【チラ裏】ムルタ・アズラエルは刻の涙を見る 作:d_chan
実際には止まっていなかったのだろう。サザーランド少尉も、ダイクンの後ろに控える職員も何も反応しておらず、乾いた風は変わらず頬を撫でていた。それでも僕の耳には、ニュータイプという言葉だけが異様に鮮明な音を残し、その後ろに続いたはずの呼吸も、衣擦れも、机の端で鳴った端末の通知音も、すべて遠くへ押し流されたように聞こえなくなった。
ニュータイプ。
知っている。
ジオン。
地球連邦。
宇宙世紀。
別々の棚へ置かれていた言葉が、頭の中で音を立てて一つにつながった。
「アズラエル君?」
ダイクンに呼ばれ、僕は自分が息を止めていたことへ気づいた。指先が冷たくなり、背中には汗が浮かんでいたが、ここで知っていると答えるわけにはいかない。前世の記憶があることも、この世界とよく似た物語を知っていることも、誰にも話していないのだ。
「失礼しました。ずいぶん、商品名らしい言葉だと思いましてね。古い人間に対して新しい人間を置けば、誰だって自分は新しい側だと思いたくなるでしょう。支持者を集めるには、よくできた名前です」
「君は、初めて聞いた言葉に驚いたという顔ではなかった。長いあいだ思い出せなかったものを、ようやく見つけたように見えたが」
「政治家だけでなく、人相を見る仕事までなさっているのですか。僕の顔色が悪いとすれば、昨夜よく眠れなかったせいですよ」
「そういうことにしておこう。君にも、まだ話したくないことがあるのだろう」
ダイクンは追及しなかったが、サザーランド少尉は何も言わずに僕を見ており、その視線は先ほどまでよりわずかに鋭くなっていた。彼も僕の反応を見逃してはいなかったらしい。
「ニュータイプが、人類の可能性を示すための名前だという点は理解しました。しかし、その言葉はあまりに危険です。新しい人間がいると言えば、古い人間もいることになる。では、誰が新旧を決めるのですか。宇宙で生まれた者は新しく、地球で生まれた者は古いのですか。あなたの思想を理解した者が新しく、反対した者は古いのですか」
「出生地や思想によって認定するものではない。ニュータイプは資格でも、血統でも、私が合否を決める試験でもない。地球に生まれた者であっても他者との壁を越えることはできるし、宇宙に生まれた者であっても憎しみへ閉じこもることはある。私が語っているのは、人類全体が進み得る方向だ」
「あなたがそう考えていても、あなたの言葉を受け取る者が同じ意味で使うとは限りませんよ。『他者を理解できる人間』という言葉は、すぐに『他者より優れた人間』へ変わり、『理解できない人間は劣っている』へ変わる。さらに都合のよい測定方法を誰かが発明し、その数字が高い者を集め、低い者を追い出し、最後には新しい人間が古い人間を支配するのは当然だと言い始めるでしょう」
「それは思想の誤用であって、思想そのものの罪ではない」
「作った者が意図しなかった使い方をされたから責任はない、と言えるのは、被害を受けない側だけです。工具を作る者なら、手を切る危険を考えて覆いを付けます。制度を作る者なら、善人が使う場合だけでなく、悪人や愚か者が使った場合にも壊れにくくしなければならない。思想だけが、正しく理解されることを前提に世へ出してよいとは思いません」
「では、誤用される可能性のある言葉は、すべて口にするなと言うのかね。自由も平等も平和も、何度となく人を殺す理由に使われてきた。だからといって、それらを語ることまで諦めれば、誤用した者だけが言葉を所有することになる」
「語るなとは言っていません。語るなら、危険も一緒に語ってくださいと言っているのです。人間は分かり合える、と言うときには、分かり合えないままでも同じ社会で生きる方法を用意する。人間は変われる、と言うときには、変わらない人間を処分しなくて済む制度を作る。僕は、人類が一斉に立派になる日を待って事業計画を立てるほど、気が長くありません」
「君は、人間そのものを信じていないのか」
「人間へ期待しすぎないことと、人間を信じないことは別ですよ。従業員が全員勤勉で正直なら、監査も品質検査も必要ありませんが、疲れて間違える者も、数字をごまかす者も、手順を忘れる者もいるから仕組みを作る。その仕組みがあることで、間違えた人間を一度で切り捨てずに済むのです。僕は、聖人でなくても安全に働ける工場のほうが、聖人だけを集めなければ動かない工場より信頼できます」
「つまり君は、オールドタイプのための世界を作ると言うのだな」
聞き慣れないはずのもう一つの言葉が、ニュータイプほどではないにせよ胸へ刺さった。オールドタイプ。やはり、この組み合わせを知っている。偶然だと笑い飛ばすには、知っている言葉が増えすぎていた。
「あなたの分類に従うなら、そうなるのでしょう。もっとも、僕は人間を新型と旧型へ分ける趣味はありません。新型の商品なら性能試験をして価格をつけられますが、新型の人間が旧型より幸福になる保証はないでしょう」
「幸福か。私は、人類の革新について語る者から、その言葉を十分に考えてこなかったのかもしれない」
「人類という大きな単位ばかり見ていると、一人分の食事や寝床は小さく見えますからね。前世で……いえ、昔聞いたことがあります。その女性は、活動家を名乗る人間から、君は可哀想な労働者だから我々と一緒に立ち上がるべきだと言われたそうです。彼女は仕事だけで手いっぱいだから手伝えないと断りました。すると彼は、理想の分からない人間は困ると言って去っていきましたが、彼の理想を理解しても、その彼女の夕食は一皿も増えなかったでしょう」
「その者は、女性を救おうとしたのではなく、自分の正しさを確認するために女性を使ったのだろう。だが、その一人を見て、理想を語る者すべてを判断するのは公平ではない」
「もちろんです。だから僕は、あなたの話を聞くためにここへ来ています。しかし、あなたがサイド3の住民を、理想へ賛同するための可哀想な人々として扱い始めたなら、同じ種類の活動家だと判断しますよ」
「手厳しいな。君のほうが私より、住民を信じているように聞こえる」
「信じているのではありません。自分の人生については、あなたより本人のほうが詳しいと言っているだけです。独立したい者も、自治権の拡大で十分な者も、政治より今日の売上が大切な者もいる。その違いを残したまま決定できる仕組みが必要でしょう。全員を一つの民意としてまとめれば演説はしやすいでしょうが、まとめる途中で切り捨てられた声は、いずれ別の不満になります」
ダイクンはすぐには答えず、机の上に置かれていた昨日の集会報告へ視線を落とした。そこには演説者の発言だけでなく、参加者数、途中で帰った人数、商店主から寄せられた苦情、警備員との接触がなかったことまで記録されており、彼が歓声だけを見ているわけではないことは分かった。
「私は、人類が宇宙へ出ることで変わると信じている。君は、人間が変わらなくても生きられる仕組みを作ろうとしている。出発点は違うが、生まれた場所によって未来の選択肢を奪われるべきではないという点では、同じ場所を見ているのかもしれない」
「同じ場所を見ているからといって、同じ道を選ぶとは限りませんよ。あなたは人間の意識を変えようとし、僕は意識が変わるのを待たずに環境と利害を変えようとする。どちらが正しいかは、結果が出るまで分からないでしょう」
「ならば、競争してみるかね。私が言葉によって人を変え、君が資本によって社会を変える。どちらが先に、地球と宇宙の関係を変えられるか」
「競争相手としては条件が不公平です。あなたは失敗しても思想が誤解されたと言えますが、僕は失敗すれば損益計算書に数字が出ますからね」
「それなら、私の思想にも監査を入れてくれ。君ほど遠慮なく欠点を指摘する人間は、周囲に多くない」
「監査報酬は高くつきますよ」
「その報酬を含め、今日は君へ相談したいことがある」
ダイクンが合図すると、控えていた職員が資料を机へ並べた。記されていたのは自治政府が計画する水再生設備の増設、学校区画の新設、旧式住宅の改修、港と工業区画を結ぶ貨物線の複線化で、昨日僕が街を歩きながら必要だと考えたものとほぼ重なっていたが、見積額には楽観的な数字が並び、資材価格の変動と連邦側の認可が遅れた場合の費用は十分に計上されていなかった。
「我々は、生活基盤の決定権を段階的に現地へ移すよう求めている。しかし、権限だけを得ても、それを支える設備と資本がなければ、地球側から『自治にはまだ早い』と言われる口実を与える。君には、この計画への投資に加え、サイド3の自治権拡大を支持すると公に表明してほしい」
「投資と政治声明を同じ契約書へ入れないでください。設備には出資できますが、自治権の範囲は住民と政府が交渉すべき問題であり、地球から来た企業家が金額を添えて賛成すれば、それこそ住民の意思を買うことになります」
「君が黙っていても、連邦側は君の投資を『現行制度への信頼』として利用するだろう。沈黙すれば中立でいられるわけではない」
「ですから、僕は沈黙するとは言っていません。『生活に関する決定は、結果を引き受ける住民の近くで行うべきである』とは表明できます。しかし、完全独立に賛成するとも、ダイクン派を支持するとも言いません。あなたがその文章を自治権拡大への支持として使うのは自由ですが、独立への全面支持に書き換えた場合は、翌日から広告使用料を請求します」
「政治声明へ広告使用料を請求する者は、君が初めてだろうな」
「前例がないなら、市場を独占できますね」
「本気で請求しそうだから、笑ってよいのか迷うところだ」
「笑っている間は無料です。印刷して配った時点から料金が発生します」
ダイクンは再び笑ったが、資料へ目を落とすと、すぐに政治家の顔へ戻った。
「投資の条件を聞こう」
「第一に、空気、水、住宅、教育、輸送など、住民の生活と産業へ直接使われること。第二に、武器、軍隊、武装した政治団体へ資金も設備も流さないこと。第三に、会計と雇用条件を公開し、あなたの支持者だけで役職を独占しないこと。第四に、僕とアズラエル家の名前を、事前の許可なく政治宣伝へ使用しないことです。この四つを守るなら調査団を派遣し、採算性と社会的効果を確認したうえで投資額を決めます」
「君は、自治政府が自衛のための組織を必要とする場合にも、資金を出さないのか」
「出しません。連邦側から同じ話を持ち込まれても断ります。武器を売る側が、戦争を止めるために必要だったと言い始めると、帳簿の利益が増えるほど平和を望みにくくなりますからね。少なくとも僕は、人を生かす設備と、人を殺す設備を同じ勘定科目へ入れるつもりはありません」
「武力がなければ、自治も独立も守れない状況が来るかもしれない」
「その状況が来る前に交渉してください。それでも間に合わず、どうしても武器が必要になったなら、僕以外の人間へ頼むことです。金を出す自由が僕にあるなら、出さない自由もあるでしょう」
「分かった。その条件で検討を始めよう。ただし、一つだけ覚えておいてほしい。政治性のない金など存在しない。君が武器へ出さず、水へ出すと決めたことも、どの社会を望むかという意思表示だ。君が自分を政治の外へ置こうとしても、金を使うたびに、君の望む未来は姿を現す」
「それは否定しません。僕が嫌っているのは政治ではなく、他人が僕の望む未来を勝手に決めることです。僕の金が何かを語るのなら、せめて僕自身の言葉で語らせますよ」