ったりするのとは違う危険があるのでしょう」
「ご心配なく。話をするだけです」
「ムルタさんは、お金を出すだけと言いながら、いつも人の人生まで背負おうとなさいます。話をするだけという言葉も、あまり信用できません」
母親とは、自分の子どもだけでなく、知り合った子どもにまで余計な心配をする生き物なのかもしれず、その心配が不快ではなかった僕は、反論の代わりに「試験勉強を続けてください」と答えて部屋を出た。
昨夜の集会が終わった広場では、折り畳み式の演台も群衆を誘導する柵もすでに撤去され、通勤途中の人々が忙しく行き交っていたが、柱には自治権拡大を求める集会の告知が残り、署名台の学生たちは昨日集めた紙を箱へ詰めながら、今日の分を新しく並べていた。清掃員が消していた反連邦の落書きは、黒い文字の輪郭こそ薄くなったものの完全には消えておらず、その上から誰かが「消しても不満は消えない」と小さく書き足しており、清掃員はそれを見つけると、怒るでも呆れるでもなく、もう一度溶剤の蓋を開けた。
自治政府庁舎は広場から二駅先の行政区画にあった。庁舎と呼ばれてはいたものの、地球の中央官庁や月面都市の議会施設のような威圧感はなく、工場の管理棟を少し大きくした程度の灰色の建物で、入口の上にも国旗や紋章ではなく、「サイド3自治行政局」とだけ記された金属板が掲げられていた。建物の前にはダイクンを支持する者も批判する者もおらず、荷物を抱えた職員や陳情書を持った住民が二列に分かれて入館検査を受け、壁際では暖房設備の修理業者が工具を広げていたため、ここで昨日のような政治集会が開かれていると言われても信じにくかった。
「偉い人がいる建物って、もっと大きくて、入口に兵隊が何人も立ってるものじゃないのか?」
「ここは王宮ではありませんし、ダイクン氏も国家元首ではありません。少なくとも、いまのところはね」
「いまのところってことは、これからなるのか?」
「言葉の綾です。僕は未来を知っているわけではありませんよ」
ムウへ答えながら、僕は自分の口から出た言葉にわずかな引っかかりを覚えた。ジオンという名には、やはり国名のような響きがあった。昨夜から記憶の奥で何かが動いているのだが、そこへ手を伸ばそうとすると、濁った水の中の物をつかもうとするように輪郭が逃げてしまう。
受付で面会状を提示すると、僕とサザーランド少尉だけが奥の区画へ通され、ムウたちは控室で待つよう指示された。アーサーは自分も友人として同席すると主張しかけたものの、ジンネマンが「兄貴が入ったら、話が始まる前に追い出される」と袖を引き、ラウは置かれていた新聞へ手を伸ばし、レイは窓から見える貨物線を数え始めたので、騒ぎが起こるとしても庁舎全体を閉鎖するほどではないだろう。
「ムルタ、何か変なことを言われたら、俺を呼べよ。政治の話は分からないけど、相手が十二歳のお前を大人の都合で困らせるなら、友達として文句くらい言えるからな」
「あなたが加わると、政治問題が単なる口喧嘩になりますから、必要になっても呼びません。ジンネマン、アーサーが勝手に入ってこないよう見張っていてください」
「分かった。兄貴を止める」
「お前は俺の舎弟なのに、どうしていつもムルタの頼みを聞くんだよ」
「兄貴は、俺を舎弟じゃないと言っていたから、命令を聞く義務もない」
「こういうときだけ、俺の言ったことを使うなよ!」
背後で続く抗議を扉が遮り、廊下を歩き始めると、隣にいたサザーランド少尉は前を向いたまま、「ずいぶん頼もしいご友人ですね」と言ったが、その声にはわずかな笑いが含まれていた。
「アーサーの声量で政治問題が解決するなら、サイド3へ拡声器を大量に輸入すれば済みます。残念ながら、事態はそこまで単純ではないでしょう」
「ええ。これから会う人物は思想家と呼ばれていますが、先方があなたに求めているのは思想への感想ではなく、あなたがどこに立つかという回答です。昨夜の手紙に資金という言葉がなかったからといって、財布を求められていないとは考えないでください」
「僕自身ではなく、僕の財布と会いたいのなら、金庫の管理責任者を寄越せばよいでしょう。そちらのほうが、僕より愛想もよく、帳簿にも詳しい」
「財布は自分で政治的な約束をしませんからね。あなたの価値は、金額を決められることに加え、その金をどの物語へ乗せるか決められることです。『地球の大富豪アズラエル家がサイド3の自治を支持した』という物語には、工場一つより大きな価値があります」
「僕の許可なく、勝手に僕を物語の登場人物へしないでいただきたいものです」
「昨日この街へ到着した時点で、すでに登場しています。あとは、どの役を演じるかを自分で選べるかどうかです」